第8話:恋人じゃない、でも――



週明けの月曜日。

オフィスに入ってすぐ、ふと桐谷の姿を探している自分に気づいた。


(……おはよう、くらい言えばいいのに)


イベントで手をつないだあの日から、何かが変わった。

ただの仕事仲間から、“特別な存在”へ――

その境界線を、確かに超えた気がした。


でも。


「……おはよう、朝倉くん」

「おはよう」


それだけ。

桐谷はいつも通りだった。

変わらない声、変わらない笑顔。

まるで――あの休日がなかったみたいに。


(なんで、何も言わないんだよ……)


たしかに“付き合おう”なんて言葉は交わしてない。

でも、あの手のぬくもりが、全部嘘だったとは思いたくない。


***


その日の昼休み。

俺はひとり、社屋近くの公園に向かっていた。


桐谷のことを考えると、オフィスの中にいるのが息苦しくなった。

ベンチに座って、スマホをぼんやり見ていると、通知が一つ届いた。


【田嶋奈々】

「先輩、今日ランチご一緒しませんか?」


後輩の田嶋だった。

先日も何かと気を遣ってくれていた、気さくな後輩だ。


「……たまには、いいか」


返事を送って合流すると、田嶋は嬉しそうに微笑んだ。


「先輩、最近ちょっと元気ないですよね? もしかして……桐谷さん?」


「……なんでわかる」


「だって、すっごくわかりやすいですもん。

先輩、彼女のこと、ほんとに好きなんですね」


その言葉に、思わず言葉を失った。


「……でも、彼女は俺のこと、どう思ってるのか……わかんないんだ」


「それでもいいじゃないですか。

ちゃんと好きになって、悩んでるってことが、もうすごく素敵だと思うし――」


田嶋の言葉はやさしかった。


だけどその直後。


「あっ……」


田嶋の視線の先。

そこには――桐谷奈央と佐伯先輩が並んで歩いている姿があった。


しかも、佐伯先輩が笑いながら何かを手渡していて、

桐谷はそれを受け取って――微笑んでいた。


(……なんだよ、それ)


喉の奥が、急に焼けるように熱くなった。


手をつないだのは、俺じゃなかったのか。

あの時間は、俺だけが舞い上がってただけなのか。


「……ごめん、先輩。私、空気読めなくて……」


「……いや、こっちこそ。ちょっと、戻るわ」


ベンチを立ち上がった俺は、

そのまま午後の空気に溶けるように、職場に戻った。


桐谷の顔は、見たくなかった。


***


その日の夜、桐谷からチャットが届いた。


【桐谷奈央】

「今日、お昼……すれ違っちゃってごめんね。

佐伯先輩にお礼だけ言おうと思って。

ほんと、それだけだったの」


「でも、朝倉くんが嫌な思いしてたら、ごめん」


優しい言葉。

だけど――言葉だけじゃ、もう信じられない自分がいた。


返信を打つ手が、止まった。


「……気にしてないよ。また明日」


そう送って、俺はスマホを伏せた。


(嘘ついたな……俺)


俺は、嫉妬してた。

どうしようもなく、彼女の隣に誰かがいるのが、悔しかった。


恋人じゃない。

でも、もう“ただの同期”には戻れない。


だから、俺は決めた。


(はっきりさせよう。もう、逃げない)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る