第6話

       12 熊鍋


 庭と呼ぶのもおこがましいほどの面積だが、リビングの前には土の地面があって、生垣とのあいだに二階に届くカリンの木が植わっている。

 春にはピンクの可愛い花をつけ、その後びっくりするような大きな実ができて、晩秋に熟する。

 とてもいい匂いで、そのままでは食べられないけれど、はちみつに漬けてエキスをしみださせ、ソーダやお湯で割って飲むと美味しい。

 取るのは面倒なので落ちてくるまで放っておく。今も枝を折れんばかりにたわませて、結構な数が残っている。

 東京じゃなかったら大変だったな。

 木を眺めながら、出勤のため自転車にまたがろうとしていた立原菜央子は思わずにいられなかった。

 この秋、あちこちで熊騒動が起こっている。

 果物は熊を呼び寄せる。山里では、民家にある果樹の実を熟れないうちにもいだらしい。年寄りしかいなくて難しかったりすると、ボランティアが出向くなんてところもあるようだ。

 対策がされていなかったか、秋田だったかで庭の木に熊が登っているのをニュースで見た。

 遠目には大きな猫みたいだけれど極めて危険な動物である。爪が特に強力という。

 動物の爪は元来凶器だ。ドットですら、慣れていなかったころに引っかかれてずいぶん深く切れたのに驚いた。まだほんの子供だったのに、だ

 二桁くらい違う体格でやられたらちょっとやそっとで済まないだろう。実際何人も死んでいる。

 その夜、森本沙織、佐伯流奈との定例食事会があった。二人とも大学の同級生で、親友とも腐れ縁とも表現できる付き合いだ。

 菜央子は熊騒動を話題にした。

「プーさんとかテディベアとか、見る目が違ってきちゃうね。森の中で出会ったら、そりゃ逃げるしかないわ」

 しみじみつぶやいたのに。「あれ、熊が『お逃げなさい』って言うんだよ」と流奈が突っ込んだ。

「そうだっけ」

「なのに逃げたら熊が追いかけてくる」

「何でだっけ。怖すぎるよ」

「イヤリング落としましたよって、渡そうとしてくれるんだよ。いい熊さんなの」

「わけわかんない」

 子供の歌だから、とまとめに入ってくれた沙織に構わず、流奈はまたおかしな方向へ話を進めた。

「ナオんちの近くにも森、あるんじゃない」

「森ってほどじゃないけど」

 石神井公園を筆頭に。大きな木が茂った場所はいくつか思い浮かぶ。

「いるかもよ、熊」

「なわけないでしょ」

 沙織が即座に否定した。

「奥多摩ならともかくさ、練馬へんに森とか林とかあるったって、せいぜい二、三百メートル四方くらいでしょ。隠れきれないよ」

 もっともだと安心した菜央子だが、流奈はなお「分かんないよ」と言う。

「熊ってすっごく頭いいんらしい」

「いくら良くたってさ、それっぽっちの林じゃ一頭分の餌だって足りなくなるでしょ。ご飯探してうろうろ出てきて、すぐ見つかっちゃう」

 反論する沙織にちらっと眼をやっただけで、流奈はテーブルに置かれた串焼きを指さした。

 カシラ、ハツ、レバー、シロなどなど。素材に合わせて塩、タレを使い分けたお任せの盛り合わせである。

 壁に脂が染み込んだような昭和感あふれる店だが、錦糸町なんてディープな街まで遠征してきた甲斐あって、評判通りとても美味しかった。

 肩が触れ合うくらいぎっしり入った客たちが、大声でしゃべり合いながらひっきりなしに串を注文し、むさぼっている。

「東京にはいくらでも餌があるわけよ。残飯が出るし。調理の過程で捨てられる部分も少なくない」

「熊がゴミ漁ってたら、人目につくなんてもんじゃないでしょ」

「そこが東京の熊なの。その場じゃ漁らない。ごちそうが入ってそうなゴミ袋を選んで、住処まで持ってっちゃうの、夜中に。夜中にゴミ出す不届き者は必ずいるから」

「夜中に歩いてる人だっているでしょ、東京には」

「人が来たら、ぱっとうずくまって身体丸めるの。真っ黒じゃん。暗かったら気づかないよ。見ても毛布が捨ててあるくらいに思うんじゃない? 食料を持ち込んだら、あとはその小さな森でじっと寝てればいい。穴掘って引きこもってんの」

「よくそれだけ出まかせでしゃべれるわね」

 呆れたように沙織が首を振った。

「可能性に言及しただけよ」

「そこまで徹底的に人から隠れたい熊は、襲ってこないわね」

 今度は菜央子が収めようどしたのだが、流奈はやめない。

「残念ながらいつまでも安心してられないかもしれない」

「どうして」

「東北とかの熊だって、元から人を襲ってたわけじゃあない。去年までニュースもなかったでしょ」

「増えたから接触する機会が多くなったんじゃないの?」

「だとしてもよ、今までだって時々は出くわしてたはずよ。歌じゃないけどね。ただ、出くわしてもたいていは熊のほうから逃げた。本来すごく臆病な動物だから。でも今年は違う」

 流奈が引き合いに出したのは、福島で、露天風呂の点検に行った人が被害にあった事件だ。

「人間を怖がるどころか積極的に狙ってる」

 その熊は人食いだったのが、駆除されたあとの解剖結果などから分かった。

「何でそんなふうになっちゃったのか。食べ物だって木の実や草がメインで、死肉は口にしても、生きてる獲物を捕らえるなんて滅多になかったのよ」

 ちょっと気持ちが悪くなったのを我慢して、菜央子は「味をしめちゃったのね」と言った。

「その個体に関しては多分そう。でも、そのあと秋田とか青森とかで同じようなことがあったの、どう思う?」

「どうって――」

「人間は簡単に獲れるぞ、美味しいぞって教えて回ってる伝道師みたいな熊がいるとか」

「ええっ?」

「歩いて回ってるわけじゃなくても、テレパシーで交信してたらどう? 私たちには想像もできない力を持ってるかもしれないよ」

「まさか」

「信じられないかもしんないけど、他の動物で、テレパシーの存在を仮定しないと説明できないような現象が起きてるからね」

 声をひそめて流奈は「サルの芋洗い」問題を話しだした。

 海辺に住んでいたあるサルが、サツマイモを海水で洗うとほどよい塩味がつくことを偶然発見した。見ていたほかのサルも真似をして、いつしかそれは群れ全体の習慣になった。

 そこまでは一応説明ができる。

 ところがほぼ同じ時期、数十キロ離れた場所を縄張りにする別の群れでも、芋洗い行動が始まったというのである。二つの群れに交流はまったくなかったことが確認されている。

「あるのよ、やっぱりテレパシー。東北の熊のテレパシーが、東京まで届いたらどうなるかしら」

 しばらく黙っていた沙織が我慢できなくなったように「とにかく東京にはいないって」と言った。

「テレパシーもないと思う。同じような行動をさせる原因がどこかに隠れてるのよ。でなきゃ偶然」

 仕事帰りの今日はともかく、私服だとぎょっとさせられるファッションセンスの沙織だが、基本的には常識人である。

「サルについちゃよく分かんないけど、熊はやっぱり食べ物じゃないかな。私が聞いたのは、この何年か、一年置きにドングリの豊作、凶作になるサイクルなんだって。そしたら、豊作の次の年は子熊が増えるんだけど餌がない、だから人のいるところまで出てくるってなる。子供を守るために気も立ってる」

「なるほど」

 菜央子には素直にうなずる説だった。

「母性本能のなせるわざってわけね。沙織っぽい」

 茶化した流奈が子供いらない派、沙織は絶対欲しい派なので、話題がそちらへ流れ、やっと熊から離れた。

「生き物の基本でしょ」

「人類はもうじき滅んじゃうの。地球がもうぶっ壊れかかってるんだもん。子孫を残す意味なんかないの」

 流奈の言うことはいつもどこまで本気なのか判別できない。でもこの件については真面目にそう思ってる感じがする。

 関連は不明だが、彼女は喫煙派でもある。アルコールは菜央子ほど飲まないけれど、三十分に一回くらいタバコのために席を立つ。

「ニコチン摂取してくるわ」

 ポーチを持って外へ出た後ろ姿を見送って、菜央子は正面の沙織に目をやった。こちらが飲んでいるのは最初からずっとウーロン茶だ。

「私たちもう十年、こんなこと言い合ってるのよね」

「飽きないのが不思議っちゃ不思議ね」

 三人三様なのがいいのだろう。それぞれどうなっていくのか分からないが、縁は続きそうだと思う。

 気がついたら十時を大分過ぎていた。

 同じ東京とはいえ錦糸町と練馬はかなり離れた位置関係にある。沙織、流奈も多少ましな程度だ。急ぎモードで店を出る。

 菜央子は秋葉原で乗り換えだ。

「次は忘年会ね」

「熊に気をつけないとダメよ。串焼きの匂いさせまくってんだから、狙われやすいよ」

「はいはい」

 池袋経由で石神井公園の駅に着いたのは十一時半だった。

終電まで開いている駐輪場に向かいながら手袋をはめる。この時期の自転車には必需品である。

 商店街を抜けると石神井池のボート乗り場に出た。

 池の反対側には二、三十メートルクラスの木が並んでそびえ、右手奥へ続いてゆく。そちらは三宝寺池で、武蔵野の面影をよく残すと言われる。人の手が入っていないエリアもあるらしい。

 二十三区内なんて一応のことで、練馬の、美的に表現するならば自然の豊かさは地方に負けていないかもしれないなどと、バス通りを走りながら考えた。

 ネズミが自然の豊かさの指標になるかはともかく、イタチやタヌキは確実にいる。

 そういえば、石神井池にワニが潜んでいるという噂が昔広まった。都市伝説の類だと思うけれど、いても不思議ではない気にはなった。

 まさか熊も?

 馬鹿馬鹿しいと自分をたしなめつつ、マンションの前にごみ袋が出いあるとつい目を凝らしたり、距離をとったりしてしまう菜央子だった。


 月が代わって、啓介の日常は慌ただしくなった。

 もちろん仕事も年末立て込むが、シフト内の話なので拘束時間に変化はない。会社から勤務を追加してほしいと言われても受けないことにしている。

 主たる要因は家事だ。

 大掃除を欠かしたことはない。

 普段はやらないところも年に一度、ほこりを払ってきれいにする。でないとだんだんアンタッチャブルになってしまう。

 啓介は何事によらず、きちんと把握しておかなければ気がすまない。

 世の森羅万象というわけにいかないのはまあまあ若いうちに理解したけれど、自分で定めた範囲は隅から隅まで分かっていたい。

 その範囲も少しずつ狭まっている。だが、家くらい死守するつもりだ。

 掃除の前段階として整理がある。把握という観点からは掃除以上に重要だろう。

 把握しきれなくなるのを恐れる啓介は、モノを増やすことに極めて慎重だ。それでもさまざまな理由で空間のエントロピーが増大するのは防ぎきれない。

 例えば物置の一画にある紙袋入れ。

 買い物などでくれるのを貯めておき、主に紙ゴミを出すために使うのだが、貰ったのはとりあえずそこ入れてしまうからいつの間にかぐちゃぐちゃになっている。

 丈夫でほどよい大きさのものだけ厳選し、あとはそれ自体紙ゴミにする。ただ、デザインのいいものなど、使いづらくてもとっておきたい袋があって悩む。

 下着も、衣装箱からぶちまけるとずいぶんおかしなことになっている。

 洗濯が間に合わずコンビニで入手したパンツとか、二月ごろはいくらあっても足りないように思えたヒートテックのシャツなんかがほぼ新品のまま残る一方で、限界を迎えつつある、もしくは超えた古参兵も散見される。

 どれをボロキレにし、どれをあとひと働きさせるか熟考する。もちろん補充も必要で、そのためにはユニクロに足を運ぶ必要がある。

 なるべく電子書籍で買うようにしたため本棚には手がかからなくなった。それでも、家の中を一通りやっつけるには相当な労力と時間が必要だ。

 掃除ではガラスがやはり大仕事だ。

 スプレーをかけて汚れを拭き取り、もう一度乾拭きする。薬剤を完全に拭き取ることで曇りのない美しい窓になる。

 学生時代、ハウスクリーニングのアルバイトをやった経験があり、自信を持っていたのだけれど、五十を越したころから辛くなってきた。

 角度を変えてガラスをためつすがめつし、曇りを見つければ息を吐きかけて拭き上げた昔の元気はとてもない。拭きムラに気づきたくなくて、ざっと拭き終わったら急いで次に移る

 風呂のカビを取るのも換気扇を洗うのもきつい。しかしやめようとは思わない。家がみっともない状態なのは耐えられない。

 続けるためには時間をかけるほかないので、スタートが年々早くなる。

 大晦日になって大慌てなんていうのは昭和の漫画のフィクションとしても、三、四日あればなんとかなった時代も実在していた。おせちまで同時進行させていたのだから信じがたい。

 幸いタクシー運転手は、普通の仕事納めがない代わり、普段からある程度まとまった時間がとれる。

 このごろは師走の声を聞くと早々にとりかかることにしている。そのうち十一月からになるかもしれない。

 ガラスなら一日二枚とか、少しずつ、しかしたゆまず進める。そうすればいつか必ず終わる。

「偉いねえ、たっちゃんは」

 大下忠男が感嘆の声を上げてくれた。

 ホテイタクシ―赤羽営業所での朝礼前のひと時、顔を合わせた大下と雑談していて、年末の主夫業務に話が及んだ。

 大下は営業所の古参で、新米ドライバーだったころから啓介も何くれ世話になっている。

 お返しというわけでもないが、この春、大下の妻が乳がんの手術を受けた時、啓介が弁当を作って提供したらとても喜ばれ、彼の出身地である山形の山菜を取り寄せてもらって宴会を開いたりした。

 以後いっそう親交を深めるとともに、妻の負担を軽くすべく家事の手伝いを始めたという大下からお手本扱いされている。

「料理は案外面白えなって思いだしたんだが、片付けが面倒臭くてなあ。まして掃除ってなると――」

「何かを作り出すわけじゃないですからね。でも綺麗になるのは快感ですよ」

「コツコツも苦手だよ」

「そのへんは性格があるかもしれませんけど」

 勉強が得意だったのは、頭がよかったせいでなく努力したからだ。あえて言うなら、努力できることが啓介の才能だったのだ。謙遜、下手をすると嫌味に取られることもあるのであまり口にしないようにしているが。

「しんどくない範囲でいいんです。やろうっていう心があったらむちゃくちゃには散らかりませんから」

「まあな」

「奥さんも感謝してらっしゃいますよ」

 幸い手術はうまくいき、経過も順調と聞いている。

「お陰さんで。そうそう、たっちゃんに渡すものがあるんだ」

 大下は足元に置いていた紙袋を持ち上げた。ゴミ出しには十分過ぎる大きな袋だ。

 手渡されたそれはずっしり重い。銀色の保冷袋が見える。

「熊の肉だ。兄貴とこから送ってきた」

「へえ。ニュースなやつじゃないですか」

「そうだな。向こうは相当大変なことになってるみたいだ」

 大下は顔をしかめた。

「スーパーに入ってきたりするんじゃ避けようがねえしな。地区によっちゃ、子供が学校行くのも車で送り迎えしてるんだと」

「そんならしいですねえ」

「駆除に兄貴も駆り出されてんだ」

「猟、なさるんですか」

「ああ。俺はやんないけど。親父もじいさんも鉄砲撃ちだった。昔は多かったんだよ。プロじゃないけど、都会のハンターの案内やって小遣い稼いだりしてたな」

「猟師が減ったから動物が増えたんでしょうね」

「親父のころは、獲物がいなくなったって嘆いてたもんだけどな。鹿や猪もやたらに出て、畑がやられちまってる」

「増えすぎるのもねえ」

 うなずいて、大下は「悪さをするのは駆除しかねえだろ。なのに、こんなになっても役場に電話かけて文句言うやつがいるとか、信じられねえ」と吐き捨てた。

 殺生が苦手な啓介だが、同意のほかはない。

「食っちまうのが一番だよな」

「ですね」

 そうだ、肉だった。

 鹿や猪が美味いのは知っている。

 鹿はフレンチの王道食材である。体格の大きいエゾ鹿が多く流通しているが、ジビエブームと有害獣を有効利用すべしとの流れが合わさる中、二ホンジカも使われるようになった。

 豚の原種である猪が不味いはずもない。ボタン鍋が絶品だし、レストランで食べたローストや煮込みにも目を見張らされた。

 比べると熊は、食べられなくはないようだが、味のイメージが湧かない。

 中華料理に熊の手のひらの煮込みがあるという。満漢全席に出てくるような超高級料理らしい。

 肉球のことだろうか。熊のそれだと食べ応えがありそうだが、どちらかというと珍味の系統に属するのではないか。

 一番利用されてきたのは「熊の胃」、正しくは胆嚢だったようだ。乾燥させたものを薬にする。消化器官なので、やはり胃腸に効くとされている。

 効果のほどは分からない。しかし一番が薬ということは、味にそこまでの評価がないのかもしれない。

 一方で、滋賀県の北のほう、福井よりの山深いあたりに熊鍋を名物にしている料理旅館がある。

 写真の肉はほとんど脂ばかりに見えた。鯨ベーコンみたいだが、有名なグルメ評論家が「日本で食べられる肉の最高峰」とまで絶賛していた。

 その宿が通販もやっており、啓介も食べてみたいと思ったのだけれど、売り出し即完売になってしまうのと、びっくりさせられる値段なので、本当に美味いのか疑念を持っている状態では手が出なかった。

 タダで試せるチャンスが転がり込んできたのはラッキーだ。

「貴重なものをありがとうございます」

 礼を述べつつ、「美味いんですか」と正直な質問もしてみた。

「癖とか臭いはそんなにきつくない。人によると思うけど俺は好きだ。ただ固いんだよな」

 大下も正直に答える。微妙な評価である。

「どうやって食べるんです?」

「うちのへんじゃ焼肉か味噌煮込みかな。煮てもまだちょっと固い。でもたっちゃんならいい料理の仕方、知ってんじゃないか」

「いや、食べたこと自体ないんですけど」

 しかし啓介は基本的に珍しいもの好きである。興味と、闘志も湧いてきた。

「チャレンジします」

「期待してるぜ。これだってのが見つかったら教えてくれ。俺の分は冷凍して置いとくから」

「そこまで言われるとプレッシャーだなあ」

 ぼやいてみせながら、啓介はこのところ活躍している発泡スチロールのトロ箱に熊肉を収めた。

 大下も、啓介がトロ箱を持っていると知っているから生ものをくれたのだ。ただ肉の塊がいささか大きすぎた。トロ箱のフタがきっちり閉まらない。

「半分に切ってくればよかったかな」

「保冷バッグに入れてあるし、トランクの中は暖房が効かないから大丈夫だと思います」

 そう言ったのには、家に立ち寄って冷蔵庫にしまえばいいというつもりもあった。

 だが乗務に入ると、午前中に池袋のちょっと西になる落合まで客を乗せたあと、ほぼ山手線の内側を籠の中の鳥のように行ったり来たりするばかりでチャンスが訪れなかった。

 でなくても冬の寒さが頼りなくなっているのに、その日は十一月上旬並みという暖かさで、途中氷を買ってトロ箱に入れた。

 日が暮れて繁華街が主戦場になり、送りの時間帯に入っても練馬方面の客はつかなかった。

 朝までこのままでいくしかないかと諦めかかった午前零時過ぎ、石神井公園の駅で言えばひとつ先、大泉学園へやってくれと言われて、啓介は「今ごろかよ」と胸のうちで毒づいた。

 客を降ろして決断を迫られることになった。

 終電終了直後のゴールデンタイム、どれだけ早く繁華街に戻れるかが売り上げを左右する。

 しかし自宅は、おおまかに言えば繁華街へ戻る道筋である。立ち寄ってもそれほどのロスにはなるまい。

 朝まで、さらに営業所から家へ肉を運ぶとなると氷を替える必要があるだろうし、今、冷蔵庫にしまうほうがずっと楽なのは言うまでもない。

 運転が荒くならないよう気をつけて自宅を目指した。

 家の前の道は車がすれ違えない幅しかないので、曲がる手前にハザードを点けて停める。

 保冷袋に入った肉を持って、小走りで前まで行くと、予想通り、灯りは菜央子の部屋を含めすべて消えていた。

 淡い期待をもって玄関の鍵を開けたが、ゆっくり引いたドアはすぐがくんと止まった。

 チェーンロックがかかっている。今日父親が戻ってくるとは思っていないわけで当然だ。

 啓介ももちろん予想していた。インタホンを鳴らすのも忍びないから、こういう事態に備えて勝手口の鍵を持ち歩いている。

 実際、これまでも何度か使った。インタホンでも起きるか分からないくらいの菜央子だから気づかれたこともない。

 リビングの前を横切って勝手口に向かう。

 びっしり地面を覆ったカリンの葉をざくざく踏み分けながら、庭掃除はいつやろうかと啓介は考えた。

 十二月になれば葉が落ち切っていたのは昔の話。今は年明けまでかかるから、それまでは掃いてもまた汚れてしまう。

 正月に綺麗な状態にしておくにはぎりぎりまで待つほうがいい。しかし待っているうちに風が強まったら厄介だ。生垣の隙間から落葉が飛び出し、近所の玄関先に吹き溜まったりする。

 一回掃くか。できればまとめて済ませたいのだが。庭掃除一つでも頭を悩ませることがいろいろある。

 家の角に沿って脇へ回ると、カリンの木からは死角になって落葉が減り、泥棒避けに敷いた砂利が靴底に当たった。

 勝手口はそこから数メートルだけれど灯りがない。ビン、缶ゴミの日まで仮置きしている一升瓶につまづいた。

 鍵束を改めて出して、どれが勝手口のものか、目を凝らしていた時、上でサッシが開く音がした。

 見上げると、窓からそろそろ首が突き出されてくる。

 しまった、起こしてしまったと思った次の瞬間、菜央子は「ひっ」と声を上げた。今度は激しい勢いでサッシが閉められる。

 泥棒と間違われたらしい。通報でもされたら面倒なので、急いで中へ入り、階段を駆け上がった。

「俺だ。泥棒じゃない」

 ドア越しに声をかけると、ややあって、顔をひきつらせた菜央子が出てきた。普段は見られないメガネ姿だ。

 しげしげ啓介を見て「熊は?」とつぶやく。

「熊?」

 今度は啓介が驚いた。片手に保冷袋を持ったままである。

「これだけど――何でお前」

「これ? やっぱり熊いたの? パパ、平気だったの?」

「何言ってるんだ? お前こそ大丈夫か?」

 啓介は乗務中に家に立ち寄った理由を話した。

 動揺と寝ぼけているのと両方なのだろう、激しく頭のこんがらがった様子の菜央子だったが、何度か繰り返して説明するうち整理がついてきたようだった。

「熊は、いなかったってこと?」

「そんなもの、いるわけないだろ」

「でも、すごく頭のいい熊が――」

「賢かろうがアホだろうが、このへんにはいない。どうしてお前、物音がして真っ先に熊だなんて思うんだよ。俺の頭の中読んだのか? テレパシーかよ」

「テレパシー? やめて!」

 また怯えた表情になるわけもさっぱり分からなかったが、啓介は車のことが気になった。

「路上に停めっ放しなんだ。でなくたって書き入れ時だし。戻るよ。起こして悪かったが、妙ちきりんな心配しないで寝ろ」

「そうしたい」

「ああ、明日の晩は熊食うからな。うちで飯だったよな」

 伝えることを伝えて啓介はその場を離れ、仕舞うものを冷蔵庫に仕舞った。勝手口を施錠して車へ駆け戻る。

 幸い何事もなく、池袋に向けて出発したのだった。


「流奈め」

 ビールを喉に流し込んだ菜央子は毒づいた。向かいの啓介が面白そうに見ている。

「揺さぶったってなかなか起きないやつが、あれくらいの物音でなんて不思議だったんだ。ここんとこ、安眠から遠ざかってたわけだな」

「そうよ。あー腹立つ」

「しかしそりゃ、信じるほうがおかしいって」

「だって」

 口を尖らせて反論した。

「敏感になるの当然でしょ。今年の漢字一文字にもなってるのよ。清水寺のお坊さんが『熊』って書いてたじゃん」

「知ってる」

「それにさ、流奈ったらさ、ゴミ袋をこっそり持ってくとかさ、もっともらしいこと言うのよ。このへんに森っぽいところが結構あるのも本当だし、うちのカリン、どっさり実がついてるし」

「だからって真に受けるのは、やっぱり人間性の問題だな。根本的に騙されやすいってことだ。詐欺に遭わないよう気をつけてくれよ」

「娘をからかって面白い?」

「そんなこと言ってないだろ。俺だってあと一歩で面倒臭い目に巻き込まれるとこだったんだぞ」

 昨夜、菜央子は一一〇番より前に防犯ブザーを鳴らそうと必死になっていた。

 闇バイト強盗が頻発していたころに買ったもので、どこに置いたかすぐ思い出せなかったのが幸いしたが、啓介が二階に駆け上がるのがもう少し遅ければピンを抜いていた。そうなったら向こう三軒両隣、布団から飛び出したのではないか。

「しかしあの流奈って子、面白いな」

「昔からああいうやつだわ」

「ずっと付き合ってるんじゃないか」

「まあね。分かってるんだけど。でもしてやられるとやっぱりむっとしちゃう」

 からから笑って、啓介は「とにかく食おう」と食卓の真ん中に出した大皿に目を向けた。

「美味しいの?」

「よく分からんところもあるが、ものは試しだ」

 皿のほぼ全面、白く見えるのは脂身だからだ。何回か食べたことがある猪も脂がすごいが、熊はそれ以上だ。

 数センチにわたる下のほうには赤身も少しついているけれど、隠すように円を描いて敷き詰めてある。

 熊肉と言われてグロテスクなイメージを抱いていたが、意外に美しいビジュアルだ。

「月鍋って名前をつけてるらしい。ツキノワグマとかけてあるんだろうな」

 ここまで薄くスライスするのは大変だろうと思っていたら、案の定啓介から「凍りかけの状態にして切るんだ」と講釈があった。

「柔らかいままじゃ難しいからな」

「売ってるしゃぶしゃぶ用の肉とかもそうしてるのかしら」

「あれは機械でやってんだろ。でも、フグ刺は生を手切りだ。向こうが透けるくらい薄いのがいいって言うけど、名人芸だよな」

 肉と別に、水菜を山盛りにした皿がある。

 豚肉なんかと水菜を薄いダシにさっとくぐらせる「ハリハリ鍋」も冬になるとよく出てくるけれど、今日は味噌仕立てかと思われる、野菜や豆腐のたっぷり入った汁がカセットコンロの上で煮えていた。

「ここまで台所でやっといた。カセットコンロだと時間がかかるしな」

 一般的な鍋とハリハリのハイブリッドということらしい。

「じゃあさっそく――」

 啓介は熊肉を取り箸でつまんで汁の中で泳がせた。

 軽く縮んで皺が寄ったようになったのを、銘々鉢に入れ、少々の汁とポン酢を注いで一緒に味わう。

「おー、いける」

 唸ったもののあとが続かない。表現を思いつかないみたいだ。

「当たり前だが、牛とも豚とも違うな」

「じゃあ何なのよ」

 さらにしばし考えて「熊としか言いようがない」と白旗をあげたみたいにつぶやいた。

「何よそれ」

 予想を裏切るビジュアルでも、不審がぬぐい切れたわけではない。

 一番気になるのはやはり「脂っぽくないの?」だ。

「全然」

「全然ってことはないでしょ」

「ぐちゃぐちゃ言ってないで」

 しょうがないので、啓介にならって食べてみる。

「ん」

 想像とまったく違った。脂のぬめりは確かに感じない。猪同様、すばらしく軽い脂だ。

 ざらりとした食感だが薄いから簡単に噛み切れる。噛むと脂の風味だけが口の中に広がる。

 支配的なのは香ばしさだ。ナッツのそれが混じるように思うのはドングリなんかを食べているせいか。やはり猪に通じる。

 それでいて猪と別の味なのはどうしてだろう。

 香ばしさの奥に生々しさがある。

 肉も食べるからだろうか。清らかなだけではない、ダークなこともできますよという感じ。背徳性が官能性につながって、深みや奥行をもたらす。

 雑食の熊でこうだったらライオンや虎はどんな味だろうと考えてしまう。

 そんなことを口にしたら、啓介はちょっと驚いたみたいだった。

「言うようになったな」

「時々はね」

「熊に関しちゃ語ることがたくさんあるからか」

「そうかも」

「ネズミも食ったらいいリポートできるんじゃないか」

「やめて」

 TABIの同僚、劉文栄が話していた広東の鼠料理を啓介も知っているのか、本気で食べさせようとするんじゃないかと心配になったが、冗談だったみたいでほっとする。

 因縁は因縁として、少なくとも熊は美味しかった。

 そうと分かればどんどんいく。

「この汁、よく合うわ。猪のボタン鍋も味噌と、ゴボウよね。ジビエとは鉄板の組み合わせ?」

「その通りだが、今日は酒粕も入れた。ネットに出てたののパクリだけど」

 言われてみると味噌だけにしては白っぽい。甘さも加わって、熊の官能性が高まるように思う。

「鍋以外も作ったから味見してくれ。大下さんに、熊肉料理考えろって言われてるんだ」

 立ち上がった啓介が、レンチンした料理を二つ持ってきた。

 一つはシチューみたいな煮込みである。赤ワインとトマトを使っているそうでフレンチの定番だが、隠し味的に味噌をしのばせ、ゴボウを付け合わせにしている。

 鍋では肉を泳がせるだけだったが、こちらはじっくり煮込んでいるから液体に肉の味がたっぷり溶け出している。

「濃厚系もいいね。それに柔らかい」

「固いのが熊の欠点なんだ。特に赤身はきついんだが、圧力鍋は偉大だな。塊で大丈夫だな」

 そしてハンバーグ。

「これも固さ対策で、ミンチにした」

 見た目は普通のハンバーグだが、箸で割ると、湯気の中から熊の香りが立ち上った。

「美味しい。私はちょっと癖を感じるけど」

「これも、ゴボウのささがき入れるとか、ケチャップに味噌混ぜるとかしたほうがよかったか?」

「食べやすくなるよね。でもこのままも、慣れたら病みつきになりそうよ。あるいはハーブと一緒にとか」

「ハンバーガーもいいかもな」

「ワイルドね。熊が出没してる地域の観光資源にもなるんじゃない」

 仕事に引き付けたことを思わず口にしてしまったが、啓介は気づかなかったようだ。

「そうだな。それも大下さんに話してみるよ」

 日本酒を飲んでいた啓介だが、赤ワインを出してきた。

「エルマートで売ってるやつだけどまあまあいける」

 菜央子も知っているアルゼンチンのメーカーだ。南米のワインは値段の割に品質がいいと言われて人気が高い。

 日本語に訳すと「悪魔の蔵」というブランド名で、〈悪魔が盗み飲みするほど美味しい〉のが由来らしい。

 角の生えた顔が小さく印刷されたラベルは見たことがあったが、今目の前にあるのには、いっぱいに毒々しい色使いで悪魔が描かれている。

「どっちかっていうとこれは、悪魔が作ったワイン、みたいな感じじゃない?」

 ちょっと貰うよ、とグラスに注ぐ。

 血のように赤い。

 口に含むと、あざといくらいに強いフルーティーな香りと重々しい味わいが同居している。

「上等って感じはしないけど、悪くないだろ」

「いや、悪者の味じゃない?」

 菜央子は言った。

「ハンバーグなんか特に、ぴったりだと思うわ」


 クリスマスも過ぎて、詩織、流奈との忘年会の日になった。

 会場は渋谷の外れのスペインレストランだ。沙織が選んだ。

 このあいだの串焼きよりはお洒落っぽくというチョイスらしい。しかしここも席の間隔は狭く、わいわいがやがやのざっくばらんな雰囲気である。

 スペイン料理なら菜央子的には何と言ってもガスパチョだが、さすがに冷たいスープの時期でないようで、メニューを見ても見つからない。

 一緒にのぞきこんでいた流奈は「いいんじゃない、ここ。安いよ」と言った。

「何でもむちゃくちゃ値上がりだもんねえ」

 沙織がため息をつく。

「外国並みになってきたってことなんだろうけど」

 何気なくつぶやいた菜央子に「あんたはパパにいいご飯食べさせてもらってるから呑気でいられるの」と流奈の突っ込みが入る。

「食事代払ってるって」

「原価割れでしょ。ナオ、毎日四、五千のディナー食べてるようなものよ」

「毎日じゃないし」

 言い返しつつ、確かに啓介の料理は外ならそれくらい、いやもっとかもしれないと考える。

「そういやこのあいだ熊食べたよ」

「マジ?」

 沙織は目を丸くし、流奈もメニューに落としていた視線を上げた。

「美味しかった、すごく。確かにちょっと悪さもしそうな味だった」

「どういう味よ」と沙織。

「危険な味っていうか」

「余計分かんないよ」

「はっきり言えるのは」

 流奈が重々しく口を開く。

「ナオの身に危険が迫ってるってことだわ」

「何で?」

「熊は仲間を食った奴を許さない。ナオにはもう、熊の肉の匂いがついちゃってるからね」

「先々週の話だよ」

「そういう匂いはずっと消えないの。でね、熊はそれを十キロ先からでも嗅ぎつける」

「またまた」

「私の話を信じないなくても構わないけど。やられるのはナオだからね。熊は顔狙ってくるんだよ。襲われた人が、命に別状ないなんて出てても、実は鼻がもげてるとからしいよ」

「やめなってば。ナオは信じやすいんだから」

「大丈夫。もうそんなことない。練馬に熊はいないわ」

 流奈は改めて菜央子をじっと見つめた。

「ひょっとして、人を熊と思って騒いじゃったりしたの?」

 どきっとする。

「そんなことしないよ」

「ほんと?」

「あー、ナオならいかにもやりそう」

 沙織まで急に流奈の味方になった。

 流奈は危険な女だとつくづく思う。熊以上だ。いつも人を食っている。

「熊の料理、ないのかしら」

 載っていたのは鹿だけだった。

「スペインに熊、いるの?」

「それもあんまりイメージじゃないわね」

 言いながら沙織がスマホをいじる。

「違った。いるんだって。それもヒグマ。でっかいやつね」

「怖いじゃん」

「このごろ増えてきて対策がとられてるとか書いてあるわ」

「世界的な傾向ってことなの?」

 また菜央子は不安になった。温暖化とも関係があるのだろうか。地球が熊だらけになったりするのか?

「人類が滅ぶかもっていうのは、流奈の説通りなのかもしれないわねえ」

 珍しく賛同者になってやったのだが、彼女は料理選びに集中していて聞こえなかったようだった。

 結局、店イチオシのイカスミパエリャを中心に、生ハムや、ジャガイモがごろごろ入ったスペイン風オムレツなど、定番の前菜を選ぶ。

 菜央子はビール、あと二人はともにサングリアで乾杯した。

「あんまり変わり映えのない一年だったな」

 小一時間したころ、沙織が忘年会であることを思い出したようにつぶやいた。

「そお? 仕事、好調そうだったじゃん」

「数字が多少伸びたとしても、それ以上に労力かけてるんだもん」

「安定してるならいいじゃん」

「やる気搾取だよ。しんどい割に自分の成長も感じられないし。あの会社にずっといてもダメなかもしんない」

「隣の芝生は青いとかいうやつじゃない?」

「あいつが問題なんだよな」

 何度も聞かされている直属上司の名が出た。

「そのうち異動があるよ」

「あいつ、私のこと便利に思ってるから、連れていかれる気がすんだよね。こき使われ続けて婚活にも差し障ってんの。もうのほほんとしてられないっていうのにさ」

 笑っていると「菜央子は、転職成功したんだよね。いいな」と言われた。

「それは、やりたい仕事だったから」

「理由はともかく、環境を変えてみるのも大事かなって感じるのよ。現状打開するにはね」

「私も転職するよ」

 突然、流奈が口を挟んだ。

「え?」

「今の会社はあと二日。仕事納めが済んだらもう行かない。有休があるんでもうちょっと籍は残るけど」

「そんな話してなかったじゃん」

 理由を尋ねる沙織に、流奈は「金が要るようになったから」と答える。

「えー、給料悪くないでしょ」

 流奈がいるのは大手の製薬会社で、広報というポジションも事務系の花形だろう。仕事に情熱を燃やしていたとは考えにくいが、要領のよさで人並以上の成果を出しただろうことも想像に難くない。

「あれくらいじゃ足りないのよ」

「金持ちの男捕まえるんじゃなかったの。仕事はそれまでの腰掛けだって言ってなかったっけ?」

「予定が変わったんだよね」

 ただごとでなさそうなのにようやく気付いて、菜央子と沙織は顔を見合わせた。

 今度は菜央子が訊いた。

「何かあったの?」

「妊娠した」

 沙織は文字通りぽかんと口を開けた。菜央子の驚きもそう違わなかったと思う。

 二人の視線がお腹に向いたのに気づいたか、おへそのへんをちらっと見た流奈が「まだ三カ月ちょっとだけどね」と付け加えた。

「そのうちボテ腹になるよ。私、意外にも全身健康みたいだったから、この先も問題なく育って、生まれちゃうはず」

「流奈が健康なのは別に意外じゃないけど」

 菜央子がつぶやいたのにつられたように「そう、殺したって死ななさそうだといつも思ってたけど」と続けた沙織は、我に返って「何で流奈が妊娠するの」と金切声を上げた。

 ありがたいことに。周りのテーブルもそれぞれのおしゃべりに夢中で、注目を浴びなくて済んだ。

「無防備にやっちゃったからよ、もちろん」

「子供、絶対いらないっていってたじゃん」

 詰問調になる沙織をとどめて、菜央子は「相手、誰なの?」と訊ねた。

「変わってないよ」

「ハリポタが好きな人の後、どうなってたんだっけ」

「そいつだよ」

「別れたんじゃなかったの?」

「私はおしまいにしたつもりだったんだけど、しつこくてさ。家の前で待ち伏せして頭下げたりすんの。可愛くなってきて、しょうがないか、最後にもう一回だけってなった時に、多分途中で外れちゃったんだろうなあ」

「いいわ、あんまりリアルな説明は」

「そう? あんたたちも気をつけたほうがいいよ。しっかり確認、何度も確認」

「いいってば」

 沙織が再び「産むって決めたのはどうしてなの」と尋ねる。

「できちゃったものをなかったことにするのはやっぱり気の毒じゃない。私にもそのくらいの思いやりはあるんだって」

「そっちが意外」

「失礼ね」

 流奈は薄く笑って「こういう話してるとタバコ吸いたくなっちゃうな」と言った。

 そういえば今日はタバコのために中座していない。いつものポーチを持っていないようだ。

 この店のサングリアは、少しワインが入ったのも用意されている。最初から、沙織と同じ完全ノンアルのほうを選んだのは、忘年会続きだから控えてるのかな、なんて勝手に考えていた。

「それで人類の滅亡を阻止する気になったわけだ」

「私のDNA継いでるのが混じるとなるとねえ」

 それにしても、子供を持つことを熱望している沙織がパートナー探しから苦戦を続けているのに、皮肉な展開と言わざるを得ない。

 沙織としては複雑だろう。悔しいだろう。

 様子を窺おうとしたら、彼女はさっと立ち上がって斜め向かいの流奈のそばに寄り、肩を抱いた。

「元気な赤ちゃん産んでね」

 素直な祝福の心を表わした沙織に自分を恥じて、菜央子も「頑張ってね」と声をかけた。

「もちろん。頑張って稼ぐわ」

 いささかの違和感を抱いたのは菜央子だけではなかったらしい。

「さっきもお金がいるから転職するとか言ってたよね。子育ては間違いなく物入りだろうけどさ、しばらく休んでていいんじゃない。稼ぐのはとりあえず旦那に任せて」

 沙織が言ったのに流奈は即答した。

「あいつはだめ。籍入れるかどうかも分からない」

「そうなの?」

「思いやりとかは私の百倍くらい持ってそうだけど、頭あんまりよくないし。絶対稼げない。現に安月給だから、私が頑張るのよ。スタートアップ作るつもりよ」

「一人で? 何やんの」

「私のキャリア的に危機管理コンサルね。テレビ局の記者で弁護士とか警察に強いのがいて、一緒にやることになってんの」

「へえ」

「マスコミも先が見えないから、誘ったら喜んでた。あと会社の後輩」

「え。引き抜くつもり? 会社が困るんじゃないの?」

「知らないわよそんなの。もうじき関係なくなるんだし。あ、まだ人に言ってもらっちゃ困るけど」

 分かったのは、妊娠しても流奈は流奈だということだ。

「ハリポタ君、悪い人じゃないんでしょ。放り出したりしないであげなよ」と菜央子はとりなすつもりで言った。

「そうね。子供の面倒見させようかとは思ってる。ただ、家のことも仕事と同じで、うまくやるには能力が必要なのよね。ナオのお父さんみたいにはいかないだろうなあ」

 額に指をあてて考える仕草をした流奈は「そうだ」と顔を輝かせた。

「お父さん、うちに家政夫で来てくんないかな。タクシー会社くらいの給料出せるように頑張るから。スタートアップが軌道にのるまでは、あいつの給料全部回すのでどう?」

「どう、ってさ」

「家庭教師もできるよね。小さいころから鍛えて、人類と地球を滅亡から救う人材になってもらうわ。自分のことは自分で、よね」

「待ってよ、ナオのパパのこと、私も可能性としては残しときたいんだから」

 沙織が割り込んできた。

「まだそんなこと思ってたの」

 二人ともいい加減にしろ、と言いたいところだが、言って通用する連中ではない。

 とりわけ流奈の並外れぶりを今日はとことん思い知らされた。

 その流奈が、巻き髪を揺らして菜央子に微笑みかけてきた。

「熊の出産シーズンは今ごろなのよ」

「ああ、冬眠中に産むんだってね」

「ところがさ、このごろ冬眠しなくなってるから。特に東京はあったかいし食べ物も豊富。そうなる条件が揃ってる」

サングリアに口をつけて続けた。

「子連れが一番危険なの。ほんと用心して」

「分かったわよ」

抵抗する気もなくなって菜央子はつぶやいた。

「敵わない相手には逆らわないようにします」

 熊よりも、やっぱり人間が怖い。                   (了)

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