第五章 願いの花と、記されなかった未来

空を歩いている――そんな錯覚を覚えたのは、浮遊都市“シオン”の入口に立った瞬間だった。


 地面は透き通った青いガラスのような材質でできていて、遥か下に広がる雲の海を見下ろすことができる。風は柔らかく、涼しく、空気にはかすかに甘い香りが混じっていた。どこか懐かしい、春先の梅のような香りだった。


 凛の足元に、小さな白い花びらが一枚、ふわりと舞い降りた。


 見渡すと、街のいたるところに花が咲いていた。白、青、赤、黄色……色とりどりの花々が、建物の壁や窓辺、天井までも覆っている。まるでこの街全体がひとつの巨大な庭園になっているようだった。


「……きれい……でも、これって全部……?」


「“願いの花”よ」


 背後から、ふわりと優しい声が聞こえた。


 振り返ると、そこには一本の木の根元に腰かけた老女がいた。白髪を丁寧にまとめ、くすんだ緑のローブをまとっている。目尻のしわが深く、微笑みを浮かべたその顔には、どこか母のような温かさがあった。


「あなたが、“書き手”の子ね。ようこそ、願いの庭へ」


「……あなたは?」


「私は“願い守(ねがいもり)”。この花々を見守る者。ここに咲くのは、世界を旅した書き手たちの“未来への願い”。誰もが一度は、ここで願いを選ぶのよ」


 老女は立ち上がり、凛を案内するように花の小径を歩き出す。


「見てごらんなさい。あの青い花は、“成功を望む願い”。真紅の花は、“愛を手に入れたい願い”。黄色は、“永遠の安らぎ”。どれも美しいでしょう?」


 花々は、近づくと微かに“声”を発していた。


 「私は有名になりたい」

 「彼にもう一度会いたい」

 「苦しまなくていい未来を」


 願いの囁きは、どれも凛の胸に響いた。

 思わず、手を伸ばしそうになる。どれも魅力的だった。


「あなたはどんな未来を望むの?」


 願い守が問いかけた。


 ――私は、どんな未来を。


 幸せになりたい。仕事も成功して、誰かと笑い合って、穏やかな日々を送りたい。それが本音だった。だけど、それを“選んでしまっていいのか”という葛藤が胸にあった。


 「ここにある願いは、“他人が書いたもの”。あなたの願いではない。誰かの残した“理想”をなぞるだけよ」


 凛はハッとした。


「でも、私は……自分の願いがわからない。何が正解なのかも……」


「それでいいのよ。正解なんて、最初からないもの」


 老女はにっこりと笑って、凛の手に一枚の白紙の花びらを渡した。


「もしも、“記されていない願い”があるのなら、それを自分で書きなさい。それこそが、“あなただけの未来”」


 凛は深く息を吸い込んだ。ノートを開き、万年筆を持つ。


 そして、ゆっくりと書いた。


「私は、未来をまだ知らない。

 だから、自分の足で探す。

 私だけの、まだ見ぬ景色を信じて」


 その瞬間、白紙の花びらがまばゆく光を放ち、空高く舞い上がった。


 光は空へ、空は海へ、そして風へと変わり、街全体がふわりと揺れた。街の花々が一斉に咲き誇り、新たな色――淡い紫の花が、凛の足元に咲いた。


 老女が、まるで孫に語りかけるように言った。


「あなたの未来は、もう誰かに書かれたものじゃない。“今ここにいるあなた”が、決めるもの」


 空を見上げると、ふたつの太陽が寄り添うように輝いていた。ひとつは現実、ひとつは可能性。凛は、少しだけ笑った。


「……ありがとう。もう、迷わないと思う」


 老女は目を細めて頷いた。


「さあ、次の街へお行き。そこに、“あなたがこの旅に出た理由”が眠っている」


「……理由?」


「この世界の成り立ちと、あなた自身の選択。それを知るには、“ハコノモリ”へ向かいなさい。あなたが最初に開けた箱、その意味がそこにある」


 凛は新たに記された地図を握り、花咲く空中都市“シオン”をあとにした。


 振り返ると、淡い紫の花がそっと揺れていた。

 それは“記されなかった未来”が、初めて根を下ろした証だった。


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