第四章 鏡の街と、記憶の欠片

次の街“ミレナ”に向かう道は、まるで水面を歩いているかのようだった。地面はかすかに揺らぎ、凛の足音が静かに響く。空は群青色に染まり、ふたつの太陽は雲の奥へと隠れていた。


 ――静かすぎる。


 風もなく、虫の声もない。ただ、凛の呼吸と心臓の音だけがやけに大きく感じられる。


 やがて、視界の先に“街”が現れた。


 それは、まるで万華鏡の中に入り込んだような場所だった。建物の壁は鏡張りで、床も天井も反射する素材で作られていた。どこを見ても自分が映り込む。何人もの自分が、少しずつ違う表情でこちらを見返している。


「ここが……ミレナ?」


 凛は恐る恐る一歩を踏み出す。すると、足元の鏡が波紋のように揺れ、音もなく扉が開いた。目の前には一本の道が現れ、その両脇に鏡が連なっている。まるで、“見せられる”ことを前提にした通路だ。


 鏡の中の自分が、ふと動きを変えた。現実の凛よりも、ほんの少し早く顔を上げ、目を細め、そして口を開いた。


「やっと来たのね、凛」


 凛は凍りついた。声は――まぎれもなく自分自身のものだった。


「……なに、これ……」


「私は、あなた。“過去のあなた”。ここは“記憶の断片”が形を持つ場所。あなたが封じてきた感情や選択が、ここに映っているの」


 鏡の中の凛は、微笑んだ。その表情には、痛みと慈しみが混ざっていた。


「ここに来たということは、もう逃げないって決めたんだよね?」


「……なにから?」


「思い出すのが怖かったこと。“忘れたい”って思ってしまったこと」


 鏡の向こうに、映像が浮かび上がった。


 ――小学生の頃、親友のミカと喧嘩して、そのまま転校してしまった日。

 ――高校時代、合唱部の舞台で歌詞を忘れ、舞台裏で泣いた夜。

 ――大学のゼミで、自分だけ発言できず、誰にも気づかれなかった教室。

 ――社会人一年目、先輩の無責任なミスをかばって、上司に責められた日。


 全部、忘れたつもりだった。乗り越えたと思っていた。けれど、本当はずっと胸の奥でくすぶっていた“痛み”だった。


「あなたは、優しすぎるから。傷つくと、心ごとしまいこんじゃう。でも、それじゃ前に進めないよ」


 凛は、立ちすくんでいた。心のどこかが、軋むように痛む。


「わかってる。私は、逃げてた。変わりたくて転職して、環境を変えて……でも、結局“中身”は変わらないまま」


「だからこそ、この世界が君に試練を与えているの」


 新たな声が響いた。鏡の並ぶ道の先に、エルが立っていた。


「“箱庭”とは、記憶と可能性の集積体。この街は君の“記憶”の迷宮だ。乗り越えなければ、この先には進めない」


 エルは凛に、ノートを差し出した。


「書くんだ、自分の記憶を。思い出し、受け入れ、文字にすることでしか、記憶は昇華されない」


 凛はゆっくりとノートを開いた。ペン先が震える。けれど、彼女は深呼吸をして、最初の文字を記した。


 「私は、あのとき、怖かった」


 「私は、傷ついた」


 「でも、私はそれでも歩いてきた」


 書き終えると、鏡が静かに砕けていった。音もなく、光の粒子となって消えていく。そこに、かつての自分がいた証だけが、静かに残された。


「……ありがとう」


 鏡の中の凛が、最後に小さく頷き、消えていった。


 その先には、新たな道が開かれていた。


 エルが微笑む。


「次の街、“シオン”へ行きなさい。そこには、“未来”を選ぶ花が咲いている」


「未来を……選ぶ?」


「君が“なにを望むか”が、次の鍵になる」


 凛は頷き、砕けた鏡の破片の上を静かに踏みしめ、歩き出した。


 あの時、あの場所で泣いていた“私”は、もういない。

 この手にノートと万年筆を握る、今の私がここにいる。

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