第4話 上京

「五番テーブル、場内いただきました」

それが、あの頃の私の毎日の始まりだった。


白狼の家に居候し、彼女の紹介で働き始めたキャバクラのボーイ。昼の12時に出勤して、通りでキャッチをし、キャストの出迎え、店内の掃除。夜中の1時まで働いて、帰って寝る。そんな日々を、私は3か月ほど続けていた。


ある日、母から着信があった。

「学校辞めるなら手続きするから、一度帰っておいで」

少しだけ優しい声で、そう言われた。


本当は、戻るのが怖かった。けれど、いつまでも逃げてはいられないことも分かっていた。私は白狼と店長に「学校の手続きでお休みをください」とお願いした。


「短期バイトなんだし、きちんと話しておいで。必要ならまた戻ってくればいいよ」

そう笑って送り出してくれた白狼と店長に背中を押され、私はバイトを辞めることにした。


夜の世界は思っていたよりずっと礼儀正しくて、優しい人が多かった。いろんな背景を持つ人たちがいた。そんな人たちに囲まれていたからこそ、自分がうじうじしているのが恥ずかしくなったのかもしれない。だから、私は家に帰る決心をした。


「ただいま」


たった3か月なのに、玄関の扉はやけに重く感じた。

「おかえり」

玄関には笑顔の母、リビングのソファには腕を組んだ父が座っていた。


震えるような気持ちで家の中に入ると、父が静かに口を開いた。

「まず言うことがあるだろ」


母が私の肩をぽんと叩き、お茶を注いでくれた。

「ごめんなさい」

それがやっとだった。言いたいことは電車の中で何度も考えていたのに、目の前の父を前にすると、何も出てこなかった。


「それでいい」


父のその一言で、話は事務的に進んだ。翌日、母と一緒に学校に行き、退学手続きをすることになった。



あんなに好きだった学校が、こんなにも行きづらい場所になるなんて思っていなかった。


母と会議室のような部屋に通され、担任と学年主任から退学の意思確認があった。そのやり取りの記憶は曖昧で、気づけば私は先に教室を出て、玄関前で母を待っていた。


「学校、辞めるの?」


聞き覚えのある声が後ろからした。振り返ると、クラスメイト数人と、遥がいた。ちょうど昼休みで、私を見かけた誰かが声をかけて、みんなが集まってきたのだろう。連絡を無視していた私に、彼女たちは笑いかけてくれた。


「ごめんね、連絡しなくて」


そう謝ると、「実技のライバル減って助かるわ」「お菓子また食べ行こうね」「卒業式くらいは来なよ」なんて言葉が次々に飛んできた。


「また、どこかで会うかもね」

遥は、少し遠慮がちな優しい声でそう言ってくれた。


そのとき、母が戻ってきた。

軽く頭を下げ、「帰ろうか」と言った母の顔には、少し疲れた色がにじんでいた。


帰りの電車で、母がぽつりと尋ねた。

「この数カ月、どこで何してたの?」


私は少し迷ってから答えた。

「友達の家にいたよ」


本当のこと――キャバクラのボーイをしていたこと――なんて言えるわけがなかった。

子どもの頃から「夜の世界の人間は悪い人」と刷り込まれていたから。


でも、私は単純に“知らないものを悪と決めつけること”が苦手だった。


母とはその後、他愛もない話をして帰った。会話の中で、少しずつ母の表情が柔らかくなっていくのが分かった。きっと母も、ようやく肩の荷が降りたのかもしれない。



その夜。考えごとをしているうちに寝てしまい、「ただいま」という父の声で目が覚めた。


「下に降りてこい」


父の声に、私は階下のリビングへ向かった。いつものように、説教が始まった。

働くこと、社会の常識、家族のルール、父の成功体験――

私はただ頷きながら、聞いているフリをした。


「で、この前のことだけどな」

語気が強くなる。


「どこにいた?なぜ家を出た?」

その問いには答えられなかった。というか、どう答えればいいのか分からなかった。


沈黙が続いたあと、父が吐き捨てるように言った。


「まあいい。ただな、今後こんな真似はするな。お前のことが心配だから言ってるんだ」


そう言う父の声は、どこか“正しいことを言っている”という自負が滲んでいた。

私はその「正しさ」が、ずっと苦手だった。


「わかったよ、ごめんなさい」


それだけ言って、自分の部屋に戻った。



数日間、私は求人情報を見ながら仕事を探した。飲食かアパレル。高校時代のアルバイト経験を活かせる職に就こうと思っていた。


夕食の席で、父が尋ねた。

「仕事は決まったのか?」


「まだ迷ってる。飲食かアパレルで…」


そう言った私に、父は言い放った。

「甘いな。そんな仕事、なんの意味もないぞ。学校を辞めたんだからな」


期待していたわけじゃない。でも、ほんの少しの助言でももらえたらと思っていた私は、その一言がすごく悲しかった。


「じゃあ、もういいよ。自分で決める」


私は食事の途中で席を立った。

案の定、父の怒声が飛んできた。


「親に向かってその態度はなんだ!」


私は限界だった。

怒鳴り返した。


「もう、うるさい!」


そして、気がつけば叫んでいた。

「私、この家出ていく!」


泣きながら部屋に戻り、鞄を取り出して荷物を詰めた。


下からは「このバカが!出て行け!」という父の怒鳴り声が響いていたけれど、もう何も聞きたくなかった。



その夜、私は東京に行くことを決めた。

少し前にネットで知り合った女の子が神奈川に住んでいた。会いたかった。


翌朝、誰もいない家でゆっくりお風呂に入った。

鳥の声や猫の鳴き声、電車の音がやけに大きく聞こえた。昨日の怒鳴り合いが嘘のようだった。


荷物を持って、家を出た。

東京行きの夜行バスのチケットを買い、カフェで時間を潰す。


ブラックコーヒーを流し込みながら、「やっと、苦しい場所から逃げられる」と思った。


夜、私は東京行きの夜行バスに乗った。

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