第3話 小さな家出

「痛い、やめて、怒鳴らないで、ごめんなさい」

この言葉たちは、私の記憶の中で何度も繰り返される。両親との日々が刻んだ、痛みの記憶だ。


私が小さかった頃、父は怒るとよく蹴ったり殴ったりしてきた。もちろん、私が悪いことをしたり、父に反抗したときだけ――というのが父の言い分だった。

母はそのたびに「やめて」と口では言うけれど、私が謝るまでの間は別の部屋で泣いているだけだった。


我が家は裕福ではなかったけれど、生活に困ることもなかった。見た目は普通の家庭に見えていたと思う。ただ、父と母が求める“常識”の基準はほかの家庭よりずっと厳しくて、子どもだった私はいつもその圧に息苦しさを感じていた。


それでも、専門学生になってからは朝の練習やバイトで外にいる時間が増え、家庭のルールも以前より緩くなった。

――もう大丈夫。そう思っていた、あの夜までは。


「明日、友達の家に泊まるね」


そんな何気ない一言が、すべての引き金になった。ちょうどその日は、父の機嫌が最悪だった。


「泊まりはダメだ。専門学生になってから外泊が多すぎる。もっと真面目に学べ。それに、もっと女性らしい格好をしろ」


父の言葉に、私は思わず眉をひそめた。

半年ぶりの外泊だし、“女性らしい格好”という突然の言葉にも違和感を覚えた。


「半年ぶりだよ? それに“女性らしい格好”って何?」


その疑問を口にした瞬間、父の顔色が変わった。


「謝れ。土下座しろ」


耳を疑った。父は私を睨み、肩を上下に揺らしながら怒りで震えていた。何がなんなのか分からない私は、ただ一言、「嫌だ」と答えた。


「お前は昔から何も変わってないな! 謝れ、土下座しろ! それが嫌なら、出ていけ!」


怒鳴り続ける父の言葉に、私の中で何かが壊れた。私は無言で部屋に戻り、大きな鞄に荷物を詰めた。

そして、掲示板で知り合った“白狼ハクロウ”という友人に連絡を取った。



翌朝、目が覚めると家には誰もいなかった。

父は仕事、母は友人と出かけていたらしい。

テーブルの上には、母が作ってくれた朝食と「食べてね」という一言が添えられていた。私はそれを食べて、「ごちそうさま」と一言、メモに書き足した。


学校には行かなかった。入学してから初めての無断欠席だった。


「いってきます」


誰もいない家にそう告げ、荷物と製菓道具の入ったアタッシュケースを持って、私は家を出た。



市内のカフェで、白狼が待っていてくれた。

彼女は真っ白な髪と、笑うと見える八重歯が特徴的な人で、自由に生きるその姿が、当時の私にはとてもまぶしく映った。数少ない、同じレズビアンの友達でもある。


「仕事、探してるんでしょ?」


家を飛び出した私は、彼女に仕事を探してると伝えていた。

白狼は当時、キャバクラでボーイとして働いていたので、何かあてがあるのではと思ったのだ。家庭のことは細かく話せなかったので、ざっくりと「住む場所を探していて、学校も辞めるつもり。すぐに働きたい」とだけ伝えた。


白狼は一つ頷き、「学校のことはそのままにしておくのは難しいと思うけど、落ち着くまでうちにいなよ。仕事も、よかったらボーイやってみる?」と、静かに提案してくれた。


その足で彼女の職場へ向かい、私は短期のボーイとして働くことになった。



今思えば、あの頃の私は何も見えていなかった。

でも――変わりたかった。

どうにかして、あの息苦しい世界から抜け出したかった。

自分なりに、苦しみながら、それでも必死にもがいていたのだと思う。

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