第3話



 医師が去るとリュティスは寝台から立ち上がった。

 眼の奥は痛み、頭痛は収まらなかったが、数日間伏せ続けてこれ以上横になっているのも苦痛なのである。

 窓辺の椅子に座り直し、彼はそこで軽く背もたれに体重を預け眼を閉じた。



『リュティス』



 呼ばれてリュティスは頭を上げた。

 空耳だと思ったが数秒後もう一度呼ばれて窓が鳴った。

 窓辺に寄ってリュティスは半眼になる。


「……何してる」


 二階の窓辺にぶら下がった兄を冷たく見下ろした。


「なにって……会いに来たんだ」

「そんな馬鹿な答えは必要無い。どうやって入った。表は門が閉じて衛兵がいたはずだ」

 危なげに壁にしがみついている。

 病弱な麗しの第一王子が、壁上りなどしてるこの姿を王城の人間が見たら悲鳴を上げて失神するだろう。


 なにより……。


「王妃がまた怒鳴り込んで来るからやめろ」

「大丈夫だよ。誰にも見られない」

「だからそんなことは聞いてない。どうやってここに入った」

「アミアに教えてもらった木登りが役に立ったぞ。今度彼女に会ったら自慢するからリュティスが証人になってくれ。私が二階の窓まで上ったって」


「あの女……」


 リュティスが舌打ちしている。

 十三歳になり、王女としてのお披露目を終えたとか何とかで、隣国アリステアの末姫は最近頻繁にサンゴールに姿を現わすようになった。

 勿論以前から度々来てはいたが、今の比ではない。


 そしてやって来てはサンゴール王国の宝と言っていい第一王子グインエルを好き勝手にあちこち連れ回すので、侍女達はいつも嘆いている。


 結局なかなか帰らず王城に居着くので、姉であるエヴァリス王女が召喚されアミアの首根っこを猫のように掴み上げて、引きずりながら去って行くというのがアリステア流の退場の仕方だった。


 また来るねぇ~! と無遠慮に手を振りながら、

 もう二度と来ないでくださいまし! という侍女達の怒りの声をケラケラと受け流し、引きずられて帰って行くアリステアの姫を、グインエルは朗らかに笑いながら見送っている。


 リュティスは初めて会った時から五月蝿くてがさつなアミアが大嫌いだった。


「二階から落ちたという醜態まで晒されたいか」

「ちょ、ちょ、ちょっとリュティス! 本当に落ちそうだ!」


 グインエルが助けて、と手を差し出して来た。

 リュティスは再び舌打ちをする。

「貴様本当にあのがさつ女に似て来たな……」

 兄の手を面倒臭そうに掴み、引き上げる。

 グインエルはリュティスの助けを得て見事に部屋に転がり込んだ。

「はは……、大変だった!」

 リュティスは乱れた服を整えすぐに元いた椅子に戻る。

「さっさと帰れ」

「何故だい、折角来たのに。何かゲームでもしようリュティス」


「何がゲームだ」


 弟は吐き捨てる。

 グインエルが奥館に来ることを王宮の誰も望んでいないというのに。

 これが知れれば母妃はまた第一王子が殺されてしまう、などと怯えて発狂したように取り乱すだろう。

 そういう母を見て父はリュティスを叱る。


 お前は母を苦しめたいのかと。

 苦しめるつもりなどは無い。


 ただ母妃が苦しもうが喜ぼうが、自分にはもはや関わりないという気持ちしかなかった。

 この世に産み落されただけで母を苦しめているという話には、さすがにもう飽きて心も動かなくなっている。


 まるで向こうが子供のようだ。

 自分が大切にしている第一王子に気に障ることが起こると、癇癪を起こして泣き喚く。

 リュティスはそんな母の姿に辟易していた。

 母妃にそうさせない為にはただ一つ、兄に会わないことが最善の方法なのだ。

 それならリュティスはそれを選ぶ。

 何の躊躇いもなく、だ。


(それなのにこのバカは)


 リュティスは心中で毒を吐いた。

 いつかアリステアとサンゴールが争う日が来たら、一番にあの第二王女の首を取ってやりたい。

 グインエルはアミアカルバと会うようになってから、以前の温和だけだった性格から若干変化を始めている。

 以前はただ穏やかで、弟のことも遠くから見守っていようという感じがあり、こんなにずけずけと領域に踏み込んで来るようなことはなかったのに。

 この頃第一王子は言動も知識も全てあのアリステアの姫譲りになって来てしまった。


 身体が弱いため一切魔術を使うことが出来ないこの無能な兄に、巨大蟹モンスターの捌き方など教えてどうするんだと思う。

 あの巨大蟹モンスターの甲羅を加工するとそれは強度の強い弓が出来るのだと、偉そうに大振りの弓を手にしてグインエルに話しているアミアを目撃した時、リュティスは本気でその後ろ姿に何かを投げつけてやりたい気持ちになった。


「今、どんな本を読んでいるんだい?」

「お前には理解出来ぬ。いいから帰れ」


 リュティスは魔術書を閉じて苛々した様子で返す。

 今更、父母に詰られるのは痛くも痒くもないが、そんなくだらないことに時間を費やしたくはない。

 帰れと言ったのに兄はリュティスの側の椅子にどっかりと腰を下ろした。

「おい……」

 リュティスが本気で怒ろうとした時、グインエルはテーブルに突っ伏して突然呟いた。


「……アミアが帰ってしまうとなんだか淋しいな……」


「正気か貴様。それともあの女のバカが伝染したか」

「アミアは馬鹿じゃないぞリュティス。とても物知りだ。私より年下なのに何でも知っているし色んな所に行っている」

「王族として重要なことは何一つ知らんだろうが」


「リュティスはアミアが嫌いなのかい?」


 兄は澄んだアイスブルーの瞳で小首を傾げて来た。

 リュティスはさすがに呆然とする。

「好きという言葉を少しでも期待したというのか?」

「したさ。だってアミアがいるとリュティスも楽しそうじゃないか」

「貴様の両目も呪われているからすぐに刳り貫け」


「そうだ! アミアのあの瞳だよ」


「……お前、さては私の話を聞く気が最初から無いな」


「いつも楽しそうに輝いて、本当に綺麗なんだ。

 きっと色んなものを見て、色んな所へ行って、

 そういう自由な魂が彼女の瞳に出ているんだね」


「何が綺麗な瞳だ。あんなもの五月蝿いだけではないか」

 グインエルは鬱陶しがる弟を笑っている。

「リュティスの瞳もきれいだよ」

「私に対する厭味か」

 違う違う、と兄は首を振った。


「色んなことを自分でしっかり考えて、色んなことを学んでいる。方向性は違くてもそこにある強さは似てるんだ。だから私は最初から彼女を妹のように近しく感じたのかもしれないね。その強さは私にはどちらもないから、余計に眩しく思うんだよ」


 何を暢気なことを、あの第二王女がアリステア王国の策謀でお前に近づいていたらどうするんだとリュティスは言ったが、グインエルは相手にせずただ笑うだけだった。

「それはないよ。アミアは嘘が下手だから」


 リュティスも下手だな。

 兄は綺麗な瞳を細めて穏やかにそう笑った。




『グインエル。リュティスには会うな』



 

 父が言った。


 メルドラン王が第一王子にだけ聞かせる優しい響きを含む声。

 だからこの声を聞くとリュティスはいつも罪悪感に駆られた。

 明らかに本来自分が聞くべきではないものを、盗み聞いているような気持ちになるからか。

 そもそも『リュティス』というその言葉を、この父王がどういう感情を伴って口にしているのかがリュティスはいつも謎だった。


『お前が優しいが故にあの弟を気に掛けるのはよく分かる。しかしお前がリュティスに会うと母が悲しむのだ。……分かるな? グインエル』


 リュティスはうんざりした。

 場違いな場所に居合わせた偶然を呪い、すぐにその場を去ろうとした。

 するとそこへ、これはいつも通りの優しげな……穏やかな声で。


『父上、私がリュティスに会いに行くのは私が優しいからではありません』


 リュティスは足を止め、振り返っていた。

 廊下に兄と、腰を屈めてその兄に向き合う父の影が揺らめいて映っているのが見える。

『私がリュティスに会いに行くのは、リュティスが私の弟だからです』

 第一王子は言った。


 まるで父王こそを優しく慰めるような、穏やかな声だった。



『……兄が弟に会いに行くことを、悲しまれる母上こそが悲しい人なのでは』




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