第11話
あの日を境に、私たちの日常は一変した。私と陽菜さんは毎日のように『月影レコード』の閉店後、二人きりで曲作りに没頭した。蓮さんの魂が指揮する、奇妙で神聖なセッション。
曲は驚くべき速さで完成に近づいていった。蓮さんのメロディは陽菜さんのピアノと歌声を得て、みるみるうちに血肉を帯びていく。陽菜さんが紡ぐ歌詞は、蓮さんへの届かなかった手紙であり、そして過去の自分への決別の言葉でもあった。
『あなたのいない世界で 私はメロディを探していた』
『音のない部屋の隅で あなたの影だけを抱きしめていた』
その歌詞は陽菜さんだけのものではなかった。音を失った私の孤独とも奇妙に重なって聴こえた。私たちは蓮さんという一つの光を介して、それぞれの喪失を乗り越えようとしていたのかもしれない。
日々は充実していた。けれど私の心の中には、日に日に大きくなる不安の影があった。
気づいてしまったのだ。蓮さんのピアノの音が、少しずつ弱々しくなっていることに。
最初は気のせいだと思っていた。私の疲れのせいか、あるいは集中力が足りないせいだろうと。しかし違った。以前は嵐のように激しくはっきりと聴こえていた彼のピアノが、今は薄い霧の向こうからか細く聴こえてくるように、不確かになっていた。音が途切れがちになっている。まるでラジオの電波が弱まっていくように。
私はそのことを陽菜さんに言えなかった。曲の完成に心を躍らせている彼女に、水を差すようなことは言いたくなかった。何よりも私自身が、その事実を認めたくなかったのだ。
蓮さんとの別れが刻一刻と近づいている。その現実から私は目を逸らしていた。
だから焦った。もっと速く。彼の音が完全に消えてしまう前に。私たちは何かに追われるように、曲作りのペースを上げていった。陽菜さんは私のその焦りを、曲を完成させたいという情熱だと受け取っているようだった。彼女はその変化に気づいていない。音楽に夢中になるあまり、その根源である蓮さんの魂が少しずつ消えかけていることに、まだ気づいていなかった。
その日は突然やってきた。曲の大サビからアウトロへと向かう、最も重要な部分を作っている時だった。陽菜さんの歌声が感情の最高潮に達する。
「ここよ! ここで蓮なら、どんなピアノを弾く!?」
彼女が興奮した様子で私に問いかけた。私はいつものように意識を集中させ、蓮さんの音を待った。
しかし。
何も聴こえなかった。私の頭の中はしんと静まり返っていた。あれほど鮮明に聴こえていた蓮さんのピアノが、ぷつりと、完全に途絶えてしまったのだ。
「どうしたの、美桜ちゃん?」
陽菜さんが不思議そうに私の顔を覗き込む。
「教えて、蓮の音を」
パニックだった。息がうまくできない。心臓が氷水で冷やされたように痛む。失ってしまった。また、私は、音を。蓮さんという、唯一私に届いた最後の音を。
「聴こえない……」
私の唇から絶望的な呟きが漏れた。
「蓮の音が聴こえないの……!」
私は自分の頭を抱えて叫んでいた。私のその異常な様子に陽菜さんは驚き、ようやく事の重大さに気づいたようだった。彼女は私の肩を掴み、強く揺さぶった。
「どういうこと、美桜ちゃん! しっかりして!」
「今までのは、何だったの!? あなたはどうやって蓮のメロディを……」
もう隠し通すことはできなかった。私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、すべてを告白した。この半年間のこと。音の世界から色が失せてしまったこと。『月影レコード』で偶然、蓮さんのピアノの音だけを聴いたこと。その幽霊の音を頼りに、私が楽譜を書き起こしていたこと。
荒唐無稽な話だ。普通なら誰も信じないだろう。けれど陽菜さんは、私の話を黙って最後まで聞いてくれた。彼女はこれまでの奇跡的な曲作りの過程を思い返していた。私が蓮のメロディを知っていた理由。私が蓮の音楽の癖まで理解していた理由。そのすべてのピースが今、一つに繋がったのだ。
「……そうだったのね」
陽菜さんは静かに言った。
「あなたは、ずっと蓮の声を聴いていたんだ。だから、彼の心がわかったんだわ」
彼女は私の告白を驚くほどすんなりと受け入れた。そしてはっとしたように顔を上げた。
「待って。じゃあ、蓮の音が弱まってるって……それってもしかして……」
私たちは顔を見合わせた。そして二人同時に同じ結論に行き着いてしまった。
この曲の完成が、蓮さんの成仏を意味するのだと。彼の魂は、この曲を完成させ陽菜さんに届けるという最後の心残りを果たすためだけに、この世に留まっていたのだ。そしてその役目が終わろうとしている今、彼の存在そのものが希薄になっている。
曲を完成させたい。蓮さんの最後の想いを最高の形でこの世に残したい。でもそれは、蓮さんが完全に消えてしまうことと同義だった。完成させなければ、彼は消えないのかもしれない。でもそれでは彼の想いを踏みにじることになる。
私たちは究極のジレンマに叩きつけられた。
「どうすれば、いいの……」
陽菜さんの声は途方に暮れていた。私も答えなど出せるはずもなかった。重い沈黙が私たちの間に横たわる。
その時だった。店の奥から田所さんが静かに声をかけてきた。彼はいつから私たちの話を聞いていたのだろうか。
「蓮くんならきっとこう言うでしょうな」
彼は優しい目で私たちを見つめていた。
「『最後まで、ちゃんと聴いてくれよ』って。あいつは、そういう奴でしたから」
田所さんの言葉に、私たちは顔を上げた。そうだ。蓮さんの想いを無駄にしてはいけない。彼が命を削って私たちに託してくれたこの最後のメロディを、中途半端なまま終わらせてはいけない。
残された時間はもう僅かしかないのかもしれない。だとしても、その時間の中で最高の曲を完成させるしかないのだ。それが私と陽菜さんにできる、唯一の彼への恩返しだった。
私たちは涙をぐっとこらえた。そして再び楽譜に向き合う。その目には悲しみよりも強い、決意の光が宿っていた。
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