第10話
陽菜さんは信じられないものを見る目で、テーブルの上で動く私の指先を凝視していた。その指がなぞっているのは、音のないメロディ。私の頭の中にだけ響いている、蓮さんの新しいフレーズだった。
「……嘘でしょ」
彼女は呟いた。けれどその声に以前のような拒絶の色はなかった。あるのは純粋な驚きと、音楽家としての鋭い洞察力だった。私の指が描く旋律の軌跡から、彼女は音楽的な論理を超えた何かを感じ取っているようだった。そこには蓮さんだけが持つ、独特の「癖」が滲み出ていたのかもしれない。少しだけ意地悪で、でも最高に美しい和音を不意に差し込んでくるような、彼らしい遊び心が。
「今のメロディ……もう一度」
陽菜さんの声は真剣だった。
「今度は、音にして。弾いてみて」
私たちは田所さんにお願いした。店が閉まった後、少しだけこの場所を貸してほしいと。田所さんは何も聞かず、ただ穏やかに頷いてくれた。「あいつがそうしたいと望んでいるんだろうから」と、優しい目で私たちを見ていた。
陽菜さんは鞄から取り出したスマートフォンで、ピアノのアプリを立ち上げた。私はその小さな画面に表示された鍵盤に向き合う。カフェの静寂の中、私は再び蓮さんのピアノに意識を集中させた。
ぽろん、と。
澄んだ音が、私の頭の中に響き渡る。私はその音を一つも聴き逃すまいと必死だった。聴こえてくる音をスマートフォンの小さな鍵盤で再現していく。それはもどかしい作業だった。けれど陽菜さんは私の拙い演奏を、全神経を集中させて聴いていた。
やがて彼女は自分のスマートフォンを手に取り、私が弾いたメロディにそっと和音を重ね始めた。二つのスマートフォンから流れる、チープな電子音。しかし私たちの間には、確かに奇跡が生まれていた。
私が幽霊である蓮さんの音を「受信」する。そしてそれを陽菜さんに「翻訳」して伝える。陽菜さんはその指示に従って、蓮さんのメロディに命を吹き込んでいく。
まるで私が蓮さんの指揮者になったかのようだった。いや、巫女といった方が近いのかもしれない。見えない存在の言葉を、現世の人間へと伝える、神聖で切ない役目。
「そう、蓮はいつもそうだった」
陽菜さんが懐かしそうに呟いた。
「私が作ったメロディに、いつもそういう音をぶつけてきた。私が思いつきもしないような、少しだけ意地悪で、でもどうしようもなく美しい響きを」
彼女の瞳は遠い過去を見ていた。二人で一つのピアノに向かい、ああでもないこうでもないと笑いながら曲を作った夜。音楽性の違いで些細なことで喧嘩をしたこと。彼の圧倒的な才能に焦がれると同時に、どうしようもなく嫉妬してしまったこと。
彼女の回想は、私の知らなかった蓮さんの一面を鮮やかに描き出していく。私が聴いている蓮さんの音はひどく悲しくて、孤独な色をしていた。けれど陽菜さんの記憶の中にいる蓮さんは、もっと複雑で人間らしい光と影を持っていた。
「あいつ、私が作ったバラードを聴いて『そんなありきたりなコード進行、退屈で眠くなる』なんて言ったのよ。ひどいでしょ?」
陽菜さんは少しだけ笑った。
「でもその三日後に、私の曲のコードを全部書き換えた楽譜を持ってきた。それがもう、悔しいけど鳥肌が立つくらい素晴らしくて……」
その思い出話は蓮さんのメロディそのものだった。独善的で不器用で、でもその奥にある愛情は誰よりも深い。だからこそ、彼の音楽は人の心を打つのだ。
カウンターの奥では、田所さんが静かにグラスを拭いていた。彼は私たちの邪魔をしないように、ただそこに存在していた。しかしその背中が、この奇跡的な時間を誰よりも喜んでいることを物語っていた。彼の心にもまた、若い頃の蓮さんと陽菜さんの姿が蘇っているのかもしれない。この店の片隅で夢を語り合い、じゃれ合うように音楽を奏でていた二人の姿が。田所さんはそのすべてを記憶している、この物語の生き証人なのだ。
曲作りは深夜まで続いた。不思議なことに、陽菜さんがピアノを弾くと蓮さんのピアノもそれに呼応するように、より豊かになっていく気がした。まるで陽菜さんの演奏が、彼の魂を励まし力を与えているかのようだ。
二人の天才的な音楽家のセッションに、一人の幽霊が加わっている。その奇妙であまりにも美しい時間は、永遠に続いてほしいと願うほど満ち足りたものだった。
そしてついに曲のサビの部分が、ほぼその形を現した。それは悲しみも後悔もすべてを包み込んで、その先にある光と赦しを感じさせるような、あまりにも感動的なメロディだった。絶望の底から空に手を伸ばすような、祈りの歌。
最後の音を弾き終えた陽菜さんは、そのままスマートフォンの上に突っ伏した。彼女の肩が小さく小刻みに震えている。やがて聞こえてきたのは、押し殺したような嗚咽だった。
「……おかえり」
陽菜さんが呟いた。
「おかえり、蓮……」
その言葉は私の胸を強く、強く締め付けた。私を通して二人は再び出会えたのだ。時空を超えてその魂を触れ合わせることができたのだ。この奇跡の瞬間に立ち会えたことに、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
涙が私の頬を静かに伝っていった。けれどその涙には、喜びだけではない別の感情が混じっていた。
予感がしたのだ。この曲の完成が近づくほどに、蓮さんの存在がこの世界から消えていってしまうのではないかという、漠然とした、しかし確かな予感が。彼の魂は、この曲を完成させるためだけにこの世に留まっているのではないだろうか。
喜びと悲しみが私の心の中で激しくせめぎ合っていた。私は蓮さんとの別れのために、この曲を作っているのだろうか。
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