第12話
私たちは覚悟を決めた。蓮の音が完全に消えてしまう前に、彼の魂のすべてを形に残す。
陽菜さんはすぐに行動を開始した。彼女は知り合いのプロデューサーに連絡を取り、都内の一流レコーディングスタジオを翌日のために押さえた。そして自分が最も信頼するミュージシャン、ベーシストとドラマーにも声をかけた。最高の音で、蓮の最後の曲を録音するために。
翌日、私たちはそのスタジオにいた。巨大なミキシングコンソールが鎮座するコントロールルーム。ガラスの向こう側には、楽器がセッティングされたレコーディングブースが見える。
私はあの事故以来、初めて本格的なスタジオに足を踏み入れた。かつては私のすべてだった場所。そして私のすべてを奪った場所。フラッシュバックが起きるかと身構えた。けれど不思議と恐怖は感じなかった。今の私には恐怖よりも遥かに強い使命感があったからだ。
蓮の音を一つも聴き逃さずに、この世に記録する。その想いが私のトラウマを乗り越えさせていた。
私はエンジニアが座る椅子の隣に補助の椅子を用意してもらい、そこに座った。陽菜さんはブースの中にいた。彼女は集まってくれたミュージシャンたちに深く頭を下げた。
「今日は、私の人生で一番大切な曲を録音します。だから、どうか皆さんの最高の演奏を貸してください」
彼女は事情を完全には話さなかった。けれどその鬼気迫るような表情から、バンドメンバーもただ事ではないと感じ取ったのだろう。スタジオ全体が心地よい緊張感に包まれていく。
「じゃあ、行こうか」
プロデューサーの合図でレコーディングが始まった。カウントの音が鳴り、陽菜さんのピアノからあのイントロが流れ出す。私はヘッドフォンをつけ、目を閉じた。
頼む、蓮。まだ、そこにいて。
私の祈りが届いたのだろうか。聴こえた。弱々しい。けれど確かにそこに存在する、蓮のピアノの音が。私は隣に座るエンジニアに、次々と指示を出していく。
「ここの周波数を、少しだけ上げて」
「ピアノのトラックに空間系のエフェクトを薄くかけてください。彼がいる場所がわかるように」
「彼の音は決して前に出さないで。陽菜さんの歌声に寄り添うように」
私の指示は常識では考えられないものだった。エンジニアは怪訝な顔をしながらも、私の真剣な眼差しに押されその通りにコンソールを操作していく。彼は、私が「存在しないはずの音」をミックスしていることに、気づいているはずだ。けれど彼はプロだった。何も言わずに私の要求に応えてくれる。
私はかつて自分が持っていたすべての技術と知識、そして今の私にしかできない特殊な能力を融合させ、奇跡の録音を進めていった。
ブースの中では、陽菜さんの歌声が響き渡る。それは今まで聴いた中で最も感情のこもった、魂の絶唱だった。彼女の歌声に導かれるように、バンドの演奏も熱を帯びていく。
そしてレコーディングは佳境に差し掛かった。曲のクライマックス。陽菜さんの歌声がファルセットの最高音に達する、その部分。蓮のピアノも最後の力を振り絞るように、最も美しく力強いフレーズを奏でた。それは陽菜さんの歌声と完璧に絡み合い、天に昇っていくような圧倒的なハーモニーを生み出した。時空を超えたデュエットが最高の形で、デジタルのデータに刻み込まれていく。
その神々しいほどの瞬間を録り終えた、直後だった。
ふっ、と。
蓮のピアノの音が静寂の中に消えていった。まるで、役目を終えた蝋燭の火が静かに消えるように。あまりにも、あっけなく。私のヘッドフォンの中には、もう陽菜さんとバンドの演奏の残響だけが残っていた。
「……終わった」
私は悟った。蓮はもういない。彼の魂はこの曲の完成と共に、光の中へと旅立ってしまったのだ。涙が堰を切ったように溢れ出てきた。けれど今は悲しみに浸っている場合ではなかった。私にはまだ、エンジニアとしての最後の仕事が残っている。この奇跡の録音を、最高の作品に仕上げるという重い責任が。
私は涙を拭うと、再びコンソールに向き直った。
「今のテイク、OKです。これで、先に進みましょう」
私の冷静な声にプロデューサーも頷いた。ガラスの向こう側では、歌い終えた陽菜さんがマイクの前で静かに天を仰いでいた。彼女もまた、すべてを悟ったのだろう。その美しい横顔を一筋の涙が静かに伝っていくのが見えた。
私たちの奇妙で切ない共同作業が終わった。一人の幽霊との永遠の別れ。そして一つの奇跡的な音楽の誕生。
その二つが同時に訪れたスタジオには、悲しいほどに美しいメロディの残響だけが、満ちていた。
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