第2話

あの日以来、私の足は自然と「月影レコード」へと向かうようになった。あのピアノの旋律が、幻聴ではなかったと確かめたくて。そして、もし本物なら、もう一度聴きたくて。

店のドアを開けると、カラン、とあの澄んだベルの音が迎えてくれる。店主の田所さんは、いつもカウンターの奥で静かに本を読んでいるか、レコードの整理をしているかだった。彼は多くを語らない人だったが、私が毎日同じ時間に現れては、珈琲一杯で何時間も過ごすのを、何も言わずに許してくれていた。

そして、必ず聴こえてくるのだ。あのピアノが。

それは決まって、店内のレコードが途切れた、完全な静寂の中に現れる。ぽつり、と始まる単音。やがてそれは、切ない和音を伴い、一つのフレーズを形作る。何度も、何度も、同じフレーズが繰り返される。それはまるで、何かを訴えかけているかのようだった。

私は、その音の主を探そうとした。最初は、店のどこかに隠されたスピーカーがあるのではないかと疑った。けれど、田所さんにそれとなく尋ねてみても、「ここにあるのは、このプレーヤーだけですよ」と、穏やかに微笑むだけだった。次に、近所の家から漏れ聞こえてくるピアノの音ではないかと考えた。でも、店の外に出た途端、その音はぷつりと途絶えてしまうのだ。音は、間違いなくこのカフェの中だけで鳴っている。

そして何より、その音は、私にしか聴こえていないようだった。ある日、旋律が最高潮に達した時、私は思わず隣の席に座っていた若い女性客に尋ねてしまった。「このピアノ、聴こえませんか?」と。彼女はきょとんとした顔で私を見て、「いいえ? ジャズ、止まっちゃいましたね」と首を傾げた。その瞬間、確信した。この音は、私だけのものなのだと。

それは、恐ろしいというよりも、不思議な安らぎを私に与えた。世界中の音がノイズにしか聞こえない中で、このピアノの音だけが、かつてのように私の心に直接届く。その音は、私の壊れた聴覚をすり抜けて、魂に直接響いているような気がした。

今日も私は、いつもの窓際の席で、カップを両手に温めながら、その時を待っていた。やがて、ビリー・ホリデイのレコードが終わり、静寂が訪れる。一秒、二秒。そして、聴こえてきた。

ぽろん、と。

いつもの、悲しい単音。けれど今日は、少しだけ様子が違った。いつもなら同じフレーズを繰り返すだけなのに、今日はその先に、新しいメロディが続いている。それは、今までよりも少しだけ、希望のような響きを持っていた。まるで、私の存在に気づいて、何かを伝えようとしているかのように。

私は、鞄から小さな五線譜のノートとペンを取り出した。サウンドエンジニアの癖で、常に持ち歩いているものだ。震える手で、聴こえてくる音を一つ一つ、譜面に書き留めていく。ド、ミ、ソ……。かつて、当たり前のようにやっていた作業。それが、今はこんなにも神聖な行為に感じられる。

夢中で音符を書き連ねていく。すると、ピアノの旋律が、さらに変化した。私が書き留めたフレーズに応えるように、新しい和音が重なる。それはまるで、言葉のない対話のようだった。私が「あなたの言いたいことは、これですか?」と譜面で問いかけると、ピアノが「そう、そして、続きはこうだよ」と答えてくれる。

信じられないような体験だった。私は、音と会話している。この正体不明の、幽霊のような音と。

どれくらいの時間が経っただろう。気づけば、ノートには数小節分のメロディが書き記されていた。そして、ピアノの音は、ふっと消えていた。まるで、今日の分の対話は終わりだ、とでも言うように。

私は、書き留めたばかりの楽譜に視線を落とした。美しく、切なく、そしてどこか懐かしいメロディ。でも、明らかに未完成だった。物語の序章だけが語られ、その先がぷっつりと途絶えている。

「……誰なの」

思わず、声が漏れた。誰もいない空間に向かって。

「あなたはいったい、誰なの……?」

答えはない。ただ、珈琲の冷めていく匂いだけが、静かに漂っていた。

その日の帰り際、私は思い切って田所さんに話しかけてみた。

「あの、田所さん。このお店……昔、ピアノを弾く人、いませんでしたか?」

田所さんは、レコードを拭く手を止め、少しだけ遠い目をした。

「ピアノ、ですか……。ええ、いましたよ。もう、ずいぶん昔のことですがね」

彼の視線が、カウンターの隅に置かれた一枚の写真立てに向けられた。そこには、少し色褪せた写真が飾られている。優しそうに笑う、若い男性の写真だった。

「彼は、ミュージシャンでね。ここでよく、曲を作っていたんです。ピアノはなかったから、いつもギターを抱えてね。でも、頭の中では、いつも壮大なピアノの音が鳴っていたらしい」

「その人は……今……」

「……事故でね。若くして亡くなりました。もう、二年になりますか」

田所さんはそう言って、寂しそうに目を伏せた。

私の心臓が、大きく音を立てた。写真の中の青年。優しげな瞳。彼が、この音の主……?

「彼の名前は、相葉蓮くん。……あいつ、最後の曲が完成しないまま、逝ってしまったんですよ。それが、心残りだったんじゃないかなあ」

相葉、蓮。

その名前が、私の心に深く刻み込まれた。私は、写真立てに近づき、彼の顔をじっと見つめた。すると、写真の中の彼が、ふっと微笑んだように見えた。

その夜、私はアパートに帰り、書き留めた楽譜を広げた。そして、押入れの奥から、ホコリを被った古いキーボードを引っ張り出してきた。電源を入れるのは、本当に久しぶりだった。

深呼吸をして、鍵盤に指を置く。そして、ノートに書かれたメロディを、ゆっくりと奏でてみた。

ぽろん、と。

アパートの小さな部屋に、あのカフェで聴いたのと同じ、悲しくて、優しい音が響いた。

その瞬間、私の背後で、ふわりと空気が揺れたような気がした。振り返っても、もちろん誰もいない。けれど、確かに感じた。彼の気配を。喜んでいるような、安堵しているような、そんな温かい気配を。

私はもう一度、鍵盤に向き直った。

「相葉、蓮さん」

声に出して、彼の名前を呼んでみる。

「あなたの曲、私が完成させる。だから……もう少しだけ、あなたの音を、私に聴かせて」

言葉が、届いているのかはわからない。けれど、私にはわかっていた。これが、私と、この世界に留まる一人の幽霊との、奇妙で、切ない共同作業の始まりになるのだと。

凍てついていた私の世界に、音が、色が、ほんの少しだけ戻ってきたような気がした。それは、彼がくれた、最初の贈り物だったのかもしれない。

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