音が聴こえない元サウンドエンジニアは、路地裏レコードカフェで幽霊ピアニストの未完成ラブソングを完成させたい

☆ほしい

第1話

私の世界から、音が消えた。

正確に言えば、音は存在している。車の走行音も、人々の話し声も、コンビニの入店音も、物理的な振動として鼓膜を震わせているはずだ。けれど、それらの音は私の脳に届く前に、分厚い灰色のフェルトに吸い込まれてしまうみたいに、意味も、温度も、色彩も、すべてを失ってしまう。ただの無機質なノイズの羅列。それが、ここ半年間の私の日常だった。


かつて、私は音の建築家だった。サウンドエンジニア。それが私の職業で、私のすべてだった。ミリ秒単位で音を切り貼りし、周波数を調整し、無数の音の破片を組み上げて一つの楽曲という名の建造物を完成させる。ヘッドフォンの中で広がる音のパノラマは、私だけが見渡せる宇宙だった。どの音がどの位置で鳴り、どんな響きを持っているか、指先で触れるように感じ取れた。特に、人の声に含まれる微細な感情の揺らぎを捉えるのが得意だった。喜びの裏にある僅かな不安、強がりの下に隠された寂しさ。そういうものを、私は誰よりも正確に「聴く」ことができた。


あの日までは。


雨の日のレコーディングスタジオ。新人アイドルの少女が、ガラスの向こう側で懸命に歌っていた。私はミキシングコンソールの前に座り、彼女の声が持つ透明感と、その奥に潜むダイヤモンドの原石のような輝きに集中していた。その時だ。けたたましいブレーキ音と衝撃音が、防音壁を突き破って飛び込んできた。いや、実際に聞こえたわけじゃない。スタジオの外で起きた交通事故の、その瞬間を、私はなぜか「見て」しまったのだ。ヘッドフォンをしていたのに。分厚い壁に隔てられていたのに。衝突の瞬間の金属音、ガラスの砕ける音、そして、最期の悲鳴。それらが、私の頭の中に直接、映像と音の奔流となって叩きつけられた。


それ以来、私の耳は壊れてしまった。医者は聴力に異常はないと言う。けれど、私にはもう、音の心がわからない。音楽はただの高さの違うノイズの塊に聞こえ、人の声は感情の抜け落ちた自動音声のように響く。音の宇宙を失った私は、会社を辞め、貯金を切り崩しながら、この小さなアパートでただ息をしているだけの日々を送っていた。


今日もまた、意味のない一日が始まろうとしていた。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の埃をきらきらと照らし出している。冷蔵庫には何もない。仕方なく、重い身体を引きずって外に出た。目的もなく、ただ足を前に進める。商店街の喧騒も、私にとってはミュートされた映画のようだ。人々が口を動かし、笑っている。でも、その声は私に届かない。


どれくらい歩いただろう。見慣れない路地裏に迷い込んでいた。古いビルとビルの間に、まるでそこだけ時間が止まっているかのような一角があった。そこに、その店はあった。


『月影レコード』


蔦の絡まるレンガの壁に、控えめな真鍮のプレート。磨りガラスの嵌められた木製のドア。カフェ、と小さな看板が出ている。レコード、という単語が、心の奥底で錆びついていた何かに、ちり、と小さな火花を散らした気がした。吸い寄せられるように、ドアに手をかける。カラン、とドアベルが鳴った。その音さえも、どこか遠くで響いているように感じた。


店内は、珈琲の香ばしい匂いと、古い紙の甘い匂いが混じり合っていた。壁一面に、天井まで届くほどのレコード棚。何万枚あるのだろう。その背表紙を眺めているだけで、眩暈がしそうだった。使い込まれて飴色になった木のカウンターの中には、白髪を綺麗に撫でつけた、穏やかそうな老人が一人、静かに本を読んでいた。客は私だけだった。


「……いらっしゃい」


老人の声は、低く、柔らかかった。それでもやはり、私の耳には感情のない音の波としてしか届かない。私はただ会釈して、一番奥の、窓際の席に座った。窓の外では、名前も知らない小さな花が風に揺れている。


老人が水の入ったグラスを置いてくれた。「ご注文は」と尋ねられ、メニューに視線を落とす。珈琲と、いくつかのケーキ。それだけ。私は「ブレンドを」と、か細い声で告げた。


やがて運ばれてきた珈琲は、とてもいい香りがした。嗅覚はまだ、正常に機能しているらしい。カップを両手で包み込むと、じんわりとした温かさが伝わってくる。店内には、静かなジャズのレコードが流れていた。サックスのメロウな音色。昔の私なら、演奏者の息遣いや、リードの振動まで感じ取れただろうに。今はただ、BGMという名の、意味のない音の壁がそこにあるだけだ。


一口、珈琲を飲む。苦味と酸味のバランスが絶妙で、少しだけ強張っていた肩の力が抜けた。目を閉じて、この静寂に身を委ねる。ノイズのない、ただ静かなだけの空間。それは、今の私にとって何よりの救いだった。


どれくらいの時間が経っただろうか。ジャズのレコードが終わり、ぷつ、という針の上がる音と共に、店内は完全な静寂に包まれた。店主は新しいレコードを選んでいるのか、カウンターの奥で何かを探しているようだった。


その、時だった。


聴こえたのだ。


音が。


それは、ピアノの音だった。ぽつり、ぽつりと、雨だれのように零れ落ちる、単音のメロディ。澄み切っていて、どこまでも透明で、そして、信じられないほど悲しい音色だった。店内にスピーカーはない。カウンターのレコードプレーヤーは止まっている。店主はレコードを探している。じゃあ、この音は、どこから?


私は顔を上げた。店内を見回す。けれど、誰もいない。音源になるようなものも見当たらない。幻聴? また、あの事故の後遺症だろうか。そう思った。けれど、音は消えない。むしろ、少しずつ和音を伴って、より豊かになっていく。それは、誰かがすぐそばで、私のためにだけ弾いているかのような、不思議なリアリティを持っていた。


そのメロディは、言葉を持たなかった。けれど、私にはその音が何を伝えたいのか、痛いほどわかった。それは、途方もない孤独と、届かない誰かへの思慕。そして、何かを失ってしまったことへの、深い、深い後悔の念だった。


なぜだろう。涙が、頬を伝っていた。

半年ぶりに、音が、私の心に届いていた。

意味を持った、感情を持った、本物の音が。


私は震える手で涙を拭い、もう一度、店内を見回した。誰もいない。ただ、珈琲の湯気が静かに立ち上っているだけ。


けれど、その音だけは、確かにそこに存在していた。

私の世界でたった一人、私にだけ聴こえる、幽霊のようなその旋律は、静かに、静かに、月影のカフェに響き続けていた。

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