第3話
私の日常に、新しいリズムが生まれた。
それは、朝の光と共に目覚め、重い身体を引きずって無為に過ごす一日とは、まったく違うものだった。窓から差し込む光が部屋の埃を照らし出すのは同じでも、その光には目的の色が宿っているように感じられた。私の指先が、その光を目指して動くからだ。
部屋の隅で、ホコリを被っていたキーボード。それが今、私の世界の中心だった。昨日『月影レコード』で書き留めた楽譜を譜面台に置き、私は鍵盤に指をそっと下ろす。ヘッドフォンはしない。どうせ、このキーボードから発せられる電子的な音も、私の耳には感情の抜け落ちた、ただの高さの違う信号としてしか届かないのだから。
それでも、私は弾く。
ぽろん、と。あのカフェで聴いたのと同じ、悲しくて優しい音が、私の指から零れ落ちる。それは、物理的な音の再生ではない。私の記憶の中にある、彼の旋律の再現だ。頭の中に直接響いたあの音だけが、唯一、私の心と繋がっている。この行為は、彼のためであると同時に、完全に私のためのものでもあった。音の心を失った私が、唯一、音楽と触れ合える時間。この旋律を奏でている間だけ、私はかつての自分のかけらを、ほんの少しだけ取り戻せるような気がした。この曲がなければ、私の世界はまた、あの灰色のフェルトに覆われた完全な静寂へと逆戻りしてしまうだろう。だから私は、必死にこの音の糸を手繰り寄せる。それが、幽霊に繋がる命綱だと知りながら。
午後になると、私はアパートを出て、あの路地裏へと向かう。蔦の絡まるレンガの壁。磨りガラスの嵌められた木製のドア。『月影レコード』。カラン、と澄んだベルの音に迎えられ、珈琲の香ばしい匂いに包まれると、強張っていた身体からふっと力が抜ける。
「……いらっしゃい」
カウンターの奥から聞こえる田所さんの声は、やはり感情のない音の波だ。けれど、その声が向けられる空間の温かさは、もう私にもわかる。いつもの窓際の席に座り、ブレンドを注文する。やがて運ばれてくるカップを両手で包み、静かにその時を待つ。
店内のレコードが終わる。ぷつ、という針の上がる音。そして、訪れる完全な静寂。
一秒、二秒……。
聴こえてきた。ぽろん、と。いつもの、あのピアノの音だ。
私は鞄から五線譜のノートとペンを取り出す。彼の奏でる音を、一音たりとも聴き逃すまいと、全神経を耳の内側に集中させる。けれど、今日の彼は少し違った。いつもの悲しいフレーズを一度奏でると、ぴたりと音を止めたのだ。まるで、こちらの出方を窺うように。
私は、試してみることにした。テーブルの上で、人差し指をそっと動かす。彼が今しがた弾いたメロディを、こつ、こつ、と指でなぞるように。あなたの音は、確かにここに届いている、と伝えるために。
すると、どうだろう。
沈黙を破って、再びピアノの音が響いた。それは、私が指でなぞった旋律に、優しく寄り添うような新しい和音だった。それはもう、一方的な幻聴などではない。言葉を持たない、音だけの対話。私が「聴こえているよ」と合図を送ると、彼が「ありがとう」と微笑みながら、物語の続きを語ってくれるような。
その日、彼はたくさんの新しいフレーズを私に聴かせてくれた。それは時に喜びのように弾み、時に深い後悔のように沈んだ。私は夢中で、その音の奔流を五線譜に刻みつけていく。かつて、ミキシングコンソールの上で無数の音を建築していた時と同じ集中力で。いや、あの頃以上の切実さで。
気づけば、ノートは数ページにわたって音符で埋め尽くされていた。そして、ピアノの音は、今日の対話の終わりを告げるように、静寂の中へとふっと溶けて消えていった。
アパートに帰り着いた私は、興奮冷めやらぬままキーボードの前に座った。今日書き留めたばかりの、新しいメロディの断片。それらを繋ぎ合わせれば、きっと曲の全体像が見えてくるはずだ。
一つ目のフレーズを弾く。次に、二つ目のフレーズを。そして、それらを繋ぐ和音を探す。サウンドエンジニアとしての知識と経験が、私の指を動かしていた。技術的には、何も難しいことはない。コード進行の理論、メロディラインの構成。頭では理解できている。
しかし、どうしても、しっくりこないのだ。
音符は正しい。和音も間違ってはいない。けれど、出来上がった音楽は、まるで精巧な偽物のように、どこか空虚で、冷たかった。あのカフェで聴いた、胸を締め付けるような切なさが、そこにはない。彼の魂の叫びが、私の指先からすり抜けていってしまう。
なぜだ。何が足りないんだ。
私は何度も何度も弾き直した。アレンジを変え、テンポを変え、考えうる限りの組み合わせを試した。だが、駄目だった。私が作っているのは、彼の音楽の、魂の抜け落ちた骸でしかなかった。それは、今の私が聴いている、世界の音そのものだった。
その時、はっとした。
そうか。私は、彼のことを何も知らない。
相葉蓮という人間が、どんな人生を送り、何を愛し、何に絶望し、そして、誰のためにこの曲を書こうとしていたのか。彼の心そのものを理解しなければ、彼の心残りそのものであるこの曲の、本当の姿を再現することなどできっこないのだ。私はただ、聴こえてくる音を技術でなぞっていただけだった。彼の魂の声を、「聴こう」としていなかった。
事故以来、他人の心の声も、音楽の心も聴けなくなった私。その私が、幽霊の心の声を聴こうとしている。なんという皮肉だろう。けれど、そうしなければ、この曲は永遠に未完成のままだ。そして、未完成のままでいる限り、私の世界もまた、凍てついたままなのだ。
翌日、私は決意を固めて『月影レコード』のドアを開けた。珈琲を飲み干し、席を立つ。そして、いつもはただ会釈して通り過ぎるだけのカウンターの前で、足を止めた。
レコードを整理していた田所さんが、静かに顔を上げる。私は、彼の目をまっすぐに見つめた。
「あの、田所さん」
震えそうになる声を、必死で抑える。
「相葉さんが……蓮さんが、生前、大切にしていた曲や、よく聴いていたレコードはありますか」
私の問いに、田所さんは少しだけ驚いたように目を見開いた。
「彼がどんな音楽を愛したのか、知りたいんです。彼の心に触れるヒントが、そこにあるような気がして」
私の真剣な眼差しに、彼は何かを察してくれたようだった。穏やかな表情のまま、ゆっくりと頷くと、彼は静かに言った。
「ええ、ありますよ。あいつの魂が、宿っているようなレコードが」
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