第2話

『明日、指導する』

その古風で、有無を言わさぬ断定形のメモを前に、私は腕を組んだ。指導、ねえ。一体、どこのどなた様だか知らないけれど、私は別に、完璧なファイリング技術を習得したくてここにいるわけじゃない。定時で帰るための、最低限の仕事ができればそれでいいのだ。

「お断りします」

私は誰に言うでもなく呟き、そのメモをくしゃりと丸めてゴミ箱に捨てた。全く、迷惑な話だ。

しかし、その日の業務を始めてすぐに、私は「指導」がすでに始まっていることに気づかされた。

昨日まで私が担当していた『昭和四十年~四十五年度 定例会議事録』のファイルが、ごっそりと別の書架に移動している。代わりにデスクの脇に置かれていたのは、『昭和三十年代 社内報「わかば」』という、全く別の資料だった。

「……勝手に仕事内容を変えないでほしいんだけど」

思わず独り言が漏れる。まるで、見えない上司に「君にはまだ議事録は早い。まずは社内報からだ」とでも言われているようだ。釈然としないまま、私はその「わかば」とやらを手に取った。

パラパラとめくってみると、それはガリ版刷りの、いかにも手作りといった風情の冊子だった。新入社員の紹介、社内旅行の思い出、社長のありがたいお言葉。議事録よりは、いくぶん人間味があって読みやすいかもしれない。

まあ、いいか。どうせやることはスキャンしてデータ化するだけ。資料が何に変わろうと、私の「定時退社」という大目標には何の影響もない。

私は気を取り直して作業を始めた。けれど、どうにもペースが上がらない。というのも、背後から感じる視線が、昨日よりも明らかに強くなっているのだ。じっとりと、私の手元を観察しているような、無言の圧。時々、私がファイルのページを少しでも雑に扱おうものなら、部屋のどこかで「カタン」と、何かを置くような、わざとらしい音が響く。

「……っ」

集中できない。これでは、定時までに今日のノルマが終わらないかもしれない。それは困る。

私は意を決して、誰もいないはずの空間に向かって、はっきりと言った。

「あの、見てられるとやりにくいんですけど。用事がないなら、あっちへ行っててもらえませんか」

しん、と資料室が静まり返る。

言い過ぎたかな、と少しだけ思った。相手が何者かは知らないが、もしかしたら怒らせてしまったかもしれない。

すると、私のデスクのすぐそば、何もない空間から、カチ、カチカチッ、というリズミカルな音が聞こえ始めた。

驚いてそちらを見ると、昨日メモが置かれていた場所に、いつの間にか例の黒いタイプライターが出現している。そして、そのキーが、誰も触れていないのに勝手に動き、カタカタと音を立てて紙を叩いているのだ。

やがて音が止み、ちーん、と可愛らしい音とともに、印字された紙が少しだけせり上がった。

私は恐る恐る、その紙を手に取った。

『用事ならある。君の指導だ。その手つきでは、貴重な資料が傷む』

……やっぱり、この部屋の主は、とんでもなくお節介で、石頭らしい。

もうこうなったら、腹を括るしかない。私はキーボードに向き直り、自分のパソコンでメモ帳アプリを開いた。

『私は指導なんて求めていません。自分のペースでやらせてください』

Enterキーを叩くと、すぐにタイプライターが返事をよこす。

『その「自分のペース」とやらが、非効率的で見ていられんと言っているのだ。第一、君は……』

そこでタイプライターの動きが、一瞬止まった。何かを言い淀むような、奇妙な間。そして、再び文字が打ち込まれる。

『……楽しそうではないな。仕事が』

その言葉に、胸がちくりと痛んだ。

楽しそうじゃない。当たり前だ。仕事なんて、楽しいわけがない。私にとっては、生活費を稼ぐための苦役でしかない。特に、あんな目に遭った後では。

私が返事に窮していると、不意に内線電話がけたたましく鳴り響いた。びくりと肩を揺らし、恐る恐る受話器を取る。

「は、はい、特殊資料室です」

「あ、総務部の田中ですけど。急で悪いんだけど、一つ探してほしい資料があって」

電話の向こうの、快活な女性の声。確か、入社した頃に少しだけ話したことがある、気さくな先輩だったはずだ。

「ええと、昭和四十二年頃の、人事関連の資料だと思うんだけど。『第一回 海外研修生派遣』に関する稟議書、みたいなもの、そっちにないかな?」

海外研修生。その単語に、また胸がずきりと痛む。私がいた部署の、華やかなイメージ。

「……確認します。少し、お時間をください」

なんとか声を絞り出し、電話を切る。

途方に暮れた。昭和四十二年。人事関連。稟議書。手がかりが、あまりにも曖昧すぎる。この膨大な資料の山の中から、そんなものをどうやって探し出せばいいのか。一日かかっても見つかるかどうか。

そんなことをしたら、定時で帰れないじゃないか。

頭を抱えた、その時だった。

部屋の奥の書架から、ガタン、と大きな音がした。そして、一冊の分厚いファイルが、棚から滑り落ちるようにして、床に落ちた。

まるで、「ここを見ろ」とでも言うように。

私はおそるおそる近づき、そのファイルを拾い上げた。背表紙には、『昭和四十二年度 人事部決裁資料』と書かれている。

まさか。

ページをめくっていくと、中程に、少しだけ紙の色が違う一枚の書類が挟まっていた。『第一回 海外技術研修生派遣計画(案)』。まさに、田中さんが探していた稟議書そのものだった。

「……どうして」

私がこれを見つけられると、わかっていたの?

デスクに戻ると、タイプライターの紙が新しくなっていた。

『困っているのだろう。早く連絡してやれ』

そのぶっきらぼうな文章に、私はなぜか、怒りや恐怖とは違う感情を抱いた。これは……気遣い、なのだろうか。不器用で、高圧的で、古風だけど。

私は受話器を取り、総務部に内線をかけた。

「もしもし、田中さん。お探しの資料、見つかりました」

電話の向こうで、わあ、と歓声が上がる。「すごい、助かった! ありがとう、青山さん!」という弾んだ声が、やけに耳に心地よかった。

電話を切った後、私はしばらく、その稟議書を眺めていた。そこには、まだ見ぬ海外に夢を馳せたであろう、若き日の社員たちの名前と、彼らを送り出そうとした上司たちの、熱意のこもった手書きの文章が記されていた。

仕事って、昔は、こんな顔をしていたんだろうか。

ふと、デスクの上のタイプライターに目をやる。

『礼には及ばん。これも仕事だ』

私は、思わず、ふっと笑ってしまった。初めて、この資料室に来てから、心から笑った気がする。

「ありがとうございます、先輩」

声に出して言うと、タイプライターはしばらく沈黙した後、カチ、と一文字だけ、こう返してきた。

『……佐野だ』

それが、私と、この資料室に棲みつく幽霊の佐野さんとの、奇妙な共同作業の始まりだった。

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