定時ダッシュ女子と残業幽霊――地下資料室からはじめる社内お悩み解決プロジェクト
☆ほしい
第1話
私の新しい職場は、地下にある。
太陽の光がほとんど届かない、しんと静まり返った場所。それが、今日から私が所属することになった『総合企画部 特殊資料室』の全てだった。
「青山さん、ここが君のデスクだ。何か分からないことがあったら、内線で総務に連絡してくれ」
人事部の人が、無機質な事務机を指差して言った。その声には、同情とも呆れともつかない響きが混じっている。無理もない。ここは、社内では有名な「墓場」なのだから。
ほんの数日前まで、私はこの会社の未来を担うと言われていた花形部署、『海外事業戦略部』にいた。毎晩終電を逃し、週末も厭わず出社し、栄養ドリンクとカフェインで胃を焼かれながら、身を粉にして働いた。その結果、手に入れたのは輝かしい実績なんかではなく、駅のホームで起こした盛大な立ち眩みと、医師からの「これ以上は危険です」という冷たい宣告だった。
会社が私に与えた「配慮」が、この特殊資料室への異動というわけだ。主な業務は、倉庫に眠る過去の資料のデータ化と整理。誰にでもできる、誰からも期待されない仕事。事実上の、戦力外通告。
「ありがとうございます」
感情を消した声で礼を言うと、人事部の人はそそくさと立ち去っていった。エレベーターが閉まる重い音だけが、やけに大きく響く。一人きりになった資料室は、まるで時が止まったかのようだった。
見渡す限り、スチール製の巨大な書架が迷路のように立ち並んでいる。そこにぎっしりと詰め込まれているのは、黄ばんだ紙のファイルや、分厚い製本図書、中には巻物のようなものまである。空気はひんやりとしていて、古い紙と、インクと、少しの埃が混じり合った独特の匂いがした。それは、私がいた元の部署の、新しいカーペットとOA機器の匂いとは全く違う、アナログな匂いだった。
自分のデスクに、ほとんど空っぽの私物の段ボール箱を置く。中身はマグカップと卓上カレンダーくらいのものだ。もう、この会社で何かを成し遂げようとか、誰かに認められようとか、そんな気力は一欠片も残っていなかった。
私の目標は、ただ一つ。
――定時で帰る。
チャイムが鳴ったら、一秒でも早くタイムカードを押して、この建物の外に出る。誰とも余計な話はしない。仕事は、クビにならない最低限だけをこなす。そうやって、すり減ってしまった自分を、これ以上傷つけないように守る。それだけが、今の私にできる唯一のことだった。
パソコンを起動すると、共有フォルダに「業務マニュアル」と書かれたファイルがあった。開いてみると、気の遠くなるような資料のリストと、そのデータ化の手順が記されている。まずは手始めに、一番端の書架にある『昭和四十年~四十五年度 定例会議事録』から始めるように、と。
やれやれ、とため息をつきながら、私は席を立った。キャスター付きの椅子が、静寂の中でぎしりと音を立てる。
目的の書架は、部屋の一番奥にあった。薄暗い電灯の下、背表紙の文字を指でなぞる。そこだけ、妙に綺麗に整頓されているのが不思議だった。私は指示されたファイルをごっそりと腕に抱え、自分のデスクに戻った。
スキャナーの電源を入れ、一枚、また一枚と、黄ばんだ紙をガラス面に置いていく。単調な作業。頭を空っぽにできるのは、むしろ好都合だった。何も考えたくない。何も感じたくない。ただ、時計の針が進むのを待つだけ。
昼休みは、デスクでコンビニのおにぎりを食べた。誰かが来る気配はない。どうやら、この広大な資料室の主は、本当に私一人らしい。それもまた、好都合だ。
午後の作業も、午前と何ら変わりはなかった。ただひたすらに、スキャン、保存、スキャン、保存。時折、古い議事録の中に面白い記述を見つけることもあった。例えば、「社内運動会における二人三脚のペア決めについて」なんていう、今では考えられないようなのんきな議題が、真面目な顔で話し合われていたりする。くすりと笑いそうになったけれど、すぐに表情を消した。ここで楽しさなんて感じてはいけない。期待すれば、また裏切られるだけだ。
そうして、ついに定時の十七時半を知らせるチャイムが鳴った。
私は待ってましたとばかりにパソコンの電源を落とし、鞄を手に取った。一日目の業務、終了。我ながら完璧な仕事ぶりだ。もちろん、「定時で帰る」という一点において。
資料室の電気を消すと、辺りは完全な闇に包まれた。出口のドアに向かって歩きながら、ふと、自分のデスクの方を振り返る。
あれ?
一瞬、違和感を覚えた。気のせいかもしれない。暗くてよく見えないだけだ。私は首を振り、そのまま部屋を出て、鍵をかけた。
翌朝。
昨日と同じように、始業時間きっかりに資料室の鍵を開けた。電気をつけると、昨日と何も変わらない、静かな空間が広がる。
自分のデスクに向かい、鞄を置いて、私は思わず息をのんだ。
昨日、私が作業途中でデスクの脇に積み上げておいたはずの、スキャン待ちのファイル。それが、書架から取り出した時と全く同じように、完璧な順番で、背筋をぴんと伸ばすようにして、綺麗に揃えられていたのだ。
そんなはずはない。私はもっと雑に、ただ重ねて置いただけだった。誰かがやったとしか思えない。でも、この部屋の鍵を持っているのは、私と、あとは総務部の金庫の中だけのはず。
まさか、夜の間に清掃員でも入ったのだろうか。いや、でも、こんな場所をわざわざ……。
首を傾げながら、私はパソコンの電源を入れた。その時、ふわりと、ある匂いが鼻をかすめた。
それは、古い紙の匂いとは違う。もっと、人間的な匂い。でも、今どきの香水や柔軟剤の香りじゃない。もっと古風な……そう、昔の映画で見たことがあるような、紙巻き煙草の、微かで、どこか懐かしい匂い。
もちろん、資料室内は火気厳禁、禁煙だ。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。疲れているんだ。まだ、前の部署で酷使した心と身体が、正常に機能していないだけなんだ。
私は深く考えないようにして、昨日と同じ単調な作業を再開した。けれど、その日一日、どうしても背後に誰かの気配を感じて仕方がなかった。時折、誰もいないはずの書架の向こうで、かすかに紙をめくるような音が聞こえる。振り返っても、そこには静寂があるだけ。
そして、定時のチャイmが鳴る。
私は昨日と同じように、そそくさと帰る支度をした。作業途中のファイルは、あえて少し崩してデスクの脇に置いてみる。小さな実験のつもりだった。
部屋を出る前、もう一度だけ、微かな煙草の匂いがしたような気がした。
そして、三日目の朝。
資料室のドアを開け、自分のデスクを見た私は、確信した。
これは、気のせいじゃない。
昨日、わざと乱雑に置いたはずのファイルが、またしても、几帳面なほど完璧に整えられている。まるで、見えない誰かが「君のやり方はなっていない」と、無言で手本を示しているかのように。
そして、デスクの上には、昨日までなかったものが一つ、ちょこんと置かれていた。
それは、一台の古い、黒いタイプライターで打たれたらしい、一枚の小さなメモ用紙だった。インクのかすれた、味のある文字で、こう書かれていた。
『書類の整理は、基本の「き」だ。明日、指導する』
背筋が、ぞくりと冷たくなった。
でも、それは恐怖からではなかった。むしろ、呆れと、ほんの少しの好奇心からだった。
どうやらこの資料室には、私以外にもう一人……いや、もう一柱、とんでもなくお節介で、仕事熱心な「誰か」がいるらしい。
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