第3話
佐野さん、という名前を得た翌朝。
資料室の重い扉を開けた時、私の心持ちは昨日までとは、ほんの少しだけ違っていた。相変わらずしんと静まり返り、古い紙とインクの匂いが満ちるこの空間は、もはや単なる職場ではなく、奇妙な同居人がいる「すみか」のような感覚を伴っていた。侵入者から、同居人へ。私の中の、彼に対する認識の変化だった。
デスクに鞄を置き、パソコンを起動させる。いつも通りの朝の動作。けれど、今日はその後に一つ、新しい手順を加えた。少しだけ躊躇いながら、私はメモ帳アプリを開き、キーボードに指を置いた。
『佐野さん、おはようございます。本日も、よろしくお願いします』
エンターキーを押すと、その短い挨拶が画面に表示される。ビジネスメールのような、少し硬い文章。けれど、これが今の私にできる、精一杯の歩み寄りだった。画面を見つめたまま、待つ。返事があるのか、ないのか。資料室の静寂が、やけに耳についた。書架の向こうで、誰かが息を潜めているような気配がする。
数秒の沈黙の後、カチリ、と音がした。視線を移すと、デスクの隅にいつの間にか鎮座している黒いタイプライターのキーが、一つだけ、ゆっくりと打ち込まれる。
『うむ』
紙の上に現れたのは、たった一文字。けれど、その素っ気ない肯定の言葉は、確かに私の挨拶を受け取ったという証だった。昨日までの、一方的な「指導」や「干渉」とは違う。初めて、双方向のコミュニケーションが成立した瞬間だったのかもしれない。私は小さく息をつき、新しい一日の仕事に取り掛かることにした。
今日の業務は、昨日から引き継いだ『昭和三十年代社内報「わかば」』のスキャン作業の続きだ。デスクの脇にきちんと揃えられている冊子の山から一冊を手に取り、ガラスの天板が白い光を放つスキャナーの上に、そっと開いた。
私がスタートボタンを押そうとした、その時だった。
カチャカチャカチャッ!
背後で、やけに苛立ったような、激しいタイプ音が鳴り響いた。驚いて振り返ると、タイプライターが猛烈な勢いで文字を打ち込んでいる。まるで、私の行動を制止するかのように。やがて音が止み、ちーん、という音と共に印字された紙が差し出される。
『その光る板は、紙を焼くだけだ。インクを褪せさせ、繊維を殺す。それではただの「情報」の複写だ。我々が守るべきは、この紙が経てきた「時間」そのものだというのに』
……また始まった。佐野さんの、お説教タイム。
私は思わずため息をついた。情報をデータ化するのが、私の仕事だ。紙が焼けるとか、繊維が死ぬとか、そんな詩的なことを言われても困る。前の部署だったら、「効率を考えろ」「感傷に浸るな」と一蹴されて終わりだ。
けれど、なぜだろう。その言葉を、無下に切り捨てることができなかった。私の手元にある、黄ばんで脆くなった「わかば」のページに目を落とす。そこには、インクの滲みや、紙の僅かな毛羽立ち、誰かがめくったであろう指の跡が、確かに存在している。スキャナーの白い光は、そういったものを全て無視して、ただ書かれた文字という「情報」だけを抜き取っていく。佐野さんの言う通り、それはこの紙が生きてきた「時間」を殺す行為なのかもしれない。
仕事とは、成果を出すためのタスク。そう信じて疑わなかった。けれど、佐野さんにとっての仕事は、もっと違う意味を持つらしい。それは、対象への敬意と、時間を守るという責任を伴う、一種の職人のような行為。非効率的で、古臭い考え方。でも、かつて私をすり潰した効率至上主義とは、正反対の場所にあるその哲学に、ほんの少しだけ、心が揺さぶられた。
私がどうしたものかと逡巡していると、今度は別の書架の方から、ガタン、と大きな音がした。見ると、部屋の隅にある、私が今まで気にも留めていなかった古い木製の薬品棚のような扉が、ひとりでに開いている。
タイプライターが、また短い指示を送ってきた。
『そこの桐の箱だ』
言われるがままに近づくと、棚の中には古めかしい修復用具らしきものが入っていた。その中の一つ、桐の小箱を開けると、中には和紙や刷毛、そして小さなヘラのような道具が、行儀よく並べられていた。
私が作業していた社内報の中に、一枚だけ、特に傷みの激しいページがあった。端が破れ、中央には茶色い大きなシミが広がっている。おそらく、これを修復しろということなのだろう。業務マニュアルには、「破損の激しい資料はスキャン対象外とし、現状維持のまま保管」とある。私の仕事ではないはずだ。
けれど、私はなぜか、その指示に逆らう気になれなかった。
『布海苔を、月の水で溶け』
タイプライターからの、次の指示。月の水、なんて、また詩的なことを。資料室の隅に置かれた薬品庫を探すと、幸いにも「精製水」のボトルと、古びた「布海苔」の袋が見つかった。
ビーカーの中で、精製水に布海苔を溶かす。とろりとした、天然の接着剤。それを刷毛で薄く和紙に塗り、破れたページの裏側に、そっと貼り付けていく。ピンセットで、皺が寄らないように慎重に伸ばす。息を詰めて、指先に全神経を集中させる。スキャナーのボタンを押すだけの、単調な作業とは全く違う。時間もかかるし、気も遣う。
ふと、あの微かな煙草の匂いが、すぐそばでしたような気がした。佐野さんが、私の背後から、じっと手元を覗き込んでいるのかもしれない。その几帳面な性格からして、「そこは違う」「もっと丁寧に」と、やきもきしているのだろうか。そう想像すると、少しだけ可笑しかった。恐怖でも、苛立ちでもない。見えない誰かと、一つの目的に向かって共同作業をしているような、不思議な連帯感が芽生え始めていた。
結局、その一枚の補修作業が終わる頃には、夕方が近づいていた。シミまではどうにもならなかったけれど、破れは綺麗に塞がり、これ以上傷みが進むことはないだろう。私は、自分が補修したそのページを眺め、静かな達成感を味わっていた。誰に褒められるわけでもない、評価されるわけでもない。けれど、確かに自分の手で、一つの「時間」を守ったという、ささやかな満足感。
そして、定時のチャイムが鳴る。
私は帰り支度をしながら、ふと考えた。一日中、私の下手な作業に付き合わせて、きっと佐野さんも疲れただろう。幽霊に疲れがあるのかは知らないけれど。
私は鞄から、自分へのご褒美のために持ってきた、少し良いコーヒー豆の入った小袋と、携帯用の手挽きミルを取り出した。ゴリゴリと豆を挽くと、資料室の古い紙の匂いに、香ばしい匂いが混じり合う。そして、ゆっくりとお湯を注ぎ、一杯のドリップコーヒーを淹れた。
そのマグカップを、タイプライターが置かれているデスクの隅に、そっと置く。
そして、自分のパソコンのメモ帳に、打ち込んだ。
『佐野さん、お疲れ様です。たまには、休憩も必要ですよ』
私はそれだけを伝えると、今度こそ鞄を手に取り、資料室を出た。電気を消し、鍵をかける。重い扉を閉める直前、私は足を止めた。
扉の隙間から、ふわりと、ありえないほど豊かで、芳醇なコーヒーの香りが流れ出してきた気がした。私が淹れた一杯のコーヒーから発せられる香りとは、明らかに違う。まるで、誰かがその一杯を、心から味わっているかのように。
そして、香りはすぐに消え、元の静寂が戻ってきた。
その夜、誰もいないはずの資料室で、黒いタイプライターが、カチリ、と最後の音を立てた。
『……悪くない』
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