第7話

カウンターの上に広げられた、一枚の古びた羊皮紙。

そこに描かれているのは私が今いるこの町の、裏手にそびえる山の地図だった。


けれど、普通の地図ではない。

道という道は描かれておらず、代わりに川の流れやひときわ大きな木、奇妙な形をした岩などが手描きの温かい線で記されている。

まるで、宝の地図みたいだ。


「山の主、か……」


私の呟きに、隣にちょこんと立つ茶筅が重々しく頷いた。


『うむ。わしも春様から噂を聞いただけじゃがの。この町がまだ、今よりもっと自然に近かった頃から、あの山に住まうと言われる偉大なるあやかしじゃ』


「偉大、というと?」


『力の強い、ということじゃ。けれど決して邪なものではない。むしろこの土地と、そこに住まう者たちを静かに見守る守り神のような存在じゃと聞く』


茶筅の声には、普段の軽口とは違う畏敬の念のようなものがこもっていた。

私はもう一度、手紙に目を落とす。


『春殿、久方ぶりである。古き約束、今こそ果たす時が来た。地図の場所にて、待つ』


祖母と、山の主。

二人の間に交わされた「古き約束」とは、一体何なのだろう。


「私、行くべきなのかな」


『……分からぬ。春様が、おぬしに何も伝えずに亡くなったのが気にかかる。あるいはこれは春様自身が、一代で終わらせるべき約束だったのかもしれん』


茶筅の言葉は、慎重だった。


『軽々しく足を踏み入れるべき場所ではない。今は、考える時じゃろう』


確かに、その通りかもしれない。

私は地図と手紙を丁寧に折り畳み、厨房の引き出しの奥にそっとしまった。


今は、目の前のことがある。

この埃っぽくて、でも少しずつ私の居場所になりつつある、甘味処『黄昏』のことが。


その日の夕暮れ時。

店の掃除を終えカウンターを磨いていると、ちりん、と入口の鈴が鳴った。


けれど、格子戸は開いていない。

あやかしのお客さんだ。


私が顔を上げると、カウンターの隅の椅子にいつの間にか小さな男の子が座っていた。

おかっぱ頭に、少し汚れた着物。

見た目は、この間のおはぎの子と同じくらいの年に見える。


でも、その子の様子は少し違っていた。

何というかとてもそわそわしていて、落ち着きがない。

椅子の上で絶えずもじもじと動き、きょろきょろと忙しなく店内を見回している。


そして何より奇妙なのは、彼が動くたびにぽとり、ぽとりと、何か小さなものが彼の体からこぼれ落ちることだった。

それはどんぐりだったり、綺麗な色の小石だったり、鳥の羽根だったり。

まるでポケットに穴でも開いているみたいに、彼の周りにはささやかなガラクタの山ができていく。


『おや、あれは……座敷わらし、じゃな。それも、ちとそそっかしい質の』


茶筅が、呆れたように言った。


座敷わらし。

家に憑いて、福をもたらすという、あの?


その子が私に気づくと、びくりと肩を震わせ、慌てて椅子から降りようとして盛大にずっこけた。

がっしゃーん、という派手な音と共に彼の懐から、さらに大量のガラクタが床に散らばる。


「うわわわ……!」


男の子は真っ赤な顔で散らばった宝物(?)をかき集めようとするが、集めれば集めるほど別の場所からぽろぽろとこぼれ落ちていく。

その姿はなんだかとても切実で、私は思わずくすりと笑ってしまった。


「大丈夫?」


私が声をかけると、彼は涙目になって私を見上げた。


「ご、ごめんなさい……。ぼく、いつもこうなんだ。大事なものでもすぐにどこかにやっちゃうし、しっかり持ってるつもりでもいつの間にかなくなってる……」


そう言って、しくしくと泣き始めてしまった。

聞けば、彼はこの町の、とある旧家に住み着いている座敷わらしらしい。

家に幸運をもたらすのが役目なのに、おっちょこちょいな性格が災いしてかえって家の主人を困らせてばかりなのだという。

先日も、その家の子が大切にしていたガラスのおはじきを預かったのに、どこかで失くしてしまったらしい。


「あの子、すごく悲しんでた……。ぼく、福の神失格だ……」


すっかり自信を失くして、彼の身体は心なしか輪郭が薄くなっているように見えた。

このままでは、消えてしまうかもしれない。


『ふむ。そそっかしいにも程があるわい』


茶筅が腕組みならぬ、穂先組みをして唸っている。


『あやつに必要なのは自信じゃな。そして、決して忘れぬ強烈な記憶じゃ』


「記憶?」


『うむ。あの子の悩みは、物事をすぐに忘れてしまう、あるいは注意が散漫になってしまうことにある。ならば一度見たら一度味わったら、絶対に忘れられないような鮮烈な菓子を与えてやるのじゃ』


茶筅の言葉に、私ははっとした。

忘れられない、お菓子。

パティシエだった頃、私はいつも食べた人の記憶に残るような、特別なケーキを作りたいと思っていた。

味覚を失った今、味で記憶に訴えることはできない。

けれど。


「……私に、できるかな」


『おぬしなら、できる。春様の孫じゃからのう。そしてただの和菓子職人ではない。異国の菓子の知識も持つ、おぬしにしか作れぬものがあるはずじゃ』


茶筅の言葉が、私の背中を押す。

そうだ。

味がないなら、他のもので勝負すればいい。

見た目の美しさ。

食感の楽しさ。

そして、物語。


私は厨房へ向かうと、甘味帳とは別の、東京から持ってきた専門書を何冊か引っ張り出した。

フランスの伝統菓子、最新のデザートの技法……。

ページをめくりながら私の頭の中では、和と洋の素材が不思議な化学反応を起こし始めていた。


「よし、決めた」


私が作ることにしたのは、「星空きらめく記憶の錦玉羹(きんぎょくかん)」だった。

錦玉羹は寒天と砂糖で作る、透明感の美しい和菓子だ。

そのキャンバスに、私の持てる全ての技術で忘れられない夜空を描いてみせる。


まずは基本となる錦玉液作りから。

鍋に最高級の糸寒天と、グラニュー糖、そして清らかな水を入れ火にかける。

味見ができない私にとって頼りになるのは、レシピに記された正確な分量と時間、そして火加減だけだ。

パティシエとして叩き込まれた計量への執着が、今、最大の武器になる。

温度計で液体の温度を厳密に管理し、木べらで混ぜる際の手応え、鍋肌から立ち上る湯気の繊細な変化に全神経を集中させる。

やがて、とろりとした完璧な粘度の錦玉液が出来上がった。


次が、この菓子の心臓部。

色と、光の表現だ。


錦玉液を、大きさの違ういくつものボウルに分けていく。

一番大きなボウルには夜空の深い青を表現するため、クチナシの実から抽出した天然の青い色素を加える。

さらにごく微量の食用竹炭を混ぜ込むことで、ただの青ではない吸い込まれるような、奥行きのある藍色を作り出した。

別のボウルには食紅をほんの少しずつ加え、朝焼けや夕焼けを思わせる淡いピンクからオレンジへのグラデーションを作る。


そしてこの菓子の最大の特徴、「記憶に残る仕掛け」を施していく。

味の代わりに、食感と見た目のサプライズ。

細かく砕いた氷砂糖を、夜空の青い錦玉液の中に星屑のように散りばめる。

これで食べた時に、時折カリッとした楽しい食感がアクセントになるはずだ。


さらに座敷わらしの子が失くしたという「おはじき」を模した小さな球体を、白玉粉と豆腐で作る。

豆腐を混ぜることで、冷えても固くなりにくいもちもちとした食感が生まれる。

これを赤、青、黄色、緑と天然色素でカラフルに染め上げた。


いよいよ、仕上げの工程。

用意した四角い流し函に、まず藍色の夜空の液を半分ほど、そっと流し込む。

そこに星屑の氷砂糖と、カラフルなおはじき白玉をバランスよく配置していく。

まるで夜空に星と惑星を浮かべる、神様のような気分だ。

少し冷やして表面が固まったら、その上にピンクとオレンジの朝焼けの層を、そっと重ねる。

最後に残りの夜空の液を流し込み、完全に冷やし固める。


数時間後。

型から取り出した錦玉羹は、我ながら息を呑むほど美しかった。

四角い透明な塊の中に、深い藍色の夜空が広がり無数の星がまたたいている。

色とりどりのおはじきがまるで宝石のように浮かび、底の方には希望のような淡い朝焼けが滲んでいた。


これはもう、単なるお菓子ではない。

一つの、物語の結晶だ。


私はそれを厚めに切り分け、ガラスの皿に乗せて、カウンターで待つ座敷わらしの前にそっと置いた。

彼は最初、それが食べ物だと分からなかったようだ。

ただ目の前の、キラキラと光る青い塊をぽかんと見つめていた。


「……きれい」


か細い声でそう呟くと、彼は、おそるおそる添えられた小さな匙を手に取った。

そしてひとかけら、すくい取って口に運ぶ。

その瞬間、彼の小さな身体がぴくりと震えた。

そして、ぱあっと顔が輝いた。


「わあ! キラキラしてる! カリカリする!」


彼は夢中で、一口また一口と、錦玉羹を頬張っていく。

甘いだけの、単調な味ではないはずだ。

もちもちのおはじき。

カリカリの星屑。

そして、つるりとした寒天の喉越し。

次から次に訪れる食感の変化が、彼の小さな頭を嬉しい驚きで満たしているのが分かった。


食べ終わる頃には彼の薄くなりかけていた輪郭は、すっかり元通りはっきりとしたものに戻っていた。

それどころか以前よりも、なんだか輝きを増しているようにさえ見える。


「おいしかった……! こんなに綺麗で楽しくて、美味しいもの初めて食べた!」


彼は、満面の笑みで言った。


「これなら絶対、忘れない! このお菓子のことを思い出したら、なくしたおはじきのことも思い出せる気がする!」


その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。

味覚がなくても、やれることはある。

私にしか、できないことがある。


「ありがとう、お姉さん! ぼくもう大丈夫! 家に帰って、ちゃんと福を呼んでくるよ!」


座敷わらしは元気よくそう言うと、来た時と同じようにいつの間にか、ふっと姿を消していた。

彼の座っていた椅子にはお礼だろうか、四つ葉のクローバーが一つ、ちょこんと置かれていた。


静かになった店内で、私は四つ葉のクローバーをそっと拾い上げる。

その時、店の隅に置いていた古時計がごーん、ごーんと、低い音を立てて鳴った。

もう、そんな時間か。


私は片付けをしながら、ふと厨房の引き出しにしまった、あの地図のことを思い出した。

「山の主……」

おばあちゃんは一体、どんな約束をしていたんだろう。


いつか、行かなくては。

そう、強く思った。


その日の夜、店じまいをした後、海斗さんがひょっこりと顔を出した。


「よう、姉ちゃん。今日の営業、どうだった?」


「ええ、まあまあかな」


他愛もない会話を交わす中で、私は思い切って尋ねてみた。


「ねえ海斗さん。この町の裏にある山のこと、何か知ってる?」


私の質問に、海斗さんは少しだけ表情を曇らせた。


「ああ、あの山か。まあ、俺たちはあんまり近づかねえな」


「どうして?」


「昔からじいちゃんやばあちゃんに言われてんだよ。『あの山は神様の通り道だから、遊び半分で入るな』ってな」


神様の、通り道。

その言葉が、私の心に不思議な余韻を残した。

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