第8話

山の主からの手紙。

それは私の心に、小さな、しかし消えない波紋を残していた。

けれど地図に記された険しい道のりを思うと、すぐに行動を起こす気にはなれなかった。

まずはこの町で、この店で、しっかりと自分の足で立つこと。

それが先決だ。

私は店の本格的な開店に向けて、準備を始めることにした。


翌朝、私は久しぶりに町の中心部にある商店街へと足を運んだ。

海辺の寂れた通りとは違い、そこにはまだ人々の活気が息づいている。

八百屋の店先には、朝露に濡れた色とりどりの野菜が並び、豆腐屋からは湯気と共に大豆の優しい香りが漂ってくる。


もちろん、私には匂いは分からない。

けれどその光景を見ているだけで、記憶の中の匂いが鮮やかに蘇るようだった。


「へい、らっしゃい!」


威勢のいい声に振り向くと、ねじり鉢巻きをした恰幅のいいおばちゃんが、私を見てにっと笑った。

八百屋『八百八』の店主だ。


「あんた、見かけない顔だねえ。ああ、もしかして黄昏の春さんの……」


「はい。孫の、澪です」


「やっぱりかい! いやあ、春さんにそっくりだ! 特にその気の強そうな目元がね!」


おばちゃんは、ガハハと豪快に笑う。

初対面のはずなのに、壁を感じさせない人だった。


「あんたが店、継ぐんだって? そりゃあ嬉しいねえ」


「まだ、準備中なんですけど」


「いいんだよ、ゆっくりやりな。春さんも、最初はそうだったんだから」


おばちゃんは、遠い目をして言った。


「あの人は、不思議な人だったよ。いきなり店に来て、『冬でも食べられる、真夏の西瓜はないかい?』なんて無茶なことを言い出すんだから」


「え?」


「もちろん、そんなもんあるわけないさ。でもね春さんは、がっかりするでもなくにこにこ笑って、代わりに大根を一本買っていったんだ。そして三日後に、うちの店に真っ赤な西瓜そっくりの菓子を持ってきてくれたのさ。大根で作ったって言うんだよ。驚いたねえ、あれは」


祖母の、知らないエピソード。

それはあやかしたちの無理難題に応えるための、知恵だったのかもしれない。

私は店頭に並んでいた、瑞々しい苺に目を留めた。


「この苺、いただけますか」


「あいよ! 今朝入ったばかりで特別甘いよ! あんた、春さんの孫だからこいつはおまけだ!」


おばちゃんはそう言って、一番大きくて形のいい苺をいくつか袋に足してくれた。

人の温かさが、じんわりと胸に染みる。


次に訪れたのは、八百屋の向かいにある豆腐屋だった。

こちらは、いかにも頑固一徹といった雰囲気の白髪のおじいさんが、黙々と作業をしている。

私が店先で「すみません」と声をかけると、おじいさんはいぶかしげに顔を上げた。


「……なんだね」


「あの、豆乳をいただきたいんですが」


「うちはただの豆腐屋じゃねえ。水にも大豆にも、こだわりがある。あんたみたいな若いお嬢ちゃんに、うちの豆乳の味が分かるとは思えんがね」


ぴしゃりと言われ、私は少しむっとした。

けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。


「祖母が、こちらの豆乳を使っていたと聞きました。甘味処『黄昏』の、木崎春です」


その名前を出すと、おじいさんの厳しい表情がほんの少しだけ、揺らいだように見えた。


「……春さんの、孫か」


彼は作業の手を止め、じっと私の顔を見つめた。


「なるほど、面影がある。……春さんは特別だった。あの方はいつも、『山の湧き水で仕込んだ、特別な豆乳を』と注文された」


山の、湧き水。

またしても、山のキーワードが出てきた。


「あいにく今のわしには、もう山へ水を汲みに行く体力はねえ。だから特別な豆乳は作れん。普通の町水のでよければ、売ってやるが」


おじいさんは、ぶっきらぼうにそう言った。


「はい。それで、結構です」


私が豆乳を受け取ると、彼がぽつりと呟いた。


「……春さんは言っていた。『本当に美味いもんは、最高の素材からしか生まれねえ。手間を惜しんじゃ、いけねえんだ』と。あんたもその言葉、忘れんさんな」


それは職人から職人への、厳しくも温かいエールのように聞こえた。


店に戻ると格子戸の前で、見慣れた後ろ姿が何やらごそごそと作業をしていた。


「海斗さん?」


「おお、姉ちゃん! 丁度よかった」


振り返った海斗さんは、手に金槌と釘を持っていた。


「この戸、ガタついて危なかっただろ。じいちゃんが大工仕事もやってたからよ、これくらいならお手の物だ」


彼はそう言うと手際よく、緩んだ部分に釘を打ち付け歪みを直してくれた。

あっという間に、がたぴしと鳴っていた格子戸はスムーズに開け閉めできるようになった。


「わあ、すごい……ありがとうございます」


「いいってことよ。困った時は、お互い様だろ?」


にかっと笑う彼に、私は何かお礼がしたくなった。


「そうだ。よかったらお昼、食べていきませんか? ありあわせのものですけど」


「え、いいのか!? やった!」


海斗さんは、子供のように喜んだ。

私は、早速厨房に立つ。

作るのは漁師である彼にぴったりの、魚を使った定食だ。

先日もらったサバの残りを、甘味帳の片隅にあった「おばあちゃんのサバ味噌」のレシピ通りに煮付けていく。


味は見えないけれど、レシピの分量を守り、煮汁がとろりとするまでじっくりと火を入れる。

豆腐屋で買ったおからと、八百屋の野菜で卯の花と具沢山の味噌汁も作る。

味付けが完璧かは分からない。

でも栄養のバランスと、彩りだけは誰にも負けないくらい、心を込めて考えた。


「うっま……! なんだこれ、すげえ美味い!」


カウンターで私の作ったサバの味噌煮を頬張った海斗さんが、目を丸くして叫んだ。


「サバはふわふわだし味付けも、甘すぎず辛すぎず、最高だ! ばあちゃんの味ともちょっと違うけど、これはこれでめちゃくちゃ美味い!」


彼のその言葉が、どんな高級レストランの評価よりも嬉しかった。

食事をしながら私は、思い切って山の主からの手紙のことを、彼に打ち明けてみた。

もちろんあやかしのことは伏せて、「祖母が、山に住む知り合いと何か約束があったみたいで」という風に。


私の話を聞くと海斗さんは、驚きながらも真剣な顔になった。


「山の、知り合い……? そりゃ、ただごとじゃねえな」


彼は少し考え込むと、言った。


「あの山は本当に迷いやすいんだ。それに最近、熊が出たなんて噂もある。一人で行くのは、危ねえよ」


彼の心配そうな顔に、私は少し心強さを感じた。


「でも、どうしても行かなきゃならないんです。祖母の、大切な約束だと思うから」


私の決意が固いことを知ると、海斗さんはため息をついた。


「……分かった。なら、俺にできるだけの協力はする」


彼は一旦港に戻ると、すぐに古びたリュックサックとピカピカに磨かれた水筒、そしてちりん、と涼やかな音を立てる熊よけの鈴を持ってきてくれた。


「これ、使ってくれ。リュックには雨具と簡単な食料も入れといた。それと、もし何かあったら絶対に無理せず、すぐにこの鈴を鳴らせ。港まで聞こえるかもしれねえからな!」


「……ありがとうございます。本当に、何から何まで」


「いいってこと! その代わり無事に帰ってきて、また美味いメシ食わせてくれよな!」


彼の優しさに、私はこの町に来て本当に良かったと心から思った。


『ふん。人間も、なかなかどうして捨てたもんじゃないのう』


懐で、茶筅が少しだけ機嫌を良くしたように呟いた。

私は、明日この山へ向かおうと、静かに決意した。


その夜、私は八百屋のおばちゃんにもらったとびきり甘い苺を使って、山へ持っていくための「旅立ちの苺大福」を、心を込めて作った。

柔らかい求肥の中に、優しい甘さの白餡と瑞々しい苺。

明日のお守りになるように、と願いを込めて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る