第6話

「我にも、一つ、所望したい」


その声は、猫という愛らしい姿からは想像もつかないほど、低く、威厳に満ちていた。

まるで、年老いた武士か、あるいはどこかの企業の会長のような、有無を言わせぬ響きがある。

目の前の猫又は、つやつやとした黒い毛並みを持ち、その金色の瞳は、こちらの全てを見透かすように、じっと私を見据えていた。

二股に分かれた尻尾が、ゆらり、ゆらりと、不機嫌そうに揺れている。


『ほう、これはこれは。猫又の御大(おんたい)自らのおなりとは、珍しいこともあるものじゃ』

茶筅が、少しばかり面白がるような、それでいて敬意を払ったような口調で言った。

どうやら、本当にこの界隈では名のある存在らしい。


猫又は、茶筅の言葉にふんと鼻を鳴らすと、再び私に視線を戻した。

「そこの小娘が、新たな店の主か。春の孫だとは聞いておる」

「して、おぬしの菓子は、我を満足させられるだけのものか?」


試すような、挑発するような物言い。

私は少し戸惑いながらも、背筋を伸ばして向き直った。

「……どのようなお菓子を、お望みでしょうか」


私が尋ねると、猫又はしばし黙考するように目を閉じた。

そして、やがてゆっくりと目を開けると、こう言った。

「甘いだけでは、童(わらべ)の食い物よ。かと言って、ただ塩辛いだけでは、芸がない」

「甘さの中に、海の香りと、大地の恵みを感じさせ、それでいて、我ら猫族の誇りをくすぐるような……そのような、至高の一品を求めておる」


なんという、無茶な注文だろうか。

私は思わず言葉に詰まった。

甘くて、塩辛くて、海の香りがして、大地の恵みも感じられて、猫の誇りをくすぐるお菓子?

そんなもの、聞いたこともない。

まるで禅問答のようだ。


私が困惑していると、猫又は満足そうに喉を鳴らした。

「ふっ、答えに窮したか。無理もない」

「春ですら、我を唸らせる菓子を作るのには、三日三晩、頭を悩ませておったわ」

「……まあ、急ぎはせぬ。我の気が変わらぬうちに、何か考えておくことだ」


そう言うと、猫又はすっくと立ち上がり、身をひるがえして去ろうとした。

その時だった。

「お待ちください」


私は、自分でも驚くほど、はっきりとした声で呼び止めていた。

猫又が、ぴたりと動きを止めて、訝しげにこちらを振り返る。

「……作ります」

私は続けた。

「今、ここで。少しだけ、お時間をいただけますか」


私の言葉に、猫又はもちろんのこと、茶筅までもが『なっ……!』と驚きの声を上げたようだった。

『澪! 無茶を言うでない! 御大の注文は、生半可なことでは通じぬぞ!』

茶筅が慌てて私を諌めようとする。

しかし、私の頭の中には、一つの閃きがあった。

それは、先ほど海斗さんからもらった、あのおすそ分けがきっかけだった。


「海の香り……そして、大地の恵み。それなら、心当たりがあります」

私は猫又の金色の瞳をまっすぐに見つめ返した。

私の迷いのない視線に、猫又は興味を引かれたように、再びカウンターの前にちょこんと座り直した。

「……ほう。面白い。ならば、その腕前、とくと拝見させてもらおうではないか」


私は頷くと、厨房へと向かった。

茶筅が『おい、澪! 本気か! いったい何を作るつもりじゃ!』と背後から声をかけてくるが、私はそれに答えず、頭の中のレシピを組み立てることに集中した。


まず、海斗さんからもらった発泡スチロールの箱を開ける。

中に入っていたのは、ぴかぴかと銀色に輝く、新鮮なサバだった。

これを三枚におろし、小骨を丁寧に取り除いていく。

そして、塩を振ってしばらく置き、出てきた水分をしっかりと拭き取る。

このサバを、甘辛い醤油ベースのタレで、照りが出るまでじっくりと煮詰めていく。

いわゆる「サバのそぼろ」だ。

味見はできないが、レシピ通りの分量と、焦げ付かないように注意深く火加減を調整することで、記憶の中の味を再現する。

きっと、キッチンには魚の煮える香ばしい匂いが立ち込めているはずだ。


次に、大地の恵み。

これは、同じく海斗さんがくれた、もう一つの箱に入っていたものを使う。

箱の中には、泥付きの立派なゴボウとニンジンが入っていた。

これをささがきにして、ごま油で炒める。

野菜の歯ごたえが残る程度に火を通し、醤油とみりんで軽く下味をつける。


そして、これらを包む生地。

これは、どら焼きでも、まんじゅうでもない。

信州の郷土料理である「おやき」を応用することにした。

小麦粉と蕎麦粉を混ぜ、熱湯でこねて生地を作る。

蕎麦粉を入れることで、素朴な香りと、独特の食感が生まれるはずだ。

これも、パティシエ時代に世界の郷土菓子を研究した際の知識が役に立った。


生地を丸く伸ばし、その中央に、サバのそぼろと、きんぴらごぼうをたっぷりと乗せる。

そして、それを餃子のように丁寧に包み込み、平たい円盤状に形を整える。


最後に、これを焼いていく。

フライパンに薄く油をひき、おやきの両面にこんがりとした焼き色をつける。

そして、少量の水を加えて蓋をし、蒸し焼きにする。

この工程で、生地は外はカリッと、中はもちもちとした食感に仕上がるのだ。


味の最終的な決め手は、仕上げに塗るタレ。

祖母の甘味帳にあった「みたらし団子のタレ」のレシピを参考にする。

醤油と砂糖、みりんを煮詰めた甘じょっぱいタレだ。

これを、焼きあがったおやきの表面に、刷毛でたっぷりと塗る。


甘さと塩辛さの融合。

海の幸であるサバと、大地の恵みである根菜。

そして、素朴な生地。

猫又の出した難題に対する、私の答えだった。

私は完成した、熱々の「サバそぼろと金平ごぼうの甘辛おやき」を皿に乗せ、猫又の前に差し出した。


猫又は、目の前に置かれた見慣れぬ菓子を、くんくん、と鼻を鳴らして匂いを嗅いでいるようだった。

やがて、彼は小さな口を開けて、おやきの端を、がぶり、と一口。

その瞬間、猫又の金色の瞳が、驚きに見開かれた。

二股の尻尾が、ぴん!と天に向かってまっすぐに立つ。


彼は咀嚼するのももどかしそうに、夢中で、しかしどこか気品を保ちながら、おやきを頬張り始めた。

「……む」

「……むむむ!」

「……こ、これは……!」


彼は食べ終えると、はーっ、と満足のため息をついた。

そして、前足で丁寧に顔を洗い、毛づくろいをすると、再び私をじっと見つめた。

その瞳には、先ほどまでの尊大さは消え、純粋な感嘆の色が浮かんでいた。


「……参った。完敗だ」

猫又は、潔くそう言った。

「まさか、魚と根菜を、このような形で菓子に仕立て上げるとは……」

「甘みと塩気の調和が見事。サバの旨味とゴボウの風味が、互いを高め合っておる」

「そして、この生地のもちもちとした歯ごたえ……。春の菓子は優しさの味だったが、おぬしの菓子は、驚きと発見の味じゃな」


最高の賛辞だった。

私は、ほっと胸をなでおろした。

『見事じゃ、澪。わしですら、この組み合わせは思いつかなかったわい』

茶筅も、心なしか声が弾んでいる。


猫又は、ふ、と笑みを浮かべたように見えた。

「気に入った。小娘、おぬしの腕は本物だ」

「これからは、我の縄張りのあやかし共が、世話になるやもしれん。その時は、よしなに頼む」

「……それと、これは駄賃だ。とっておけ」


そう言うと、猫又は口から、きらりと光る小さなものを一つ、ぽとりとカウンターに落とした。

それは、指先ほどの大きさの、美しい青い石だった。

まるで、夜空のかけらを閉じ込めたかのように、深く、澄んだ色をしている。

「それは?」


『おお! それは、「猫目石(キャッツアイ)」ではないか! いや、ただの石ではない。長い年月を経て、霊力を宿した「霊石」じゃ。持っておれば、良き客を呼び、悪しきものを遠ざける守り石となるじゃろう』

茶筅が興奮気味に解説する。


私がその石を拾い上げようとした時、猫又は「礼には及ばん」とでも言うように、すっと立ち上がった。

「また来る。次も、我を驚かせるような菓子を、期待しておるぞ」

その言葉を残し、彼は音もなく、するりと店の影に溶けるように消えていった。


あっけにとられて、私はただ、手のひらの上の冷たく、滑らかな霊石を見つめていた。

人間の客、そして、あやかしの客。

少しずつ、この『黄昏』という店が、私にとってかけがえのない場所になっていくのを感じていた。


がらり、と。

また、店の戸が開く音がした。

振り返ると、そこには郵便配達員らしき制服を着た若い男性が立っていた。

彼はきょろきょろと店内を見回し、少し申し訳なさそうに私に話しかけてきた。

「あのう、すみません。こちら春さんの……甘味処『黄昏』さんで、お間違いないでしょうか」


「はい、そうですが……」

私が答えると、彼はほっとしたように表情を和らげた。

「よかった。実は、春さん宛に一通、配達記録の郵便物が届いておりまして。ご本人が亡くなられたと伺ったので、ご親族の方にお渡しするようにと……」


そう言って彼が差し出したのは、一通の古びた封筒だった。

宛名には、確かに祖母の名前「木崎 春様」と書かれている。

しかし、差出人の名前はなかった。

ただ裏面に、見慣れない奇妙な紋様が一つ、押されているだけだ。

「これは……?」


私が封筒を受け取りながら尋ねると、彼は首を傾げた。

「さあ……それが、私にもよく分からないのです。ただ、局に古くから伝わる決まりでして。この紋様の郵便物は、必ず手渡しで、ということになっておりますので」


不思議に思いながらも、私は礼を言って封筒を受け取った。

配達員の男性が去った後、私は改めてその奇妙な封筒を眺める。

茶筅が私の手元を覗き込み、『む……? その紋様、どこかで……』と唸っている。


一体誰が、祖母にこんなものを送ってきたのだろうか。

私は好奇心に駆られ、そっと封を開けてみた。

中に入っていたのは、一枚の古地図のようなものと、短い手紙だった。

手紙には、流麗ながらも力強い筆跡でこう書かれていた。


『春殿、久方ぶりである。古き約束、今こそ果たす時が来た。地図の場所にて、待つ』


約束?

古地図?

意味が分からず混乱していると、茶筅がはっと息を呑むのが分かった。

『……思い出したぞ! その紋様は、「山の主」のものじゃ!』

「山の主?」

『うむ。この町を見下ろす、あの険しい山の頂に住まうと言われる、偉大なるあやかしじゃ! 春様は生前、山の主と何か約束を交わしておったのか……!』


茶筅の驚愕した声が店内に響く。

古びた地図と謎の手紙。

そして「山の主」との約束。

私の知らない祖母の過去が、また一つ、目の前に現れた。

この地図が示す場所には、一体何が待っているのだろうか。

私はごくりと唾を飲み込み、地図に描かれた道筋を、指でそっとたどった。

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