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ほとんど一人で生きてきた男の身分で、これまでに女の体を触った回数は多くない。生きた重みがあって、程よい弾力を含んでいて、温度をまとっている。それが、目の前の人が差し出そうとしているすべてだ。私が留めておけなかった断片だ。
息をのみ、横たわる女性の体を捉える。深緑のカーディガンの下に白いブラウスが上半身の輪郭を表す。普段から膨らみは目立たないが、注意深く観察すればしっかり判る。濃紺のチノパンを支えるベルトが巻かれた、腰回りは肉感を持ちつつくびれが現れている。
視線を巡らすうちにその顔が薄く色付いていくのが不思議だった。私は座ったままの体勢で天井を仰いだ。話を聞く限り、この子には免疫があるはずなのだ。“まだ”触れてすらいないにも関わらず、まるで経験を迎えていないような反応だった。
「……では、服を脱いでもらおうか」
私もまた言い放った。淡々と空虚な声に努めて、目線もまた遊びの隙を与えない真を目指した。これに対する人は一瞬の呼吸を置いて身を起こし、座りながら着ている衣服を一枚ずつ自ら剥がしていった。
すると、普段は決して目にすることのない布地が現れ、象徴的な曲線が露にされる。首筋から腰部にかけて色の白い、健康な体付きが浮かび上がったのである。ひとまず服は取り除かれ、彼女を保護しているのはズボンくらいなものだった。
帯に手をかけようとする彼女に一言、待つように制した。その姿になって初めて私の方を見つめる子の目の震えは笑いでも憂えでもなかった。感情を伴う伴わないの中間の、堅い顔付きだ。寡黙と化した口に代わり、眼差しは次の指示を待っていた。
「君の覚悟は充分に伝わった。ありがとう」
私が言うや否や、まったく予想外の第三の声を発した。
「ちょっ、とォ!! ……あたしをこんな姿にしておいて“何も”しないで済まそうというつもりですか!?」
憤りに顔を赤くされた木村の、上半身は秋始めの気温にしては涼しすぎる格好で、眺めて終わらすには惜しい果実が二つほど実っていた。女性の有する特徴においてその柔らかい部分が、最も私の心を踊らせる力を秘めていた。一人暮らしをする男の日常で手にする機会は決してないがゆえに、その希少な恵みは干上がった地表を潤す泉に値した。
見るだけでも私の失われた好奇心は躍動を止められずに高鳴っていたが、さすがにそれを“お礼”として頂戴するのでは収まりが着かないこともまた理解できた。まず、木村に費やした食事代は五〇〇円にすら届いていなかった。それから、明らかとなった谷間を観る権利が、出させた金額に充当されるとは彼女も考えていないのだろう。
じつのところ、私自身の満足に興味はない。若い女の子と一緒に過ごし気を紛らす。この上に欲しいものはなかった。だが、木村の真意を受け取らずに逃げているだけだ。彼女は値段よりも意図したい事があるのだ。私にはその正体が解っていた。
ふすまから離れ、畳の上で低い姿勢のまま彼女の方へにじり寄る。目を凝らして、不安の色が拡がる相貌を捉える。体型と同様、均整の取れた目の輪郭が心なしかひずんでいる。真正面から近付き、手の届く位置で止まった。
「あの。その。やさしく。お願い。……します」
決断する直前、彼女の赤面が怒りからか照れからかは区別できなかった。いずれでも構わない。意図された通りに示すのだ。この一瞬だけは獰猛な獣になってしまえばいい。逃がさないように全身を使って捕食する獅子を思い描き、獲物に向かって飛び込んだ。
背骨から胸骨が形作る厚みには、安らぎがあった。「人が生きている」という疑いようのない証明があった。この世界には自分以外の人間が大勢生きているのに、触れ合うことがないと思っていれば、この「生」には行き着かない。火照っているせいか、温かく柔らかな肌が私の服に混ざり合う。
しかし、もう私はだれかをきつく抱き締められなくなっていた。いつしか、燃え盛る欲情の焔は消え、方法すら覚えていなかった。原理としては、腕に力を込めるだけで成立するのだろう。そう簡単な話だったら、ここで試している。
「どうしたんですか」
無防備に捕らえられた獲物は身じろぎせず、敵意のない声音を響かせた。このまま食べてしまえたら本物の獅子のようでもあるが、差し詰め、行き場をなくした捨てネコでしかなかった。
愛を忘れた。それはどんな形で、どのようにして表現するかも実感が湧かない。現に、木村を包み込んでみても力が入らない。抵抗すればすぐに抜け出せるようにしておいた。わざわざそうしなくとも、声を掛けられた私は緩やかに拘束を解いた。
深くうなだれて、下しか見れない。私は「生きていない」のではないか。その問いばかりが繰り返し頭の中を駆け巡った。悔しいが、無常な追及を交わす手立てはない。それなのに、救いの手はすぐ近くから伸ばされた。
ひしと抱擁をされた。前にも一度、このような事があったかもしれない。その頃から、私は他者の自発的な接触には弱かった。何も指図をされていないのに、自分の意志から行われるそれには絶大な価値があった。
木村の腕力はレストランで聞かされていた通り、女の細腕にしては弱くなかった。そして、胸の膨らみが思いっきり当たってくる。ここで抱き締め返して、唇を重ねるくらいのことをしてみたら、どんな顔をされるか気になる。
頭ではそうした事を考えていたはずなのに、どうしてか溢れ出すものが止められそうになかった。大人になって流すことも減った、まぶたから一滴ずつ垂れていく穢いものが、繰り返し何度も滲んでは、頬に線を作り、落ちていった。
その日も木村はカラオケ店の受付を担当していた。
季節が巡りゆく十月に入り、カラオケボックスに通い始めた頃を思い出す。ちょっとのことで歌は上手くならない。それでも、私は唄うことが楽しくてやめられなかった。当初、仕事が終われば決まってそこへ向かい、後に予定のない日ならば朝方まで続けるほどだった。
どの年代の曲を唄うかで世代が明るみになるのと同じ原理で、性格のひねくれ具合はジャンルが教えてくれる。ポピュラーよりもサブカルチャーに傾倒する私の選曲は、知っている人でなければ不可解な内容だ。逆説的に、その筋に通じてさえいれば深い理解を得られて、なおかつなぜその時期・その日に唄われるのかも推測できてしまう。
唄い方は人それぞれあるが、私は周囲に比べあまり大きな声を出さない。大音声は能力の一つだと思う一方で、のどや息の消耗が増え、音程の精度を保つのが難しい。大声を出せば満足感は得られ、実際よりも唄えていると思い込んでしまうはずだ。しかし、それはよくあるカラオケ利用客の典型であり、隣室がそのようだと気分が下がる。
カラオケを利用する客層は男女一組や同性同士、団体という一般的な組み合わせが見られる一方で、一人だけで来る者もわずかに居る。ここは仲間との時間を共有する場として使われることが多いのだが、私みたいに同伴者が居ない客の多くは歌を唄うこと自体を目的としている。
割り当てられた一室ではソファに腰掛け、持参したマイクを握る。カラオケに慣れてきてから、思いきって高価なマイクを家電量販店で購入し、五年以上使っている。本体の銀色のコーティングがケーブルの接続部との金属同士の摩擦によってところどころ剥げている。音域によって音を拾いにくい傾向があり、そろそろケーブルもしくは本体をまるごと買い換えようかと考えている。
それと歌の程度を知るためにICレコーダーを必ず用意する。これが三台目になる。前二台は性能に満足しなかったり壊れたり等で手放した。これで録音した声を後々に聴いてみると、癖があることに気が付く。
これは自分自身の体型に次ぐcomplex であり、職場や外出先で発せられる度にちゃんと響いて他者に伝わるのかが頭を悩ませる。言ったことを聞き返されれば、耐え難い苦痛に苛まれる。大きい声が出せないわけではないが、一人で居ると声を発する機会が極端に少ないのだ。このところ彼女と会話をするため、声の通りは良くなった。
週に三回はここに赴き、一時間しない程度で切り上げ、退室する。カラオケを終えるいつもの時刻にアルバイトを終えた木村と合流した。カーディガンを羽織り、ズボンを穿いたこの中性的な着こなしは見慣れていた。薄化粧でも可憐な目鼻立ちをして、性別を武器にした扱い方ができる逸材にも関わらず、落ち着きすぎな雰囲気が漂う。
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