第20話 名前のない茶器

——はくぼどうの棚には、時おり“誰のものでもない”器が現れる。


それは急須だったり、湯呑みだったり、小さなシュガーポットだったりする。

だが、共通しているのは「名前がないこと」。そして、「誰かの記憶とともにふっと現れること」。


 


「ユウ、これ……昨日はなかったよね?」


主人公は、窓際の小机にぽつんと置かれた茶碗に目を留めた。

白磁に淡く浮かぶ青い模様。どこか懐かしく、でも確かに見覚えはない。


 


「うん、それは今日から在る。つまり、今が“その器”の時間なんだろうね」


ユウは、棚から軽やかに飛び降り、茶碗の前にちょこんと座った。


 


「時々あるんだ。持ち主を忘れられた器が、記憶の端っこから漂ってくる」


「それって、器の方が誰かを想ってるってこと?」


「かもね。あるいは、誰かがこの器を“忘れられない”でいるのかも」


 


そう言って、ユウは主人公の方をちらりと見る。


「思い出せない名前ほど、心に残るものはないよ。だって、“思い出したい”って気持ちがそこにあるから」


 


主人公は、そっと茶碗を手に取った。

ひんやりとした感触の中に、ほんのりとした温かさがあった。

まるで、どこか遠くから届いた体温のように。


 


「……これ、誰のだったんだろう」


「それは、君が決めていい。だって今、この店にあるってことは、“君の中に現れた”ってことだから」


 


外の風がふいに、少しだけ吹き抜けた。

風鈴は鳴らず、代わりに棚のガラスが、ほんのわずかに揺れた。


 


——誰かの記憶のかけらが、また今日も、はくぼどうの中にひとつ宿る。

それは、名もなき器にそっと注がれる、小さな物語。


 


まだ名前のつかない記憶は、静かに、ゆっくりとあたためられていた。


 


つづく。

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