第5話 静寂の帳(とばり)
いつも通り、夕暮れの光が店の奥まで差し込んでいる。
けれど今日は、少しだけ違う空気を感じていた。
空気が張っている。けれど、誰もいない。
そんな時に限って、ふと“誰か”が来るのがこの店の不思議なところ。
「……こんにちは」
扉の音もなく、彼はそこに立っていた。
年齢は僕より少し上くらい。落ち着いた雰囲気で、目元にどこか疲れの色がある。
彼はゆっくりと入ってきて、何も言わずにカウンターの一番端に座った。
「いらっしゃい。コーヒー、淹れるね」
「……はい。お願いします」
言葉は交わされたけれど、彼の中にはまだ“話したくない何か”がある。
そういうときは、無理に踏み込まない。
僕は黙って豆を挽き、お湯を落とす。
コポコポとした音が、静寂のなかに溶けていった。
しばらくして、コーヒーを差し出すと、彼はそっと手を伸ばした。
口に運び、一口。
そして、ようやく、ぽつりと呟いた。
「……この店、夢で見たことがある気がします」
僕は驚かなかった。
たまに、こういう人が現れる。
「でも、来たのは初めてですよ。道に迷って、気がついたらここにいたんです」
「そういう人、けっこういるよ」
「……そうなんですか」
彼は少し笑った。だけど、目は笑っていなかった。
「最近、ずっと眠れなくて。夢の中で、何かに追われている気がして……。
だけど、その“何か”の姿は、いつも思い出せないんです」
僕は黙って聞いていた。
それは“よくある悩み”なんかじゃなかった。
彼は、自分でも気づかないまま、何か大切な記憶を置き去りにしていた。
「この店には……“忘れていたもの”が置いてあることがありますよ」
「……忘れていたもの?」
僕は視線で合図した。
店の奥、“例の棚”。
彼は少し迷ったあと、静かに立ち上がり、棚の前に歩いていった。
しばらくして。
「……これ」
彼が手に取ったのは、小さな銀の懐中時計だった。
蓋には、名前のないイニシャル。針は止まっていて、時間を示していなかった。
「……これは、父のものに似ています。でも、たぶん違う。
なのに……なぜだろう、これを見た瞬間に、何かが蘇ってきたんです」
彼はゆっくり、時計を胸元にあてた。
「昔……父と言い争った日がありました。くだらないことで。
僕はその夜、家を飛び出して──そして、そのまま……帰れなかったんです」
「帰らなかった、んじゃなく?」
「……ええ。“帰れなかった”。どうしても、謝れなくて。
でもそれ以上に、“謝れるような自分”じゃなかったんです。
それから……父は亡くなって、時計も、手紙も、全部……失くしたと思ってた」
彼の手の中の懐中時計が、カチリと小さく鳴った。
音もなく針がひとつ、動いた。
「動いた……?」
彼が驚いた顔をしたとき、店内の空気がふわりと揺らいだ。
まるで、時間そのものが、一瞬だけ“ずれた”ような感覚。
「このお店はね、“記憶”にまつわる物が流れ着くんだよ。
手放したもの、忘れたもの、諦めたもの……
ときどき、こうして誰かを通して、それが一瞬だけ、戻ってくる」
「じゃあ……これも、僕の?」
「それは、あなたの記憶が選んだもの、かもしれないね」
彼はしばらく黙って懐中時計を見つめていた。
そして、懐中時計を棚に戻すと、僕に向かって微笑んだ。
「もう、大丈夫な気がします。……眠れる気がするんです」
僕は頷いた。
「それなら、よかった」
「……ありがとうございました」
彼が扉を開けて出て行ったあと、僕はひとつ、深く息をついた。
さっきの“ずれ”。
あれは──このお店が少しだけ、変化した証拠。
懐中時計の針が動いたとき、あの棚の一番奥に、“まだ見たことのない扉”が浮かび上がっていた。
その扉の先に何があるのかは、まだ僕にもわからない。
だけど確かに、このお店は今日も、誰かの“記憶”とともに動いている。
──つづく
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