第3話「ひとつだけ、忘れてきたもの」
「君も、ここに忘れ物をしに来たの?」
店の奥にいた少年は、まるで前から知っていたように僕に問いかけた。
壁際の棚には、古びた帽子、鍵のない錠前、時計の針だけ、
それから……一枚の、名前のない写真。
「忘れ物……?」
僕が言葉を探していると、少年は微笑んだ。
「うん。ここにあるのは、忘れたくて、でも忘れきれなかったものたち。
名前を持たない記憶とか、言いそびれた言葉とか。そういうの」
棚の上のカップから、微かに湯気が立っていた。
誰かがついさっきまでここにいたような、そんな気配。
僕は、思い出す。
どうしてこの店に入ったのか──
いや、なぜ“入れた”のか。
「……たぶん、忘れたかったのに、捨てきれなかったものがあって……」
「でしょ?」
少年は、何も言わなくてもすべてを知っているような顔で頷いた。
「忘れられない記憶って、厄介だよね。
何年経っても、ふとした拍子に思い出して、胸が苦しくなる。
でも……それがあったから、今の君がある。そう思うと、ちょっと愛しくなったりもする」
「君は……この店の人?」
「ううん、違うよ。僕も、ただの“通りすがり”」
そう言って、彼はくすっと笑った。
「でもさ、この店って不思議だよね。
誰かを待ってるようで、でも誰も呼ばない。
でも、来た人にはちゃんと“見つかるもの”がある」
外の光は、いつの間にか夕暮れ色に変わっていた。
でも、時計は動いていない。
音も風もないのに、時間だけが少しずつ、店の奥へと沈んでいく。
棚の片隅、ひとつだけ埃をかぶっていない小さな鈴があった。
触れようとしたとき、少年がふと口を開いた。
「それはね、君がいつか、誰かに渡すべき言葉だよ」
「……え?」
「まだ使っちゃダメ。まだ、その時じゃないから」
僕は手を引っ込める。
そして気づいた。少年の姿が──
棚の影に、溶けるように消えかけている。
「ねえ、君の名前は?」
「……それは、君が決めてくれていいよ」
そう言い残して、少年は静かにいなくなった。
僕は、棚にそっと手を添える。
そこには確かに、誰かの“想い”が残っていた。
——忘れたものが、見つかる場所。
——名前をつけられなかった気持ちに、形を与える場所。
この店は、そんな記憶たちの“よりどころ”なのかもしれない。
外に出ると、風の匂いが変わっていた。
たったひとつの忘れ物が、心のどこかで温かく灯っていた。
——第三話・了。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます