第四楽章

「ごめん、待った!?」

 肩で息をしながら、おしゃれした水音と陸翔のもとに全力で走っていく。あれ、いつもポニーテールの水音が髪を下ろしてる。珍しい。

「遅い!あともうちょっとで電車来るよ、早く早く!」

 今日、朱莉の墓参りを終えた僕は、二人と一緒に東京に遊びに行くことになった。乗り換えは1回で行ける距離だったから、高校生だけでも十二分に行けるわけだ。

 決して少なくないお小遣いをお父さんがくれたから、かなり遊べると思う。僕の稼いだお金で行きたいと言ったけれど、初の東京デビューはお父さんからしても嬉しいらしい。そのお祝い、とのことだった。

 なんとか電車に乗り込み、3人で並んで座席に座った。僕が真ん中で、右に水音、左に陸翔。

 もう八月も終わりかけだけれども、残暑がかなりきつい日だ。電車内の冷房が僕らを冷やしてくれる。

「空が遅れるって珍しいな。俺、時間には几帳面なイメージあったんだけど」

「ちょっと寄り道してたら思ったより時間食っちゃって。ごめんごめん」

 他愛のない話を続けて、乗り換えの電車もまたギリギリで乗り込んで、窮屈な車内でお互いを見失わないようにするのが精一杯になったり。

 なんとか渋谷駅まで辿り着くと、そこから僕らはいろんなところに行った。アイスを食べたり、ちょっとしたお土産を買ってみたり。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた路線図に目が回りそうになりながら、3人でいろんなところを回った。

 

 特に、大きな本屋に入ったときはまさに心躍ると言った感じで。

「俺、正直小説読むの苦手なんだよね」

 そう言いながら僕と陸翔は本屋の中を散策していた。大きな建物で、本を見ながら歩いているだけで日が暮れそうになる。

 水音はギター譜を見に行っているから、二手に分かれた形になる。

「え、そうなの?僕の小説読むの好き、って言ってたじゃん」

「そりゃぁ……なんでだろうな。不思議と読めるやつは読める」

「まあ、確かに本っていろんなのがあるからね。体調が悪いと文章が頭に入らない小説もあれば、逆に体調がいい時に読んでも何も感じない小説があったり。それにも個人差もあったりね」

「本にも向き不向きがあるってことか?」

「そうかもね。うーん、どういう話読んでみたい?」

「芸術家が破滅する話」

「……それ、小説家と音楽家のことじゃないよね」

「どう思う?」

 夏休みでの、陸翔との一件。結局僕はその後を問うことはできなかった。でも、宿題はした。とだけ言っていた。

 僕と水音はまだ憎まれているのだろうか。

「小説家と音楽家の話は分からないけど……」

 ちょうどいいものを見つけて陸翔に手渡した。

「ん、なんだこれ?」

「『地獄変』。元は宇治拾遺物語なんだけど、これは芥川龍之介が書いたやつ」

「へぇ、どんな話よ」

「良秀っていう絵師が、屏風を描くために娘を焼いてしまう話。自分は合わなかったけれど、もしかしたら気にいるかなって」

「そりゃまた昔の文豪が好きそうな話じゃん……」

 正直、この本をお勧めしたことを悔やんでいる。最後には、その良秀本人が死んでしまうから。それも自死して。

 良秀は、なぜ死んでしまったのだろうか。娘を手にかけた後悔か、屏風の出来に不満足だったからかもしれない。いつも陸翔の顔についている絆創膏は、そんな危うさを感じさせていた。もちろん、今も右頬についていて、先週はおでこにデカデカと貼られていたり。

「読んでみる?」

「そうだな、読まず嫌いしてたら理解できない」

「理解って、何を?」

 気にすんな、と笑って頭を振った。そう言って陸翔は会計レジまで行ってしまう。

 

 いきなり一人にされた僕は、少し怖くなってしまった。大量の本に囲まれながらも、結局人間は僕一人。森下さん、彼女も同じなんだろうか。周りの人間に恵まれたって、僕も彼女のように本に狂ってしまうのか。もう狂っているのか?通路に立ち尽くしていると、だんだんここが本当の世界で今までの経験は偽物なんじゃないかと思い始めてきた。この世の全てを本として読むことができる図書館を、ボルヘスは記した。僕はその図書館の本を読み耽る司書の一人で、つい脳内に新しい世界を作り出してしまったのではないか。

「空?」

 心臓が悲鳴をあげて、体が反射的に痙攣する。過剰に驚いた僕に、水音も驚いてしまったようだ。

「びっくりした、空、大丈夫?」

「う、うん。ギター譜、いいの見つけた?」

「そりゃたくさん。やっぱり都会は違うね」

 かなりの量を抱えていて重そうだから、半分ぐらいを僕が代わりに持つことにした。

「すごい量じゃない?お金とか大丈夫なの」

「ま、バイト頑張ってるからこれぐらい平気。空は何買ったの?やっぱ自分の本とか買っちゃう?」

「自分の本を買うって想像したことないかも。買ったのは……「ゴドーを待ちながら」、舞台の脚本みたいなの。あと、生成文法の入門書とか。SFの小説もちょっとだけね」

 僕のリュックサックには膨大な文章が詰められている。もちろん、かなりの金額になったし何より重い。本屋で大量に買うことはまあまああったから、重さには慣れている。問題は帰る時か。

「わ、わかんない……何、入門書って大学生みたいな。しかも脚本とか何に使うの、文化祭でやってみたりするの?」

「好きな作家さんが生成文法を元に本を書いたことがあって、それで興味持ったんだよね。あと、『ゴドーを待ちながら』って戯曲はバケットっていう人が書いたんだけど、その人がすごく厳格な方でね。脚本を少しでも変えることが禁止されてる。だから当時の文章比較的そのまま残ってて、すごく貴重なんだよ」

「す、すごいね、知の巨人って呼んでもいい?」

「そんな大したものじゃないよ。もっとすごい人なんてたくさんいる」

 レジに着くと、会計してくるね、と言って一人で列に並んでしまった。陸翔と合流して、水音の会計を待つ。

 

「このあとどうするん?」

「僕行ってみたいところあるんだよね、付き合ってくれる?」

「もちろん。水音も良ければな。そういえば、最近……空、なんか変わったよな」

「な、なんかって何」

「うーん、見た目もそう。なんか、成長してんのに女子っぽくなってない?男性ホルモンとか、この時期不安定になるっていうし心配っちゃ心配だぞ」

 心配してくれるんだ、とちょっと嬉しくなった。それと同時に、ちょっとお父さんみたいでくすぐったい。

「夏休みの間ずっと長編小説書いたんだよ。夜更かしご飯抜き当たり前で。髪なんかも切るぐらいなら家で手入れしてそのまま、なんてやってたらこんなんなってた」

「なるもんなのか?それ……ま、まあそれはいいんだけど。なんていうか、いなくなりそうな感じ?」

「何じゃそれ、カップルみたいなこと言わないでよ」

「いや、うーん。なんていえばいいのか分からないんだけどさ。ほら、文豪って若くして亡くなる人多いじゃん。その空気感があるんだよ。ほら、さっきの地獄変だって、芥川龍之介だろ。若くして死んだ文豪の代表例みたいなもん」

「全員が全員若くして死ぬわけじゃないでしょ。でもまぁ、そういう人たちと同じ空気感って、むしろ嬉しいかもしれない」

「結構真面目に心配してるんだけど」

 その時、水音が小走りでこっちに戻ってきた。大きめなレジ袋には、いっぱいのギター譜が詰められている。

「行くか、どこ行きたいんだっけ?」

「路上ライブ見てみたい。水音も好きそうだし、いいよね」

「ま、都会の音楽レベルは気になるし。行ってみるか」

 走ってきた水音に路上ライブをみてみたい、と話すとちょうど彼女もみたかったようで、穴場の公園に行くことになった。

 電車で移動している時、ふと窓の外を見たら辺りが薄暗くなっていた。夏となり、日の入りが遅くなったとはいえ時間が止まるわけじゃない。

 ああ、今日ももうすぐ終わってしまうんだな。なんて思いながら、水音の案内で電車を降りた。


 水音曰く、ここの近くに路上ライブの穴場スポットがあるらしい。実際はとんでもない量の通行人でごった返している、ここは穴場というよりアパートのセール品売り場に近いカオスだ。

「ねえ、ここほんとに路上ライブやってんの!?楽器とか壊れる勢いじゃない!?」

「都会きたことない空と陸翔には分からんか!これこそ都会、トーキョー!」

 流石の活発的な陸翔も、初めての都会には苦戦しているようだ。人混みが続いて、近くにいるのがやっとで歩くことさえままならない。

「嘘だろ、こんなんじゃゆっくり見れんわ!」

「大丈夫、ついてきて!」

 言われるがまま、人混みをかき分けていく水音をさながら自転車レースの風避けのように先頭に据えてついていく。それでも人は多いから、僕は陸翔の肩を掴みながらなんとかしがみつく。

「ちょ、空!地味に痛い!」

「我慢してよ!このまま着いていかないとここで二人共倒れだから!」

 こんな人の流れの中で水音はスイスイと進んでいく。なんとか比較的人の少ない通りへ辿り着くと、彼女の言う「穴場スポット」に辿り着いたらしい。いろんなところで楽器を持った老若男女が好き放題、ジャンルすら統一せずに音楽を奏でている。

「ようこそ、音楽の世界へ!」

 と水音は腕を広げて自慢げにして見せる。

「すご、人はたくさんいるのにさっきと違って窮屈感ないわ」

「ライブしてるとこで立ち止まってるからかな、なんかお祭りみたい」

 ギタードラムベースの3ピースもいれば、みた事もない打楽器を一人で黙々と演奏していたり。所謂ジャズだろうか。サックスやトランペットの管楽器も見られる。それぞれの演奏スペースには看板が置いてあって、そこにはアーティスト名とかSNSのQRコードだとかが書かれていた。

「演奏してるみんなはね、ここで知名度を上げたりスカウトを受けたりするためにここにいる。ほとんどは、だけど。だからレベルが高いんだよね」

「ここで集まってるってことは、近くにレコード会社とかあったりするのかな」

「お、空はやっぱ鋭い!そう。音楽出版社の近くとか、探してみると結構こんな空間が多いんだ」

「すげえな、絵描いてるだけの俺からしたらほんとに別世界って感じ」

 それから僕らは、いろんな演奏を見聞きした。陸翔はどうやらケルト音楽を得意とする四人バンドがお気に入りみたいで、すぐSNSだとかをフォローした。水音といえば、こういう場所によく通っていたのか時々知り合いと話したり、なんなら演奏に飛び入り参加までしていた。いきなりギターを演奏できるなんて、そんなことできるのだろうか。でも実際演奏はうまかったし、観客も盛り上がっていて、何より楽しそうだった。

 一方僕は、確かに素晴らしい演奏ばかりだったのだけれど。どうしてもあれが好きこれが好きとはならなくて。つい体が動いてしまう、そんな音楽はなかった。もちろん、いろんな音楽を知ることができて楽しかったし、何より幸せそうな人を見るのは心地よいものだった。でも、何かが欠けているような気がして。

 二人がブラスバンドに見入っている間に、こっそりと脇道というか、路地裏に抜け出した。

 さっきまでの喧騒が遠くなっていくにつれて、少し涼しさを増していく。壁にもたれかかって、少し休むことにした。思えば今日は歩き通しで、ほとんど休む暇がなかったな。本で重くなったリュックを持ちながらだと特にきつい。はぁ、とため息をついてスマホをみる。もう8時ぐらいか。高校生がいるには、少し遅い時間になりつつある。

 まるで映画で悪役に追われる主人公みたいだ、と思ってしまう。やっとの思いで追跡を巻いて、一息つくシーン。

 ふと僕が通ったきた道の方をみると、ギターケースを背負った少女がいた。水音とは違って背丈も小さく、僕より一個二個はしたかもしれない。

「大丈夫ですか?」

 まさか第一声で心配されるとは思っていなかった。脇道で座り込んでいる人を見かけて助けようと思う人はあまり多くないだろう。

「大丈夫です、僕は……ちょっと疲れちゃってて」

 僕がそういうと、彼女は僕の横に座り込んだ。よく姿を見てみると、学生服を着ていた。それなのに髪は所謂ウルフで、襟足を朱く染めていた。ピアスも派手目なやつ。正直なところ、ちょっと苦手なタイプだ。そんなことを言えば、僕も長髪の男なのだから人のことは言えないかもだけど。

「私も少し疲れちゃって。お隣、失礼しますね」

「路上ミュージシャンしてるんですか?僕と同じか、ちょっと下ぐらいですよね、年齢」

「今年で高校一年なんです。私。親の影響でギター始めてから、路上でたまに『リア』っていう名前で弾き語りしてるんですよ。普段はこんな人多いところじゃやらないんですけどね」

 軽く笑みを浮かべて、足元を見ている。

「僕、今年二年になったんですよ。リア。いい名前ですね。由来はどこから?」

「有明、って言葉あるじゃないですか。夜明けとか、日の出とかの。その有明の真ん中から取ったんです。あと、タメでいいですよ。学校違うかもですけど先輩ですし」

「そう?んーと、遠慮なく?」

「なんでちょっと疑問系なんですか。ま、軽く話しましょうよ」

 ペットボトルの水を一口飲んで、喉を潤す。ぬるい。

「なんでまた、僕に話しかけたの?」

「なんとなくですかね。ははっ。さっきも言ったけど疲れちゃって座る場所探してたら、たまたま。でも楽器の類は持ってなさそうだし、ここの見物人かなって思って」

 まあ、僕の姿はバンドとかだけじゃなくて音楽やるようには見えないか。

「友達がミュージシャンなんですよ、その付き合いで見にきたんです。本業は小説書きで」

「小説家、高校生でですか?すっご、天才ですね」

 プロジェクトと明かすことまではしないけど、初対面の人でも小説家と名乗っている。水音の時もそうだったように。それが僕の本質で、どうしようもない性癖であるから。大体の人はこの人みたいにすごい、とか言ってくるけど。世界にはもっとすごい高校生なんてザラにいる。

「路上ミュージシャンの方が、何倍もすごいよ。だって、人前でやるんでしょ?僕がやったら緊張でカチコチになりそう」

「なりますよ、実際。私、ここでやるの初めてだったんです。いつもは地元の方でやってたんですけど、友達からもっと上を目指せー、なんて言われて。そんで浮かれてきてみればびっくり……というか案の定、レベルの高い人ばかりで。何人か聞いてくれたんですけど、他の人と比べちゃうと、やっぱり少なくて」

「そうなんだ……もっと早くきてれば、リアさんの曲聞けたのに。今日は一人で?」

「はい、アコギ背負って東京まで。いわゆるシンガーソングライターってやつです」

「めっちゃすごい、行動力あるなぁ……小説家なんて、家で原稿書いてるだけですよ」

「あはは、後先考えられないだけですよ。それに、家で原稿書くだけが小説家じゃないことぐらいはわかりますって。取材、ネタ探し。原稿を書くと言っても、構成……プロット、っていうんでしたっけ。そういうのも練って。曲ひとつ作るのとは訳がちがう。とんでもない労力ですよ」

「まあ、長編は大変だったかな……短編だとそこまでじゃない。ちょうど、今日の朝原稿が完成して、出版社さんに送ったんですよ。返信待ちですけどね」

「契約、してるんですか?」

「もちろん。そうなると、いわゆるプロとしての活動ですね」

「すごおおおい!」

 いきなり彼女は大声をあげたけど、ここ最近はそういうのに慣れてきてしまった。人とたくさん関わった恩恵かもしれない。

「私、本物のプロ小説家と話してるってわけですよ、そりゃ!うひゃー、サインください!」

「と、匿名でやってるから……サインとかは」

「じゃあ本名!あ、いや。ペンネームだけでも教えてください!」

 お願い、と言わんばかりに手を合わせて頭を下げている。

「え、うーん、本名でも?」

「是非是非」

「僕の名前は三明空。三回明けるとかいて三明に、大空の空」

「三回明ける……なんか、運命感じますね」

「確かに、有明のリアと三明……おんなじところから来てるね、すごい。にしても、なんで有明から取ったの?」

「最近の流行曲って、夜を歌うのが多い気がして。もちろん、それだけじゃないんですけど。それでもやっぱり、それだけじゃつまんない。朝があるから、夜明けがあるから夜は特に煌めいて見えると思うんです」

「だから有明を歌うんだね」

「そうです!まあ、今んところは微妙ですけどね、あはは」

 よく笑う人だ。初めての都会で路上ライブをして、緊張もまだ解れていないだろうに。水音といえば、こういう場所にはかなり慣れていたな。小説も音楽も、何より量を重ねることが大切だ、やっぱり。

「三明さんは、なんで小説家になろうと思ったんですか?」

「小さい頃から、小説が好きだったから……かな。書きたい、書きたいと思ってひたすら書いて、気付いたらこんなところまできた」

「そうなんですね……三明さんは、今に満足してますか?」

「今、か……」

 どうなんだろう。水音と陸翔。二人と一緒にいる時はすごく楽しいし、満足しているといえばそうだ。でも小説を書くのはどうだろう。人を殺す物語を書く。そんなどうしようもなく幼稚で達成し得ない目標。小説を「書かないといけない」切迫感はあるのだけれど、小説を「書きたい」と思える理由はまだか細いままだ。水音のように人を救いたい、なんて曖昧で輝かしい目的に立ち向かうことが羨ましいとさえ思える。「手を伸ばす」は朱莉に向けた、別れの小説だ。でも、そのあとは?ただ人を殺すためだけ?誰かのために本を書きたくない、と森下さんに言った。人を殺すため、という理由はそれに該当しないと僕は定義したけど。でも、僕にはもっと具体的な目的が必要なんだと思う。他人依存で、とはいえ人のためには書きたくないなんて二律背反に、どう折り合いをつけるべきか決められずにいる。

「うん、満足してるよ」

 久々に嘘をついたかもしれない。

 僕はまだ、満ち足りていない。でも何が必要なのかがわからない。車にはガソリンが必要だ。電子レンジには電気が必要だ。同じように、僕の表現欲には何が必要なんだろう。

「そうなんですね。私は全く。友達が、私より歌も演奏も、歌詞作りも上手なんです。だから、悔しくて悔しくて、毎日練習漬け。それでも追いつけないから、満足なんて言ってらんないですよ。ははは」

「うーん、他人と比べるな、なんて簡単にいえないけれど……それでも、上を見続けたら首を痛めるよ」

「あはは、確かに。でも、その友達は私の目標で、憧れでもあって。私にとっては夜空に煌めく星のよう。ま、有明って言っておきながら結局それを求めちゃうんですけど」

「手を伸ばすように?」

 ここ最近、このワードは耳にタコができるほど聞いたし、逆に僕の口からも呆れるほど出てくるな。でも、人生において何かに手を伸ばすことは必ずある。床に落ちたものを掴むときも、何か目的に向かって努力する時も。

「手を伸ばしても届かないものはあるってことなら、そうかもしれないですね」

「あ、いや、ごめん……そういうつもりで言った訳じゃなくて」

「いや、いいんです。むしろ私が言いたいことって、それなんです。どれだけ頑張っても、星を手に取ることはできないように。でも……綺麗だから、求めてしまうんです。それで手を伸ばして、結局届かなくて」

「何かを求めるって、そんなに原動力になるのかな」

「なりますよ。お金だろうと、世界平和であろうと。人は欲深いんですから。何かを創るって、そんな尊いもんでもないですし」

「書きたいだけじゃ書けない、か」

「そうですよ。何にしても、書いた先を考えないとやってらんないです。普通は」

「ありがとう、僕も何か、そういうの考えてみるよ」

「考えてちゃ見つかりませんよ、多分」

 そういうものかな、と僕は立ち上がる。

「あれ、もう行くんですか?せっかく知り合ったのに、連絡先とか交換しましょうよ」

「あ、ああそうだね、スマホ出すよ」

 初対面の人と連絡先を交換することなんて、ビジネス……というか出版関係でしかすることがなかった。ましてや、メールアドレスじゃなくてメッセージアプリを交換するとは。

 QRコードを読み込んでもらって、友達登録をした。何かのアニメの画像だろうか、それがアイコンになっている。名前は「モエカ」

「あ、名前バレしちゃった。ま、三明さんにならいいです!」

「これからもリア、って呼んでいい?そっちの方が好きかも」

「もちろんですよ!あ、あとで私の路上ライブの動画送りますね!」

「ほんと?楽しみ」

 そういって僕は元来た道を戻る。

「あ、そうだ三明さん!」

「どうしたの?」

「三明さん、音楽やってみませんか?いい声してますよ。ギターボーカルとベースボーカルのツーピースとかどうですか」

「楽しそうだけど、音楽は聴く方が好きかも」

「そうですか……引き止めてごめんなさい、また会いましょ」

「うん、今度は直接ライブ見るよ」

 音楽か、人前でやるかはさておき。ちょっと面白そうだな、なんて思ってしまった。文学に神様がいるなら、そいつに引っ叩かれるかもしれないけど。

 さっきの通りに戻って、二人がいたあたりに戻ってきた。まあ、案の定二人はいなくて。メッセージアプリを見ても連絡がないあたり、まだどこかでライブを見ているのだろうか。かくれんぼで置いてかれた子供みたいにはまだなっていない、はずだ。

 ちょっと軽く感じるリュックサックを背に、ひたすら歩く。ライブを見るためというよりは、二人を探すために。まるで異国を旅する少年。未知の音楽、未知のファッション、未知の人々。時折英語で歌う人もいたから、未知の言語も付け加えておく。

 だんだんとソラを闇が覆っていって、街の照明がいっそう光を強調させている。目眩さえしてしまいそうな通りの音と光に、文学は一切宿っていない。

 早めに撤収しないと、補導を喰らってしまうな。しょうがないから、声を出して探すしかない。

「陸翔ー!水音ー?」

 返事はないというか、この大衆の中では聞こえるはずもない。いわゆるカクテルパーティ効果が発揮されるのを祈るしかなかった。二人の名前を呼びながら人の波をかき分けて進む。

 ここで演奏しているミュージシャンのうち、何人が夢を手にするだろう。音楽でお金を手に入れて、それで生活できるようなプロミュージシャン。ほとんどが、それを夢見てここにいるんだろう。でも、全員が全員そうなるわけがない。むしろ、ここにいる一握りか、もしかしたら全員が無理かもしれない。

 音楽も物書きも……クリエイティブな業界は、極めて狭い門であることがほとんどだ。僕より若くて文章構成の上手な小説家はきっとたくさんいる。それでも、僕と違って全国に名前が知られることのない人がほとんどだろう。なぜか。それは単純に、運の良し悪しでしかない。

 運命という川に流されて、ここだ、と思うところでじっと耐え続ける。そこがたまたま流れの緩やかな場所ならば、水に削られていく速度は遅くなって長寿かもしれない。逆に流れの早い場所だったら、きっとその石はすぐ割れて流されていってしまう。でも、他のどんな石よりも磨かれて、尖っていくことに違いない。その塩梅はかなり絶妙で、すぐ割れてしまっても、時間が経って醜いまま朽ちてしまっても意味がない。

 それでも、川の流れに耐え続ければ流れそのものを変えることができるかもしれない。侵食によってうねる、現実の川のように。


 そんなことを考えながら歩いていた僕は、二人を見つけることができた。人も少なくなってきて、見つけるのは多少簡単だった。

 話しかけようと思ったのだけれど、不意に足が止まる。二人の後ろ姿を見て、つい楽しそうだな。邪魔したくないな。なんて思ってしまった。

 二人が見入っているのはジャズバンドのようで、スーツ姿の男性二人女性二人の四人組。結婚しているのだろうか、それぞれ二人ずつ同じデザインの指輪を薬指にしていた。

 もし僕がいなくなれば。二人は幸せな家庭を築けるだろうか。いや違う。そもそも、僕がいなければ。

 陸翔の水音に対する思いを聞いた時から少しずつ蓄積していた罪悪感。僕が水音と出会わなければ、AS=A=RAREの正体が水音と知ることもなかった。いつか知ることにはなっただろうけど、陸翔がまだ自分自身を憎んでいる現状に知るよりは、二人が親密になってから知った方がずっといいはずだ。そもそも、僕が小説を書かなければ、朱莉と向き合っていれば。小説を書かないといけない、書きたいとなんて思わなければ。

 水音を助けなければよかった――なんて言いたくないけれど、助けるのが僕であるべきじゃなかった。

 たらればの話はやめるべき、というのは理解している。でもこれは僕の本質からくる仮定だ。小説家としてあまりに適している本質。他人の物語を受容し、編纂する能力。でもそれが一方的なものの訳がない。他人への干渉なくして物語の正確な需要はできないから。

 つまり、僕は再犯の可能性がある犯罪者だ。同じような苦痛を、これからも周りに撒き散らすかもしれない。その可能性が高い。

「文学に人生を捧げて、周りの人もぐちゃぐちゃにして。空が生きることなんて、許されちゃいないんだよ」

あの時、森下さんが言った言葉を、僕の隣で朱莉が囁いている。首は酷く変色していて、通常のそれより伸びている。ぽた、ぽた、と何かが滴る音を響かせていた。「朱莉?」と横を見ても誰もいない。いるはずがない。

 平坦な人生は嫌だった。それを過ごすのも、書くのも。平坦では物語は生まれないから。

 誰かが幸せなら、誰かは不幸せだ。僕が幸せなら、僕以外の誰かがその被害を被る。それは朱莉だったり、森下さんだったり、陸翔だったり、水音だったりする。

『一緒に死んでしまおうかとさえ』朱莉の綺麗な字で書かれた遺書の一節。多分、僕は本当に彼女と死ぬべきだった。生きていては、また小説に走ってしまうから。朱莉が恋しくないわけじゃない、でも、引きずっているわけでもない。事実として、僕はそこで死ぬべきだっただけ。昔に比べて酷く情緒不安定になってしまったな、と客観的に考えてしまう。不思議なことに……いわゆる希死念慮を抱いたとしても、僕の頭は極めて冷静で、判断は自明に感じられる。

 ふと、スマホが振動した。ハッとして確認すると、陸翔からメッセージが来ていた。「どこにいるん?トイレ?俺たちここにいるから、早く戻ってな」

 というメッセージと一緒に、二人が見ていたバンドとその風景の写真が送られてくる。「近くかも、迷子になっちゃって」と返し、僕はそっちの方に歩いていく。


 帰りの電車内。帰宅ラッシュは落ち着いたみたいで、渋谷からの電車は少し混んでいたけれど、乗り換え駅からはかなり空いていた。行きと同じように僕が真ん中、右に水音、左に陸翔。

「都会すげー、やっぱり!絵のインスピレーション、爆上げだわ」

「うん、僕も迷子になるかと思った、っていうかなったけど……」

「二人ともいい経験になったでしょ?また行こうね」

 また、か。もう夏休みも終盤、次の夏休みは高校三年……つまり、進路に向けて努力しないといけない時期だ。早ければ二年の冬休みから。二人の進路を僕は知らないけれど……僕自身は、どうするべきか決めあぐねている。このまま小説を書いていけば、周りも自分も、壊してしまう気がする。

「今度行くときはもうちょっと早めに行った方がいいかもな、時間いくらあっても足りないわ」

「路上ライブ巡りね!」

 

 沈黙が続いた。車輪とレールが擦れ、電車が振動する音。わずかな衣擦れの音が場を満たす。

 窓の外では、欠けた月とビルの灯火が光を放っている。細かな星々の光は、それらによって隠されてしまった。

 しばらく電車が進めば、人工物と自然のバランスが逆転することになるだろう。いきなり、左肩に重さを感じた。

「あっ、陸翔寝ちゃってる。確かに今日は疲れたしね」

「そうだね、そっとしとく」

 冷房が付いていたから、暑苦しさはなかった。各駅列車で、到着までかなり時間はあるから大丈夫だろう。

「陸翔だけずるい、私も枕欲しいんだよね」

 と言って、今度は右肩にも重みがかかる。水音も僕の肩に頭を乗せ、目をつぶる。

「あー、こりゃいいわー」

「ちょっと、人のことなんだと思ってるの」

「真ん中に座ったんだから、このくらい覚悟しないとね」

 しょうがない。体を動かさないようにスマホを取り出して、電車内のディスプレイに表示された到着までの時間にタイマーをセットする。これで僕まで寝たら、水音と海から歩いて帰った距離の何倍を、大荷物を背負って帰る羽目になる。それはごめんだったから。

 電車が大きな川に架けられた橋の上を通過する。

 窓からは、ひたすら夜の闇が見えた。遠くに見えたビルディングの光が、唯一の灯りとして水面にわずかに揺らめく。月はちょうど隠れてしまって見えなかった。

「水音」

 返答はない。寝たんだろうな。まるで二人の子を持つ父親だ。でも、嬉しいなんて気持ちはあまり出ない。

 僕さえいなければ、二人は何も知らないまま、幸せにいられた。いっそこのまま、僕だけ遠いところに行ってしまいたい。それが最善であることには、違いないから。

 いきなり僕がいなくなったら、二人とも頭をぶつけて困惑するんだろうな。

 少し目を瞑って、僕も寝ることにする。今日は疲れた。


 僕はペンを持っていた。いつもの帰宅道、空は朱色に染まっていた。蒸し暑かったけれど、どこからか吹いてくる風がちょうどいい気温に感じさせる。

 どこかの一軒家からはカレーの匂いが漂ってきていて、そろそろ夕食の時間であることを教えてくれていた。

 坂道を登りながら、ペンを持ってくるくると回してみたり、何かを書く真似をしてみたり、齧ってみたりする。それに夢中になっていると、斜めに刺さった電柱に頭をぶつけてしまう。そのはずみでペンを落とすと、見知らぬ子供がそれを拾ってくれた。

 子供は150cmといったところで、まだ小学校も卒業していないであろうショートヘアの男の子だった。健康的な褐色の肌を備え、右目の下には絆創膏がついている。不思議そうな顔をしながら僕にペンを手渡すと、それを僕はありがたく頂戴する。

 だから僕は男の子を押し倒して、ペンでその子の右目を刺し、眼球から脳に至るまでをぐちゃぐちゃにミックスした。

 右目から出てくる血には僕の文章が黒いインクとなって溢れ出てくる。当たり前だ、僕のペンで刺したのだから。

 男の子は苦悶の声をあげるまでもなく、即死した。

 ペンが十二分に脳内へ文字を入れ込んだことに満足して僕は立ち上がる。

 住宅街からは火の手が上がって、人々の争う蛮声が絶えずこだましていた。駅のホームでは学生、会社員問わず肉塊となるために線路内に飛び込んでいる。それをみながら僕は、この場面をどのように小説へ活かすかについて考えていた。おや、電車に轢かれると関節はこのように動くのか。ほう、人の死より電車の遅延の方を嘆く人が多いんだな。それに満足して僕は電車内に乗り込んで、破滅する街並みを窓越しに見ながら目を瞑る。他の車両では、きっと争いが起きているんだろうな。僕の車両、僕だけが安寧を得られている。

「そうですよ、私たちは誰かの物語に寄生して、消費して、それを自らの物語として作り出すんです。確かに、それが万人を喜ばせるでしょう。でも、寄生された人はそうじゃないでしょう」

「うるさい、うるさい!僕はお前なんかじゃない!」

 僕はそのことばを拒絶するたびに、少しずつ自分を否定しているような感覚がして。

 スーパーでお菓子をねだる子供みたいに、泣いて、突きつけられる現実を否定し続ける。

 目を瞑っても、耳から入ってくる情報を遮断することはできない。音声化したことばは、脳にダイレクトに入り込んでくる。

「三明君。貴方と私は同じなんだよ。文学に人生を捧げて、周りの人もぐちゃぐちゃにして。そんな私たちが生きることなんて、許されちゃいないんですよ」

 やめてくれ。耳を塞いでも、その呪詛はずっと頭に響いてくる。

「先週、朱莉が亡くなりました」

「私、怖かったんだ。三明が小説家を目指すって言った時より前から、三明の作る文章が。国語の授業、英語の授業、新聞を作る授業もあったよね」

「三明の文章を読んでると、まるで私が、力尽きて海底に落ちていく鯨みたいに感じて。おかしな話だよね。でも、本当なの」

 森下さんの声だけじゃない。朱莉の母、朱莉の遺書。

 ミステリー小説の終盤、点と点が繋がれ事実が明らかになるのと同じように、朱莉が死んでからの記憶がフラッシュバックされる。

 人を殺せるような文章。それはどんな単語で構成されているんだろう。案外、学校の教科書とか話し言葉に近いものだったりするのかもしれない。僕が掴んでいるこのペンは、どうやって人を殺しているんだろう。

 

 読んだ本の中に、殺人の罪悪感は、距離が遠ければ遠いほど減衰する、という話があった。目に見えない範囲なら特に。それは主に戦時下での話ではあるのだけれど、それが日常に当てはまらないという確証はない。

 それなら、なぜ僕は朱莉の死にここまでの悔恨を抱いているのか。僕の手に届かないところで、朱莉はその首を、縄によって締め付けて死んだ。実際に僕がそこにいたわけでもないし、具体的な日時を知っているわけでもないのに。

 

「朱莉」

 

 目を開けるより先に、右頬を撫でる。濡れてはいなかった。

 いきなり右腕を動かしたものだから水音を起こしてしまったようで、目をこすりながら体を伸ばしている。

 電車のディスプレイを眺め、路線図が表示された。最寄りまではあと数駅ぐらい。

「ごめん、水音……起こした?」

「大丈夫、ちょうど起きた感じ。あ、もうちょっとで着くかな」

「うん、数駅で着くよ」

 陸翔はまだ眠っていて、僕の左肩にピッタリくっついている。寝息がダイレクトに感じられて少しくすぐったい。

「空、ちょっといい?」

「うん、どうしたの」

「その、朱莉さんのこと、まだ引きずってる、よね。さっき、名前呼んでたよ」

「聞こえてたか……」

「それで、どうなの」

 前をまっすぐ見たまま、僕は答える。窓の外はすっかり自然だらけで、住宅地になるまで明かりは車内の証明だけだ。

「うん、正直に言えばかなり。でも、書き終わった長編で区切りをつけるって決めたから」

「区切りなんて、つけられないよ。心機一転頑張ろう、なんて無理じゃない?禁煙とか禁酒とかと同じ、これでやめる!って決めてもついつい手が伸びちゃう。気付けば朱莉さんのことを考えてしまう。そうなるよ、きっと。特に小説家なんて記憶力いいじゃん、偏見だけど」

「じゃあ、どうすればいいの?頭でも打って、記憶をなくす?」

「簡単だよ、もっと楽しい記憶で上書きする。今日だってそう。全部が全部そのため、ってわけじゃないけど。夏休みいろんなところ遊びに行ったでしょ?それ、空が朱莉さんの死から立ち直るために二人で相談してたんだよ」

えっ、と声を出して水音を見た。そういえば、なぜ髪型を変えたのか気になっていたけれど……朱莉を思い出させないためなのかもしれない。

「ま、この様子じゃダメだったみたいだけど?」

「ごめん、まさかそこまで」

「いいのいいの、ほんとは秘密の話だったし。……私たち、かなり仲のいい3人組だと思う、思うんだけど、あまりに秘密が多すぎる気がするなって」

「仲がいいから、多いんじゃない?」

「そっか、そうだよね。」

 僕は森下さんのことを二人に話していない。陸翔の憎しみを水音に伝えていない。朱莉にされたことの全てを、誰にも伝えていない。

「水音って日記、書いたことある?」

「え、私はないかも。いきなりどうしたの?」

「僕、自伝を書きたいんだ。今すぐとかじゃないけど、死ぬ前には一度。だから、忘れないように細かく日記をつけてる。そこには、僕の秘密がたくさんある、だから……その時になったら、全部教えるよ。覚えていたら、だけど」

「ふーん、楽しみじゃん。長生きしないとね」

 実は、夏休みの間朱莉の母、綾子さんが何度か僕の家を訪れていた。娘を失った、しかも自殺で。その心労は僕にとって想像できないほど辛いものだったのだろう。僕と朱莉の思い出を話すたび、綾子さんは笑顔になった。束の間だけれども、娘のいた頃を思い出せるのだろう。

 子はいつか親を失うものだけれど、親が子を失ってしまうことは決して前者より多いものではない。その経験者の少なさから、子を失った親はより深く絶望する。普遍的なものではないから、現実を受け入れづらいのだ。そんな被害者を、僕は一時的な思い出話で慰めることしかできなかった。

 そんなことを繰り返していると、ある日僕にノートを渡してきた。朱莉が中学校の間に書いたらしい。受け取った時にパラパラと読んでみたけど、毎日記録しているわけじゃなく、何か大きなことがあるたび書いていたみたいだ。

 そのほとんどが、僕の知らない秘密。大したものじゃないのもあったし、とんでもないものもあった。

 8/2の、あの花火大会の夜のことも。「手を伸ばす」にそれを書くことはしなかった。死人の日記を勝手に使うというのもどうかと思うし、何より秘密は知ってる人がいないからこそ尊いものだと思ったから。

「そろそろ着くね、陸翔起こすよ」

 ぽんぽん、と右手で優しく彼の頭を叩く。

 水音と同じような反応をしてみせ、あくびをしながら体をまっすぐに直した。

「もう着いた?早いなぁ……」

 そんな陸翔の様子を見ながら、タイマーを掛けていたのを思い出した。スマホを取り出して切っておく。アナウンスが目的の駅の名前を読み上げたから、立ち上がる準備をする。

「俺、夢見てたわ」

 どんな?と僕が返すと「3人でバンドしてた。俺がドラムで水音がギター、空がベースボーカル」なんていうものだから、なにそれ、と笑ってしまった。

「本気だよ、楽しかった。ちっこいライブハウスだったけど」

「私歌ってなかったの!?なんかショック……」

「ベースがボーカルって、珍しくない?僕そんな歌えないし」

「空の声いいと思うんだけどな。夢ん中でも大盛り上がりだったし」

 文章を作るのに、声の良し悪しが必要だとは思えないのだけれども。嬉しいともなんとも言えない気分だった。

 車両が失速し、重力が体にかかるのを感じる。荷物を持って、完全に止まってから電車を降りた。

 時間も時間だったから駅で解散することになる。それぞれ別の方向へ向かって歩き始めた。

「涼し……」

 都会の人混みはやっぱりそれ相応の熱量があったから、とんでもなく蒸し暑かったけれど、ここはそんな熱が冷めてしまうほどに、冷ややかで過ごしやすい。

 見上げれば、なんとも綺麗な星空。都会というには建造物が少なすぎて、田舎というには人が住みすぎているこの街は、綺麗な星空が見える街として少し有名らしい。僕はこのことを、タウン誌の出版社から送られてきた、短編小説の企画書で初めて知った。空も綺麗で、ちょっと離れるけど海もある。そう考えると、ここら辺はかなりいい土地であることは確かだ。交通、ご飯とか利便性は度外視にしてもこれらが揃っているのは文章書きにしてもいい材料になる。

 そんなことを考えながら、父のいる家へ帰る。そういえば、ご飯はどうしたんだろうか。


「三明君、出版おめでとー!」

 いつものハイボールが入ったジョッキと、僕のウーロン茶が入ったグラスで乾杯した。

「夏休み、楽しめた?あの様子じゃ相当執筆に力入れてたでしょ」

「友達とたくさん遊べましたよ、おかげでいいもの書けましたから」

「前言ってた美術部の子?」

「はい、あと、軽音部の女子とも仲良くなって」

 本郷さんがいきなり、仰いだジョッキを勢いよく机に置いた。

「軽音部の、女子と!」

 声でかいですよ、と言いつつ僕は話を続けた。

「まあ、美術部の友達と3人で遊んでた、って感じです」

「へぇ、それで、どうなのよ?」

「どうって?」

「決まってるでしょ。れ、ん、あ、い!」

 本郷さんはこの手の話になると途端に高校生みたいになる。他人の恋愛話に目がなくて、少しでも可能性があればくっつけようと企む。ある意味では、この会話をしている時僕たちは対等な気がして、少し心が安らぐ。

「そんなのないですよ!友達として、ですから」

「なんだ、つまらない。小説家として恋愛経験はすべきだよ。でも今回の長編、すごく生々しい青春の恋愛って感じでよかったよ」

 僕は本郷さんには朱莉の話は軽く話したことはあったけれど、関係性としてはあくまで仲のいい同級生。そう伝えていた。だから本郷さんにとっては、これが初めての恋愛経験に見えているんだろうか。

「はは、頑張ります……久々の長編で緊張してたんですけど、そう言ってもらえて何よりです」

「にしても、結構残酷なこと思いつくよね、三明君って」

「残酷、ですか?」

「タイトル、『手を伸ばす』でしょ?主人公は手を伸ばしても届かないものばかりで、それどころか手を伸ばす度誰かが死んでしまう呪い。そんな呪いが結局は解くこともできずに、何かを過度に求めることをやめてしまう。俗っぽ言い方だけど、救いのない終わり方って感じ」

「まあ、そうですね。確かに物語は悲劇で終わっちゃうんですけど……僕にとって教訓なんです。この小説は」

「というと?」

 まだ酔い始めだからか、本郷さんは編集者としての立ち振る舞いがちゃんとしていた。

「求めても届かないものに手を伸ばし続けても良いことない、ってことです。逆に、限界まで限界まで手を伸ばしてしまえば、視界も手も遠くしか捉えられないんです。近くにあった、ほんの小さな幸せへのきっかけを見失ってしまう」

「でも、それって要は慎ましく生きろってことでしょ?」

「そういう捉え方になりますね。でも、僕が言いたいのはこう……折り合いをつけること、なんです」

 折り合い、と本郷さんが返すので、僕は頷いて、少し考えをまとめてから口を開いた。

「川の流れを想像してみてください。上流は水量こそ少ないんですが、流れというと急なんです。一方下流は水量は多けれど、流れは穏やか。また、上流下流で石も違いますよね。上流は大きい石があって、流れるにつれて、下流は砂や泥ばかりになって行く」

「僕は、何かを求めることは何かに逆らうことだと思うんです。それが運命であったり、神様だったり、川の流れだったりする。流れに逆らって、上流に行くほど身を削ってしまうんです。身が削れたら、どんどん下流に流されてしまいますよね。そして最後に、砂や泥となって川底に沈む」

「簡単に言えば、大きいものを求めるほど代償もでかいってことね」

「そういうことですね、すいません分かりづらくて……」

「いいのいいの、わかりやすくする必要なんてないよ」

「ありがとうございます、その、僕が言いたいことはつまり……流れに逆らうことの強さなんです。たとえ削れてしまって川底へ沈んでも、他の人から見たらどれも同じように見えても。その石は、流れに耐え、数ミリでも川の流れを変えた、そんな石なんです。でも、耐える場所は上流じゃなくてもいい。中流で耐えようと、下流で耐えようと流れに逆らった偉大な石となりえるんです」

「それを、『手を伸ばす』で表したかったんだね」

「はい。たとえ最後にバッドエンドがあったとして、ただそれを悲劇としてみて欲しくない、読んで欲しくない」

「三明君、ずいぶん大人びたよね。中身も外側も。長髪、似合ってるじゃん。結構可愛い顔してるし、モテると思うんだけどなぁ」

「は、はあ、ありがとうございます」

 すっかり長くなってしまった髪を撫でる。切るのは面倒だったけれど、お父さんにせめて手入れはちゃんとしろ、なんて言われたものだから、サラサラに保つ努力はしっかりしている。なんだかんだで、切るよりもかなりの労力を使ってしまったな。

「求めても届かないものがある、なんて高校生が言うべきもんじゃないよ、全く……」

 そう言って、またジョッキを仰いだ。もう空になってしまったみたいで、いくつか料理も一緒に追加注文を済ませた。

「なんかあった、って感じだよね。いきなりあんな小説書くなんて、変わったよ、ほんとに」

 一瞬だけ、お母さんがいたらこう言う会話をしたのかな、と考えてしまった。お父さんはお母さんのことをあまり教えてくれなかったけれど、こういうふうに会話できるのなら、きっと楽しいんだろうな。

「三明君はさ、進路決めた?」

「進路、ですか……本郷さんは、どう思いますか?」

「いやいや、三明君の進路でしょ、私がどうこう言えたものじゃないって。小説を書き続けるならウェルカムだし、小説やめちゃうって言っても止めはしないよ。まあ、惜しいとは思うけど」

「そうですよね、僕の進路……」

「もう高校二年も終わりかけでしょ?焦らないと、なんていうつもりはないけど……早めに決めるに越したことはないよ」

 当然、小説家だとしても、僕は一人の高校生だ。プロジェクトの名前を使わないのなら、三明空という一般人。

 将来のことなんて、ちゃんと考えたことはなかった。今、小説を書いて、何かに悩んで、それで精一杯だったから。でもそれ以上に、あの二人が幸せになってほしい。僕がそばにいるべきではないことは理解しているのだけど、やっぱり二人といる空間はすごく居心地良いのも事実だ。だからこそ、その場所をこれ以上失いたくない。

「そうですね、やっぱり、小説を書き続けるのがベストな気もします。文系の大学とか考えていますよ」

「大学は自由っていうけど、結構レポートとか大変な講義は大変だからね。そういうのも、私がサポートしてげるよ。あっ、これ他の人に言っちゃダメだからね」

「あはは、言いませんよ、頑張ります」

 大学か。それなら勉強もしないとな。塾はお金がかかるから、自力で勉強するのが一番だろう。本郷さんなら、教えるのも上手そうだし頼んだらしてくれるかな。まあ、これ以上負担になってはこちらも申し訳ないのだけれど。

「そうだ、やっぱり二作目も書いたなら、三作目も考えてたりするの?」

「うーん、流石に勉強も入ってくるので、すぐにとは難しいかもですけど……書きたい、とは思います」

 書かないといけない、なんて言えなかった。正体不明の執筆欲求。僕の本性が、あまりひけらかすべきものではないことは確かだ。本郷さんはただ、そっか、と言って微笑むだけだった。

「さ、出版記念なんだからたくさん食べないとね!もちろん、私が奢るから心配しないで食べて」

 沢山の料理が運ばれて、時間が来るまで本の話や他愛のない日常の話で盛り上がった。編集者とではなく、友達と話しているような感覚がして楽しかった。

 時間が来たところで、解散する流れになる。案の定本郷さんが奢ってくれて申し訳ない。

「ちょっと歩きながら話そうよ。そろそろ涼しくなってきたし、歩きたいんだ。良いかな?」

「もちろんですよ、いつも奢ってもらってるんだし、そのくらい付き合いますって」

「ありがとう、じゃ、行こうか」

 いつもの居酒屋を出て、夜道を歩く。いつもはすぐ解散だったけれど、一緒に歩くなんて初めてだったかも。家は近めだから送りも必要なかったし、逆に高校生の僕が送るわけにもいかなかったから。本郷さんがどのあたりに住んでるか、とかは聞いたけど実際にそこまで行くこともなかった。

 

「三明君に話しておきたいことがあって」

「はい、どうしたんですか?」

 僕らは、住宅街のど真ん中を歩いていた。明かりは少なく、時折設置されている街頭がヤコブの梯子のように、局所的な光をもたらしている。

「実は、最近うちの会社に脅迫文めいた手紙が送られてきてて……」

 脅迫文?よくあるネットの犯行予告だろうか。

「実は、三明君がプロジェクトだと知ってる、それをバラすぞ、でなければ編集者を殺す……って」

「正体を知ってて、しかも本郷さんを殺すって……!ど、どういうことなんですか」

「人が多いところじゃ言えなくて、ごめん。誰かは分からないんだけど、図書室がどうの、みたいなことが毎回書かれててね。何か心当たりある?」

 僕のことを知っていて、図書室の話が出てくるのなら、多分というより絶対森下さんだ。

 僕はあの事件の後、森下さんのことは先生越しにしか教えてもらえなかった。謹慎(夏休み中ではあるものの)を受けていて、本人の精神状態が微妙のため、代理として家族が謝罪したいとのことだった。僕はといえば、それを突っぱねてしまったわけだが。家族が謝罪したところでどうこうなる問題でないことは、明らかだったから。

 この過程で僕がプロジェクトだとバレた様子はなかった。あるいは大人たちで機密にしている可能性もあるけれど。

 このこと、そしてそれに至るまでの経緯を本郷さんに伝えると、顎に指を当てて考え始めた。いつも本郷さんが考え事をするときはこの仕草をする。まるで推理小説。

 その森下さんが、直接僕にではなく出版社に脅しをかける理由はなぜなんだろうか?

「その、森下さんっていう人はもしかしたら、私たち会社側が三明君を気に入らない姿にしてしまった、なんて考えてるのかもね」

「というと、どういう……?」

「つまり、理想の三明君の人物像をこいつらが汚している、と思い込んだんだよ。だからその原因を潰すために動き出した。何か心当たり、ない?」

「そういえば、森下さんが僕と本郷さんがいるところ何度も見たって、言ってたような……」

「えっ、待って。それなんで私に言ってなかったの?」

「わ、忘れてたわけじゃないです。もう家族の監視がついているから、余計な心配させちゃダメだと思って」

 実際その通りだと思う。彼女は確か、優しくしてくれる両親も、お姉ちゃんがいる。そう言っていた。だからこそ、問題を起こした彼女に対して何かしらのアクションをとっているはず。それなのに、脅迫文を送りつけて犯行予告さえするのか。

「とりあえず、対策を考えないとね。相手が学生となると、まず学校側にコンタクトを取らないといけない。その時ちゃんとしたことを話さないとだから、三明君があのプロジェクトだっていうことをバラさないといけない。これは良いかな?」

「はい、もちろんです。解決するためならなんでもしますから」

「うん、ありがとう。一応もう会社の方では動いているから、とりあえず三明君からあれこれする必要はないけど……もし街中でその、森下さんを見たらすぐ距離を取ってね」

「そうですよね、ありがとうございます。僕のことで、まさか会社まで迷惑かけてしまうなんて……」

「大丈夫だよ、私たちにとって、三明君はただの作家なんかじゃない。逆に、もっと会社のこと利用したって良いんだよ?」

 あはは、そうですかね、と笑う。会社を利用なんて、まるで悪役みたいだ。

「三明君に何があっても、私たちが……いや、私が守ってあげるから」

「あ、ありがとうございます……」

 

 僕の家まで着いたところで、解散することになった。本郷さんを一人で帰してしまうのは気がかりだったけど、もう時間も遅いから高校生の僕にはそれは難しい。

 どうしても今日は疲れてしまったので、寝る支度だけしてPCは付けずに眠った。


 朝、警察から電話が来た。

 どうやら、解散した後に本郷さんが何者かに後ろから殴られたようだ。

 現在は入院しているとのこと。意識はないけれど、命に別状はないらしい。

 監視カメラに僕と一緒に歩いている姿があったから、連絡が来たというわけだ。

 正直、自分の弱さにとんでもなくイラついている。あの時、夜遅くでも本郷さんを送っていれば。犯人はわかっていないとのことだが、おそらく森下さんだろう。

 脅迫文の件も警察に伝えると、出版社からもある程度の話が来ていたようで、トントン拍子に森下さんへ容疑がかけられた。

 しばらくの間、僕には別の編集者がつくことになった。致し方ないとはいえ、なんともいえない複雑な気分だった。

 僕のせいで、本郷さんは傷付き、森下さんは罪を犯してしまう人間になってしまった。

 やはり僕は、不幸を周りにもたらしてしまう。

 

 そんな苦悩を抱えながらも、僕は今日までずっと、そんな不幸の副産物として書いてきた小説で稼いだお金で、のうのうと過ごしている。一言で言えば、最低だ。僕に生きるべき理由はない。誰にだってないけど。もっというのなら、僕には生きていい理由がない。

 他人を蹴落として傷つけて、それでカネを得るのなら、それはクズだ。それぐらいの倫理観を持っておきながら、僕はそれを無意識下でやっていた。そんな自分が恥ずかしくて、憎い。

 きっと水音と陸翔も、同じだ。僕はその二人をなんらかの形で蹴落として、傷つけたに違いない。

 僕はいい加減、覚悟を決めないといけないのだろうか。でも、やっぱりそれができるとは思えない。

 でも、終わりは近い気がした。

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