第三楽章

 遠くから花火の音が聞こえて、目をさます。さっきまで朱莉と見ていた、あの美しいソラ。手を伸ばして、掴もうとするなんてことはしなかったけど。それでも掴めそうなほど大きな光たち。目の前にあった見慣れない窓の外を見やると、それもずいぶん小さく見えて。なぜかその時になって、僕は光に手を伸ばした。やっぱり、届かないや。

 聞き覚えのある声が、耳元でごめんね、ごめんねとずっと囁いている。

 体が重い。体調とかそういうのではなくて、物理的に。何かが僕の体に乗っかっている。夏の夜はやっぱり湿度も気温も高いから、汗がベタベタ。額の汗を拭こうと、花火に伸ばした手を顔に近づける。あれ、服が脱げてる?それに、さっきから下腹部の方に何かぶつけられている感覚がする。窓から、僕にのしかかっている何かに目をむける。

「朱莉?」

 返事はなかった。花火の音が弱まるたび、部屋に響いていた破裂音が酷く耳に残る。

 中学三年生の僕でも、それが何を表してるかすぐわかった。

 わかった側から、僕は、恐怖と酷い眩暈に襲われた。信頼していた相手に、同意もなく。しかも、寝ている無防備な間に。けだもの。けだもの。朱莉の本性を知ってなお、どうすることもできなかった。力がうまく入らない。恐怖がそうさせているのか、何か盛られていたのかは今もわからない。ただ、小さくやめて、やめてと懇願することしかできない。起きた僕に気付いた彼女は、動くことをやめず僕の顔を舐め始める。気持ちわるい、気持ちわるい気持ちわるい気持ちわるい気持ちわるい。早く終わってくれ。朱莉はこんなことしない。信じてたのに。体の関係なんて、持ちたくなかった。ただ側にいるだけで僕は幸せだった。気持ちわるい。不快で悍ましい快楽が終わるまで、終わることはないだろう。

 一緒に食べたお昼ご飯。みんなには内緒の秘密基地。枯れ始めた並木道。中学最後の花火大会。いろんな思い出には、朱莉の笑顔がセットだったけれど。その全部が、穢らわしい今に塗り替えられる。腕で目を隠そうとしたら、無理矢理腕を掴まれて現実を見せつけようとしてくる。胃に入っていたものが、現状に嫌気を指して食道を通ってくる感触があった。気持ちわるい。気持ちわるい。気持ちわるい。愛してる人から求められているのに、どうしてここまで気持ちわるい。誰か助けて。声を出しているつもりでも、全く掠れて部屋の壁にすら届かない。暑い。クーラーすらついていない部屋はあまりに暑くて、水分を失いすぎたのか喉は枯れ、頭がぼーっとしてくる。

 小さな抵抗も虚しく、体力を使い果たしてしまった。腕をだらんとベッドの上に放って、乱れた呼吸をなんとか正そうとしながらただ終わりを待つ。終われ、終われ、終われ。

 気持ちわるい。


「気持ちわるい」

 目を覚ますと、パソコンに突っ伏して眠ってしまっていたようだ。スリープモードだったらしいそれは、僕が起きたのを知ってか知らずか再び起動する。

 気持ちわるい。この夢は、しばらく見ていなかったのに。汗で服がびしょびしょになっている。

 胃のなかのものが出てくる前に、トイレに走り込む。幸い、あまり食べていなかったから負担は少なかった。

 父のいないリビングで水を飲みながら時計を見ると、深夜3時。だいたい寝落ちして1〜2時間も経ってしまったようだ。

 小説執筆支援ツールのプロジェクト名は「手を伸ばす」。僕の長編二作目に当たる作品だ。

 

 いつもは本郷さんからくるような企画やプロットを真似して送ると、すぐに改善案や作品としての強み、売り込み方についての返信が返ってきた。高校生なのにすごい!なんて言われて、ちょっと嬉しかった。

 普段……というか、食事する時は楽天家に見えるが、実際は若くして編集者になったとんでもないエリートだ。確かに実力は本物で、思わず感嘆のため息がこぼれてしまうほどだった。

 その後も幾つか問答と確認を取って、ついに夏休みに入ると同時に執筆へ取り掛かった。


「手を伸ばす」これは朱莉に向けたメッセージだ。この世のどこにも彼女がいないことはわかっているけれど、この物語を覚えてくれる人が多ければ多いほど、朱莉に届いてくれる。そんな気がした。

 でも、朱莉は僕に癒えることのない傷を残して逝った。大切に保管した彼女の遺書を机から取り出して、目を通す。


 三明へ

 覚えてるかな。私、夕下朱莉。この手紙を読んでいる頃、私は首を吊って死んでいると思う。

 思うって言うのは、今私の後ろにはロープの輪っかが天井から垂れ下がっているのだけれど、この天井が私を支えきれるかにかかってる。

 花火大会のこと、覚えてるかな……いや、覚えてるよね。私が三明に、無理やり犯したあの日のこと。今でも後悔している。許されるべきことじゃない。わかってる。それでも、ちゃんと面と向かって謝ることができないのは、とても辛い。三明はそれを望んでいるのかもわからない、私はもう三明の近くにいるべきではない、そう考えると手が震えて、汗が止まらなくなる。

 中学を卒業してから、メッセージアプリで何度か会話したぐらいだったよね。高校で、私何されたと思う?

 私が三明にしたこと。それと同じようなことを、何度も、何度も、何度も何度も何度もされた。神様からの罰なんだ、って思った。こうやって書いてる間も、気持ち悪い。唯一の救いは、避妊はしていたこと。最近のいじめっ子は、すごいよ。ちょっと知恵があるから証拠は残らないようにしてるんだ。こんな地獄は、耐えられない。限界だ。ただ性的暴力を受けているだけじゃない。これは私が犯した罪でもあるから。

 もちろん、すぐ高校は行かなくなった。親も心配してくれたけど、誰かに汚されたこと、三明を汚したことなんて言えるはずがなかった。ただ、私は三明が書いた文字を目でなぞるだけ。「憐憫に咲く」を見た時、すごくびっくりしたんだ。最後までいじめっ子を許さない話。これを読んで気づいたんだ。三明はやっぱり、私を許してなかった。私が応援したのに、私が壊しかけたんじゃないか。

 私、怖かったんだ。三明が小説家を目指すって言った時より前から、三明の作る文章が。国語の授業、英語の授業、新聞を作る授業もあったよね。

 三明の文章を読んでると、まるで私が、力尽きて海底に落ちていく鯨みたいに感じて。おかしな話だよね。でも、本当なの。

 ただ、私と三明が生きている実感が欲しかった。ずっとそばにいるために何ができるかをずっと考えていた。一緒に死んでしまおうかとさえ。

 小説家になるって聞いた時、真っ先にあの行動を決意した。小説は、誰かの人生の編集だから。私のことを、忘れないように。深く刻み込もうと思った。ただ隣で花火を見ているだけじゃ、三明は忘れてしまうかもしれないから。

 三明。三明には文章を書く才能がある。それは多分、無意識に人を操ってしまうほどに。もう死ぬ人間の戯言なんて聞かなくてもいい。三明を傷付けた人間の与太話なんて信じなくていい。それでも、愛してる。三明。短い中学校生活だったけれど、三明のおかげで人生最高の時間を過ごせた。私はもう、いいんだ。書いて、書いて、書きまくって、生きてね。


 夕下朱莉より


「許すわけないだろ……」

 なんだよ、人のことを傷つけておいて、自殺してまた僕を傷つけてるじゃないか。この遺書を読むたびに、次は慣れてしまって涙は出ないのだろうと思っていた。でも、辛いものは辛い。いじめの雨の中、僕に傘を差し出してくれたのは彼女だ。でも、その彼女は傘を無くしてしまって、雨の中死んだ。僕が彼女の傘で雨から守られている間に。

 僕は物語で人を殺したい。でも、これは違う。これには何の物語性もない。胸糞の人生。人が神様と呼んでいるようなもの、運命だとか大きな川の流れのようなものが理不尽に生み出した人生の終止。

 そういえば、彼女も本が好きだった。夏目漱石の「こころ」をよく読んでいたのを覚えている。彼女が読む作品はいつだって恋愛と死の匂いがした。僕が書いてきた作品も、その影響が強かったのかもしれない。彼女の遺書を読むたびに、そんな他愛もないことを回想しては虚しい気分になって、そのうちまた小説を書き始める。彼女の言うとおり。書きまくるために。

 

 でも、そんな遺言を文芸部の活動が邪魔してしまう。そうだ、今日は夏休み初日。展示の受付担当だ。午前中ずっと教室にいないといけないから、執筆しようにも集中できない。憂鬱だ。そも、夏休み期間中に、文芸部なぞに人が来るのだろうか。腹立たしい。いっそ、朱莉が来てくれたら。なんて考えは辞めることにした。もしもの話は、辛いだけだったから。


「あ、今日の担当は三明君、だったね」

 メガネをかけたロングヘアの女子が、僕より先に教室に入っていて、僕の作品を読んでいた。森下真殊もりしたまこと。文芸部の副部長にして、まさに文学少女といった感じの雰囲気の人間。ちなみに、部長は幽霊部員だ。一部だと不登校だっていう噂もある。僕は一度も見たことがなかった。

「はい、今日はよろしくお願いします」

 同級生なのにどうしても敬語で話してしまう。陸翔や水音とは軽く喋られるのに、なぜか緊張してしまって仕方がない。副部長だからか、少し近寄りがたい雰囲気だからか。

「あ、これごめんね。部員のみんなの作品、読んでおきたくて。お客さんが来た時にどれおすすめしようとか、悩んでたんだ」

「大丈夫ですよ、そんなとこまで考えてるなんてさすがですね」

「もしよければ、三明君の作品をオススメの棚に置いといてもいいかな?なんていうか、他の部員のと違って貫禄ある文章っていうか……もちろん他の人のもすごくいい作品なんだけどね?それに、表紙もすごく上手。確か、霧島陸翔さん、だっけ」

「僕のをおすすめなんて嬉しいです。霧島は僕の友達で、たまたま書いてくれることになって」

 森下さんは僕の本をずっと眺めている。ちょっとくすぐったいな、やっぱり。プロジェクトとして書いたわけじゃないから、直に僕の文字が込められている。内容はミステリー。普段そういうものは書いてないから、上手く書けていたか不安だったけれど。

 僕の本をちょっと飾りつけられた机の上に置くと、教室の扉がガラリと音を立ててスライドした。

「おっ、空いるよ!」

「よっす」

「よっす」

 陸翔と水音が制服で入ってきた。それと、もう1人遅れて……入館証を首から下げたスーツ姿の男性。僕のお父さん。

「お、お父さん?」

「へぇ、いい感じじゃん。あれが空のやつ?文芸部おすすめ!やるじゃん」

 さぞここにいるのが当たり前かのように、僕の作品を指さして微笑んでいる。

 一緒に入ってきた2人を呼んで、事情を聞いた。

「いやさ、俺たちはたまたま部活同じ時間だったから帰りに寄ろうって話になったんだけど……」

「偶然話しかけられたんだよね!文芸部の教室はどこですかって。色々話聞いてるうちに空のお父さんだってわかってびっくりした」

 今日は早く帰れる、なんて言ってたけれどいくらなんでも早すぎないか?

「ちょっと、仕事大丈夫なの?」

「何、我が子の様子ぐらい見ないと親として失格だろ?」

 そう言いつつ僕の作品をパラパラとめくる。陸翔が表紙描いたの俺なんすよ、なんて話しかけて、水音は僕に屋上で助けられたことの話、そのお礼やらをしている。そういえば、関係者の親にもそのことは連絡されているんだっけ。お父さんは何も言ってなかったけれど。副部長といえば、もちろん客の対応をするからお父さんの方へ行ってしまった。

 4人とも僕の作品の近くに群がっている一方で、僕は1人受付に取り残されてしまった。

「そういえば空、昔は音楽やりたい!なんて言っててな」

「え!あの文学少年が!?」

 驚いてみんながこっちを見るもんだから、嘘をつく気にもならなかった。

「ちょっと、そういう話しないでよ、恥ずかしいし……」

 ため息まじりにそう返すと、お父さんは全く気にもとめず昔話を続けた。やれ運動音痴だ、やれ昔は可愛いかっただ……受付に座ってる僕にも聞こえる声量で。親馬鹿め。

 音楽か。確かにやりたいって言ったし、実はお父さんのお下がりでギターも練習していた。でも全然ダメだった。簡単なコードひとつできなくて、諦めきれなくて骨董物のPCにフリーのDAWを入れてみたけど、どうしても想像したものはできない。何かを伝えたいのに、音楽ではできないことを悟った。すごく悔しかったけれど、その経験が僕を文学に導いたと考えれば決して無駄じゃないとも思える。

 あまりに話し込んでいるから、ちょっと疎外感を感じる。副部長まで楽しそうに話していて、ムッと思ってしまう。でも、僕の物語人生が他の人に伝わっている、なんて考えるとむしろ微笑ましくなる。こんな暑い中、団子みたいに五人で固まって話している方へ向かって手を伸ばしてみる。最初は五人に目のピントが合っていたけど、ふと周りがぼやけて僕の手を見る。

 手を伸ばす、か。

「空、大丈夫か?」

 僕の過去談義に盛り上がっている集団から、陸翔が受付の方にきた。

「お父さん、面白い人だな」

 そう言いながら僕の隣に座って、僕と同じようにあの団子を見ている。

「その、ごめん」

「何謝ってんだよ」

「……だって、陸翔は」

 そう言いかけて、すぐ僕の言葉を遮るように陸翔は笑い飛ばした。

「気にすんなよ!わかってるから、な?」

「……そう、だよね」

「まあ、その、なんだ。俺も空の過去をたくさん聞かされたし、ちょっとぐらい話してもいいか?」

「もちろん、いいよ。陸翔の無理のない範囲で」

「やっぱりお前優しいんだよな。じゃあ、話すぜ?重めな話な」

 一呼吸おいて、全くもって見たことのない陸翔の真剣な顔付きを初めて見た。そういえば、いつも絆創膏を顔にはっつけてるな。

「空には、どこまで話してたっけ」

「両親を亡くして、従姉妹に面倒見てもらってるってのは聞いた」

「そっか、そこまで言ってたっけな。……まあ、なんていえばいいのか。俺、父方の従姉妹の……コトネさん。その人にお世話になってる」

「コトネさん……字はどう描くの?」

「包丁で切るの切るに、音楽の音って字。」

 そう言いながら空中に名前を書いてみせる。切音さん、珍しい読み方だ。

「まあ、24歳で就職はしてるんだけど、やっぱり生活はあまり裕福じゃないというか。在宅ワークってやつで、家事もしてもらってて」

「すごいね、二人暮らし?」

「そう。俺もバイトで少しは家計の足しになるよう頑張ってるけどね。」

「確か飲食店だっけ?」

「そうそう。ほんと個人のちっさい定食屋。時給は微妙だけど、近くにあって雰囲気いいのもそこだったから」

「それで、琴音さんが?」

「あー、うん。本当のことを言えば、あんまり好きじゃない。もちろん、俺が生活できているのは切音さんのおかげだし、感謝してる。でも、理解できないんだ」

「理解って」

「なんで、俺なんかを助けてくれるんだって。だって、俺は、父の子じゃなかったから」

 その一言で、陸翔の、嘘をつくときの渇いた笑い声を思い出した。

 これ以上僕は口を開けなかった。単純に言えば、ショックを受けて。

「これ……誰にも言わないでほしい。特に、水音には」

「……わかってる。僕たちの仲でしょ」

「ありがとう、いい友達だよ、お前は。それで、続けるぞ」

 さっきよりも声音を落として話し始めた。他の3人はまだ、僕の過去の話に夢中になってるみたいだ。

「俺は、母さんが不倫して出来た子だ」

「……」

「いきなり言われても、困るよな。でも、知っておいて欲しかった。不倫が分かったのは、俺が中学入る時」

「もちろん、親戚も巻き込んで大騒ぎだった。俺は母とその不倫相手か、父に着いていくかを選ばされた。こういう時、普通は悩むと思うだろ?でも、すごく自明だったんだ。俺は父についた。経済的に考えれば確かに母についていく方が良かったのかもしれないけれど、俺は父を裏切った人についてくなんて出来なかった。最初の一年間は、苦労もあったけどなんとか生活していた。でも、いきなり父は自殺した」

 今思えば、なぜ親がいないかは知らなかった、というより聞けなかった。デリケートな問題だと思ってたから。母は不倫相手と別の家庭を築いているのかもしれない、そう考えるとやるせない気持ちになる。

「理由はわからなかったし、遺書もなかった。中学二年になった俺を、父の親戚……内戚っていうんだったっけ。その中で誰が引き取るか問題になった。当然だ、俺は不倫相手の子供だったから。そんときに声を上げてくれたのが切音さんだった」

「不倫で出来た子を抱えるなんて、ありえないだろ。だから俺は切音さんが理解できなくて、怖かった。何か狙いがあるんじゃないか、利用されるんじゃないか。って思った」

「でも、今の今まで切音さんは俺をずっと支えてくれた。高校に上がるときに、絵が好きだって話したら、タブレットと液ペンまで買ってくれて、嬉しかったんだ。でもやっぱり怖くて。他人の、しかも厄介の種の俺なんかにどうして優しくできるのか」

「直接聞こうとはしなかったの?」

「聞けない、聞けないだろ。今まで支えてくれた人に、なんで助けてくれるの、なんて。どんな言葉が飛んでくるのか、俺にはわからない。その理由が、俺を傷つけるものだったらどう生きていけばいい?」

「そういうこと、だったんだね」

「ああ。これが俺の過去と今。しかも、卒業後は絵の専門学校に通ってもいい、とか言って。怖いんだよ、そこまで俺に入れ込む理由なんてない。父が死んでから、初めて知り合った人なのに」

 深くは知らなかった、陸翔の過去。助けられたからこそ、むしろそれが呪縛となって陸翔を苦しめていた。

「絵を描いて、どうしたい?」

 無意識に出た問い。慌てて取り消そうとしたけど、陸翔は笑って答えた。

「そこそこ有名になって、個展を開きたい。まあまあな生活ができりゃ満足かな」

「切音さんは?」

「まあ、自立できるようになってから恩返しは絶対にする。どういう意図だろうと、助けてくれたのは事実だ。でも、返答次第で、自分が何をしでかすかわからない」

「……でもさぁ」

 ふと、彼の顔を見る。楽しげに話している3人を見て、目に涙を浮かべながら。

「やっぱり俺、親に甘えてみたかった。反抗期になって、喧嘩したりして。でも親が病気になったら、心配するんだ。親の作るご飯を食べて、手伝いもして、普通の暮らしがしたかった。もし今死んだのなら、来世では幸せな……幸せじゃなくてもいい。ただ、普通の暮らしが出来たなら、と思って包丁を手に取って、首に当てようとしたこともあった」

「でも、そんなときに偶然AS=A=RAREを知った。最初は、救われた気がした。人工の音声に救われるなんてちょっと変な感じだったけど。でも、だんだんそれが怒りに変わって、失望にも変わって。AS=A=RAREの音楽が、気付けば俺を陥れるために作られたものなんじゃないかって思うようにもなった。結局、それは大衆向けのありふれた音楽なんだって。俺は、ずっと騙されてたんだって。向こうからは俺の姿は見えない。けど、俺からみたら救いの光だったんだ」

「あのとき、水音がAS=A=RAREって知ったとき、どう思ったの?」

「殺そうと思った」

 僕の心臓が、急に心拍数を上げていくのがわかる。ずっと……僕よりも付き合いの長いであろう水音に、すぐにその悍ましい感情が湧くなんて思いもしなかった。

「でも、できるわけなかった。だって……俺は水音が好きだった。恋愛的な意味でも。というより、家族が欲しかった。血のつながっていて、俺が生きるために背中を見続けることになるような家族が。正直、俺は空が水音と付き合わなくて良かったとか思ってたんだ。親としての家族はもういない。でも、わからない、俺はどうすればいい?」

「俺は、水音を、AS=A=RAREを許すべきなのか?許せるのか?」

「陸翔……」

 わからなかった。僕も、お母さんはいなかったけれど。それでもお父さんの家族としての愛は十二分に感じていた。健全な息子として、反抗期もあった。多分今もそう。ふとしたことで、親を突っぱねてしまう。それが陸翔には、なかったんだろう。見ず知らずの大人に、親戚というだけで保護してもらっているのだから、反抗なんてできるわけがない。一般的に、精神の生育として大切な期間を黒く塗りつぶされてしまった。周りの大人の都合で、他人への憎悪を止められなくなって、誰かに助けを求めることもできない。

「俺、憎いんだよ。周りの人間だけじゃない。俺自身も憎い。助けてもらった人も、仲の良い友達も、憎いと感じる自分が憎い」

「普段、あんなに笑う俺が憎い」

 その声はすでに落ち着いていて、平坦だった。がらんどうの声。感情を一切感じない物質的な声。

 少し雰囲気の暗い美術部で、唯一明るい絵を描き続けた陸翔の、本当の中身。

「僕には、わからない。当事者じゃないし、多分、僕のことも憎んでいるのは分かる。憎しむのをやめろ、なんて言えるわけもない」 

「でも、手を伸ばしても掴めないものを永遠に追いかけて、その度に傷つくなら望むべきじゃない。それはただの自傷だよ」

 手を伸ばしても届かないものを求めて、求めて。大きな流れに歯向かって行こうとしても、より強く傷つくだけで進めないのなら。

 身を任せて流されることも拒むなら。流れに耐えうる人間となるべきだ。逆らわず、流されない。ただ、強くいられるような。

「そんなの、自分だってわかってる」

 どうすれば、陸翔をこの流れの中耐えうる人間にできるのか。それを僕は、本郷さんから学んだ。本郷さんが僕に教えてくれた。

「陸翔、宿題」

「宿題?」

「切音さんとちゃんと話し合うこと」

「……だから、もしそれで俺が1人になったら」

「そんときは僕が陸翔を雇う。忘れたの?僕、これでも有名小説家なんだよ?」

「なんで、そんなことする必要あるんだよ。切音さんみたいに、俺を助ける理由がわからない」

「友達だから、だけじゃない。気に入ってんだよ、陸翔の表紙。出版社はプロの人雇ってるけど、本当は陸翔の表紙が、僕の物語に欲しいんだ。文芸部で活動してるのも、ほとんど陸翔の表紙のためだったし」

 手を差し伸べる。でも、それは選択肢であって押し付けではダメだ。それに、対等になるように。その手が引っ叩かれたっていい。でも、手を差し伸べる人がいると知れたなら。いつかは、手を繋ぐことができるはずだ。僕が本郷さんの手を引っ叩いてしまった代わりに、水音の手を取れたように。

 僕が救う必要はない。でも、僕が救いの手助けになるように。

「なんだよ、それ。宿題って、馬鹿馬鹿しい」

「そうやって逃げたって、何も変わらない。僕もそうだった。……少し前、好きだった人が自殺した」

 ずっと顔を背けていた陸翔が、僕を見た。何を思っているのか、それは分からなかったけれど。

「僕はその事実から逃げ出して、親切にしてくれた人を拒否しちゃったんだ。でも、別の人……水音が助けてくれた。AS=A=RAREとしてじゃない。水音が、水音として」

「僕を助けてくれたとき、水音はこう言っていた。自分は、誰かを助けるために音楽をしたいって。でも、それが無理難題なんだってことも理解していた。その上で、僕に対してこうも言ったんだよ」


空が物語で100人殺すなら、私は音楽で1000人救ってみせる。


「……って。確かに、まだ水音は苦しんでいる全員を救うことはできないかもしれない、でも。1人でも多く救えるように、努力してることは忘れないでほしい。陸翔だって、今まで水音が努力してきたことは見てるでしょ?AS=A=RAREとしてじゃなくて、水音として努力していること」

「……そう、だな。あのとき、屋上で飛び降りようとしてた水音を、俺は助けられなかった。そのとき、水音がAS=A=RAREだと知っていたとしても、変わらなかったと思う」

「それは多分、水音だから、AS=A=RAREだからじゃない。俺自身が、俺を許せなかったからだ。誰かを救うことなんて考えられなかったんだ。誰かを憎むことをやめるには、俺自身を憎むことをやめれば良かったんだな」

「俺も、水音や……空みたいな、手を差し伸べることができる人間に出会えて、良かったよ」

 切音さんも、と付け加えて、また陸翔の顔に笑みが戻る。

「俺自身の生まれなんて、切音さんにはどうでも良かったんだろうな。ただ、1人の俺を助けるために手を差し伸べてくれた、そう考えた方が気楽だ。事実はどうあれ」

「たとえその手を掴めなくても。きっと差し伸べられた手はそれだけじゃなかったんだろうな」

「ありがとう、ちょっとはスッキリした気がする」

 僕は陸翔に手を伸ばす。

 しっかりと、その手は握り返された。

 

 ちょうどそのとき、お父さんが僕らを呼びかけた。

「どうしたのお父さん」

「ほら、これ!中学の卒業式の時の写真。あれ、隣の子誰だったかな……」

 中学校卒業式の立て看板の横に、2人の少年少女が立っている。

 もう1人は僕で、もう1人は朱莉だった。

 お父さんには朱莉のことはあまり話していなかったから、多分仲のいい同級生程度の意識だったと思う。

「え、この小さい男の子が三明君……あ、えっと、お子さんなんですか?すごい身長伸びましたね!」

 副部長まで、すっかりお父さんのペースに飲み込まれている。清水も陸翔も、過去の僕を見て大はしゃぎしている。

「この子?中学校で友達だった子だよ。たまたま近くにいたから写真撮ろうって話になったんじゃなかったっけ」

 ここで、朱莉のことを言うつもりはない。少なくとも、お父さんには知られたくなかった。これ以上負担を増やしてしまうかもしれない。

「そうだったけな。にしても、ほんと身長伸びたなぁ」

 昔なんて、女子にさえ身長が負けることが多かった。背の順はいつも前だったから、今こうして立派になったのもなんか実感が湧かない。

 朱莉は僕よりも身長は高めだった。恥ずかしいというか、悔しささえ感じてしまう。

「立派になったなぁ、空」

「うるさい」

 すごく、嬉しかった。



 夏休み。ひたすらパソコンと向き合って新作「手を伸ばす」を書き続ける。ここで僕からのアドバイスだ。小説を書きたいなら、小説を書け。

 ネット小説サイトで「幸せな共同体」というSFを書いた。「醜悪の砂」というホラーを書いた。「ダイヤルアップ・メモリー」という歴史小説を書いた。その全部が、あまり良い評価じゃなかった。それでも、「憐憫に咲く」を書く力を身につけることができた。

 売れる売れないなんてどうでもいいけれど、多くの人に見てもらうには、まずいい小説を作れるようにならないといけない。みんなは僕をすごいすごいと持て囃すけど、決して書く才能があるわけじゃない。ただ、書き続ける才能があるだけ。毎日飽きもせず物語を作っていくことは、一般的には難しいとされている。

 だからこそ、やらないといけない。諦めるのと死ぬことは似ている。どちらも、広がる可能性をいきなりぶった斬ってしまう。諦めるか、死んだ時点でそこで終わってしまうのだから。

 だから僕は生き作り続ける。生きるために作って、作るために生きる。それが僕の本質だ。

 時々、水音や陸翔に遊びに誘われる。もちろんその誘いにはできる限り答えたし、楽しかったけれど。ふとした時に物語について考えてしまうことが増えた気がする。酷い時は信号を渡る時に立ち止まってしまって、水音に助けられたこともあった。

 夏休みの宿題は簡単なものだけ全部終わらせて、あとは執筆と同時並行で少しずつ進めることにした。幸いなことに数は少ないから負担にはならないだろう。

 それでも、現実は近づいてくる。いつかこの高校生活にも終わりは来て、僕らはバラバラになってしまうかもしれない。まあ、そうなっても僕は物語を書き続けるとは思うけれど。水音はどうだろう。『AS=A=RARE』としての活動を続けるのかな。陸翔も……切音さんと話し合って、未来を決めるんだろうな。2人とも、悩んでいるはずだ。それなのに僕は、ただ人を殺すための物語を書き続けている。僕の作品が100人に絶望を与えても、その100人を含めた1000人をAS=A=RAREとして、水音が救うのかも。そんな僕の作品には、陸翔の表紙が偶に使われたりして。改めて、この3人が揃ったことが、陳腐な表現ではあるけれど……どれだけ運命的であるかを思い知る。

 次の作品には、きっとこういう物語を注ぎ込むんだろうな。「手を伸ばす」は、僕が朱莉へ手向ける最後の小説、と位置付けた。

 せめて、ちゃんとした弔いをしようと考えた時に何が適しているか、とても悩んだのけれど。結局はこの形に落ち着いた。

 手を伸ばしても届かないものはある。それを謳う物語にしたい。


 メッセージアプリに通知が来た。また陸翔か水音の誘いだろうか。通知をクリックしてアプリを開くと、意外な人物からだった。

 森下真殊。副部長から?珍しい。普段は個別の連絡とか一切せずに文芸部のグループで話しているイメージしかなかったから。ちょっとわくわくしながらメッセージを開ける。

「お久しぶりです、三明君。夏休み初日以来ですね。ちょっとだけ話したいことがあるので、明日の10時に高校の図書室で会えませんか?すぐ終わります。いきなりのお願いなので、無理にとは言いません」

 同級生とは思えない、敬語でのメッセージ。明日は何もないから行けるけれど、一体なんの話をするんだろう。説教とかでは多分ないはず。何かをやらかした記憶はないし。まあ、あまり話したことない人と話せるなら行くべきだろうか。

「お久しぶりです。はい、大丈夫ですよ。明日の10時ですね」

 送信するとすぐに既読がついて、可愛らしい初期スタンプが送られてきた。


「……暑い」

 夏休み、晴天の日だからそりゃ暑い。服をパタパタさせながら、降りた駅前でたまたま配っていたうちわを仰ぎながら歩く。世界とは残酷なもので、外に出る日に限ってこうも暑い。晴れ男、と言えばポジティブに聞こえるかもしれないが要は紫外線集め人間だ。焼き芋とか向いてるかもしれない。

 駅前から徒歩20分、僕の通う高校はそこにある。僕にとって、徒歩20分は歩いていくには面倒だし、自転車を使うには短い距離だ。

 行きは上り坂だらけで、とんでも無くしんどい。行きは良い良い帰りは怖い、その逆。

 駅前の自販機はほとんど売り切れていて、あんまり美味しくない水しか売ってなかったから諦めて途中で買った。夏らしいデザインの新作サイダー。このまま開けたら泡が吹き出してしまうかもしれない。そういえば、海外ドラマのとあるシーンで、落としてしまった炭酸飲料は回すと泡が漏れ出ないとか。時間には余裕があるから、適当なところにおいてやってみる。

「……あれ、ペットボトルに効果あるんだっけ」

 なかった。結果として蓋を開けた僕の手はサイダーでベトベトになって、吹き出したサイダーを急いで飲んだせいでむせる羽目になった。

肩を落として、ベトベトになったサイダーのペットボトルを片手に持ち通学路を歩く。

 校門を抜けて、比較的涼しい生徒玄関で上履きに履き替える。図書室は一階にあるから、すぐ辿り着いた。涼しい。エアコンがよく効いていて快適な空間。今は大体9時半だったけれど、もう森下さんは着いていたようで、隣の席に手提げバッグを置いて1人で本を読んでいた。司書さんは今はいないみたい。僕に気づかずに、ひたすら本を読んでいる。

 少し近づいてみてみると、その本には「憐憫に咲く」と書かれている。そういえば、文庫化にあたってデザインも変わっていたのか。タイトルを見なければ僕の本だと気づけなかった。その表紙には、興味があまりなかったから。

 近づいても気付かないから、声をかけるしかなかった。

「森下さん?」

 あっ、と僕の方を見る。

「すいません、気付かなくて」

「いえ、大丈夫です」

 社会人がするような、距離の空いた会話。本郷さんとは比較的フレンドリーに接されたけど、どちらかというと取材に同行した時のような空気感。そこもフレンドリーな人が大半だけど、やっぱりビジネスライクな方もいる。

「すいません、お待たせしました」

「いえいえ、私が早く着きすぎただけですし」

「ここで話すと誰か来たときに聞かれちゃうので、奥の方でも大丈夫ですか?」

 聞かれると良くないこと?ピンとこないけれど、とりあえず従うしかないか。

 はい、と返事をすると、荷物を持って森下さんが奥の方へ行く。僕もとりあえず着いて行った。

「ここにしましょう」

 入り口からは本棚で見えない位置の机。もちろん司書だけでなく生徒もおらず、エアコンの駆動音が妙によく聞こえる。近くには腰ぐらいまでの高さしかない棚が置いてあって、上には花瓶やよくわからない小物がいくつか置いてある。窓の外には、校庭で練習している野球部の姿が見えた。

 森下さんの対面に座ると、僕に本を手渡した。憐憫に咲く、と書かれた文庫本。

「これ、知ってますか?」

「プロジェクトの本ですよね、文庫化してたんだ」

「そう。単行本でプロジェクトを知って、ファンになったんです。文庫本も発売当日になんとか手に入れて。これ書いたの、三明君だったりしますか?」

 驚きのあまり、えっ、としか声が出なかった。

「違ったら申し訳ないんです、けど」

 別に隠す必要はない。けれども、なぜ僕をプロジェクトだと思ったのかはすごく気になる。笑いながらかぶりを振って話を聞いてみることにした。

「まさか、違いますよ。なんでそう思ったんですか?」

「三明君が文芸部で出した本とプロジェクトの出した本、どっちも特徴があってね」

「まず、どっちも基本的に一人称。主人公というか、一人称視点のの人間の名前が地の文で出てこない。あと、疑問符を使う時、たまに三点リーダーで表すことがある。それに、必ず主人公と親しい人が1人以上死ぬ。主人公が死ぬ場合もあるけど、その時は親しい人が死ぬことはない。完璧なバッドエンドとか、ハッピーエンドは作らない主義ですよね。あ、あと……」

 こんな調子で、もう4、5個は僕とプロジェクトの共通点を羅列された。

「もちろん、いろんな小説家がいるわけでたまたま同じだった、とか。三明君が無意識下か、意識してかプロジェクトと似た文法を使うようになったのか。もしくは、プロジェクト本人か。それを確認したかったんです」

 まさか、ここまで僕の作品……いや、多分部員全員の作品の癖を把握しているんだろう。周りには小説を読む人は多かったけど、ここまで分析してくる人間は初めて見た。僕も本を書くほどではないけれど読むのは好きだし、だんだん著者の癖がわかってくることもあったけれど。ここまでの分析力を見せつけられたら、白旗を上げるしかない。

「すごい、ですね。全部正解です」

「本当?嬉しいです。ていうことは、やっぱり」

「はい……僕が、プロジェクトです。周りには言わないで欲しいんですが……みんな、内緒にしてくれてるので」

「もちろんですよ、誰かに言うなんて、勿体無い。むしろ私以外にそのことを知ってる人がちょっと妬ましいぐらいです」

 控えめに森下さんが笑うと、手提げバッグからもう一冊の本を取り出した。

「これは……?」

 プロジェクト全集、と書かれた分厚い単行本。そう言えば短編と「憐憫に咲く」をまとめた奴も出てたのか。ちょろっと巻末インタビューを受けた記憶がある。単行本には、大量のカラフルな付箋が付いていた。その一つ一つには何を意味しているかよくわからないマークがついていた。星型、円形、四角、エトセトラ。パラパラとめくると、一ページあたり6、7箇所ぐらいマーカーが引かれている。とある映画の引用。僕の実体験か、それをマイナーチェンジした描写。一部は意識もしなかったような、作中の日常の会話描写。

「これ、なんですか……?プロジェクトの分析って感じですけど、ここまでやるとかすごいですね」

「うーん、ちょっと違いますね。これは、三明君の分析ですよ」

「僕、の?」

 そうか。これ……つい最近出されたやつだ。単行本化と同時並行で企画されてて、全集の方は五日前に店頭に並んだ。「憐憫に咲く」の単行本は夏休み前から出ていたから、こっちの方が新しい。

 さっき、森下さんは文庫版を初日に買ったと言っていた。多分、すぐ読んだはずだ。読んでないとしても単行本は読んでいるはず。そこで僕がプロジェクトであると疑念がでた、これもわかる。だからと言って、ここまで分析する必要があるのか?疑念が出た時点で、僕に聞くだけで良かったのに。そこまで証拠が欲しいとしても、普通あんな付箋まみれにして、マーカーで引きまくるか?

 異常。異常だった。僕とプロジェクトを結びつけることへの執着。

「これ、三明君のために読み込んだんですよ。ほら、この部分。映画「ブレードランナー」を意識してるでしょ?ほら、こことかイェイツの詩の引用だし……三明君の知識量、すごいんですね」

「え、ええまぁ……」

 逃げ出したい。2人きりになりたくない。誰かに助けてほしい。怖かった。蛇に睨まれた蛙のように、動けなかった。顔を平然と保つことさえままならなくて、もしかしたら目には涙が浮かんでいたのかもしれない。森下さんのことが分からなかった。そこまでして、一体何をしたい?プロジェクトと知ったとして、何を求めてる?森下さんは平然と、全集のページをパラパラとめくっていた。ここはこういうシーンのオマージュですね。この表現はここでも使われてましたね、お気に入りなんですね。このストーリー、私も実は同じような構成で作ったことあったんです、運命を感じますね。

 聖書をスラスラと暗唱するかのように、僕の小説について、僕以上に詳しく言葉が出てくる。

「他の部員にも、こんな感じで分析してるんですか?」

 一縷の希望を願った。森下さんが、僕にだけ固執しているのではなくて。むしろ僕と同じような文学に依存した人間であることを。

 でも、そんな希望はやっぱり無駄なものだった。

「……?するわけないじゃないですか。全部、三明君のためなんですよ?」

「い、いつからですか」

「一年の頃、「憐憫に咲く」が発表されるちょっと前ぐらいに部活として三明君の文章を見た時からです。その時はプロジェクトを知らなかったし、初めから完璧な文章を書いていたわけでもなかった。けれど……「憐憫に咲く」を読んで、そこに三明君を感じたんですよ。確証もなくて、情報もなかったからなんとなくでしたけど、確信に変わって良かった」

「三明君、私のために本を書いてくれませんか?あんな編集者、いらないですよね?」

 あんな、編集者?本郷さんのこと?なんで知ってる?

「実は時々、三明君のこと尾けちゃってたんです。私のための本、どうやったら書いてくれるかなって考えてたんですよ?」

「も、森下さんのための本?」

「私を満たしてくれる本。私の原料となる本。そんな本。三明君なら、書けると思うんです」

「優しくしてくれる両親も、お姉ちゃんもいますけど、そんなのどうでもいいんです。本で満たされたい。文学で満たされたい。三明君で満たされたいんです」

 ふと、森下さんは手を伸ばして僕の手を掴んだ。痛い。水音の時とは違って、本当に骨が折れてしまいそうな。

「痛っ……」

「ちょっと、諦めてました。水音、でしたっけ。あの女に取られちゃうと心配してましたけど、さすが三明君。文学だけが、私達の生きる理由ですもんね?本当は受付担当が同じだったあの日、聞く予定だったんですけど。まさか来客が来るとは思わなくて。まぁ、三明君のお父さんとも知り合えたので良かったですが」

 大きく笑っていた。普段はおとなしいあの副部長が。あまり強い感情を顔に出さなかった森下さんが。

「私のために、本を書いてくれませんか?この先、ずっと。一生。そのために生きてくれませんか?」

「……僕は、誰かのために本を書きたくないです」

 彼女の顔から笑みが消える。ああ、言わなきゃ良かった。

「僕は、僕が書きたいから書くと決めたんです。誰かのために書くことは、最近になってやめました。それが如何に虚しいことだったか、僕を支えてくれた人たちを不意にしてしまうことだったのか、わかったんです」

「何を、言ってるんですか?」

 手が離れた。掴まれたところが酷く変色してしまっている。骨にまでくる痛みがまだ続いていて苦しい。

「私、貴方のために沢山勉強したんですよ?貴方をサポートできるように。さっきの全集だってそうでしょう?私の努力、分かってくれましたよね?」

「そ、そんなの押し付けじゃないですか!部活以外のことでこうやって話すのも初めての相手に、いきなりそんなこと言われたってわかんないです」

「私の、努力が押し付けだって言うんですか?」

 目の色が変わったとしか形容できない。実際に変わるなんてことはありえないけど、本当に彼女の目が一層、黒を増したように見えた。

 これはまずい、と直感が理解した。急いで荷物を手に持って立ち上がる。クーラーとは別の、冷たい感覚が全身を襲う。

「当たり前じゃないですか、な、なんなんですか?僕、帰ります」

 心臓の鼓動が、内側から胸を、その神経を打ちつけて痛い。神様、お願いだから助けてと何度も心の中で祈る。今までは運命だとか、その流れに逆らうまではいかなくても耐え切るべきだと信じてきた。でも、今はむしろ僕を流して、遠いところまで連れて行って欲しかった。

「待ってよ」

 敬語が抜け切った、完全に悪意と失望の混じった声。振り返れない。振り返ったら何が待っているのか、その現実を見たくない。

「ごめんなさい、もういかないと。その、また後で話し合いませんか?」

「そんなの通るわけないでしょ」

 後ろから、いきなり強い力でおさ。いや、押されたのかは分からない。何か強く叩きつけられた感覚。体格的にも貧弱な僕はすぐ倒れてしまった。幸い、自分から見て正面に倒れる形になったから僕の腕と荷物がクッションになってダメージは少ないように感じた。それでも痛みはあったけれど。

「何、するんですか!離してくださいっ!」

 マウントポジションを取られた。まずい。今の彼女が何をしでかすか、分かったものじゃない。でも、今だけの口約束をしたところでそれは、後になって逆効果になってしまうとしか思えない。

 なんとかもがいて、うつ伏せの状態から体を回転させる。少しでも抵抗できるように。

「三明君。貴方と私は同じなんだよ。文学に人生を捧げて、周りの人もぐちゃぐちゃにして。そんな私たちが生きることなんて、許されちゃいないんですよ」

「生きることが、許されないって」

「そうですよ、私たちは誰かの物語に寄生して、消費して、それを自らの物語として作り出すんです。確かに、それが万人を喜ばせるでしょう。でも、寄生された人はそうじゃないでしょう」

 やっぱりそうだ。彼女と僕は根本的に違う。誰かの物語に寄生するなんて、その考えが間違っている。確かに小説を書くのに物語は必要だけれども、決してそれは誰かの物語の寄生なんかじゃない。模写だ。同じように書くけれど、そこには僕の手癖が乗って一種の個性とさえ形容できる。それが万人を喜ばせるかなんて知ったこっちゃない。むしろ僕は、その物語を愛したい。

「同じに、しないでください……僕は貴方なんかじゃ、ない」

 首の両側に、強い力が加わった。ここ最近、暴力を振るわれることが多い気がする。

 なんとか抜け出そうともがくと、案外彼女の掴む力は弱かった。僕の手を掴んだ時より、明らかに手加減されている。それでも喉からは声とは言えない、うう、ああと間抜けな音しか発することができない。

「動くな!これ以上もがいたら、本当に締め殺すよ!?」

 少しずつ、彼女の手に力が込められていく。このまま抵抗すれば、あるいは……

 ふと、窓の外に目線が釘付けになる。いつの間にか夜になっていたみたいだ。遠いところで、花火が打ち上がる。おかしい。どうなってる?

 花火の上がる窓に向けて、手を伸ばす。首の血管が押さえ込まれる感覚だけが妙にリアルに感じられた。

 あの時と同じ。でも、朱莉はこの部屋にいない。それでも、僕の腰にのしかかってくる重さは、ほとんどあの時と同じようで。胃袋が逆さまになるような感覚。思わず、何か掴んでいたはずの窓に伸ばしていない手の方で口を覆う。何か聞こえる気がするけど、意味が理解できない。知ってる言語な気がするけど、ただの音としてしか認識できない。

 苦しい。喉が圧迫されて、取り入れるべき空気がそこで足止めされる感覚。花火の音、言語のような音。

 僕の視界は、少しずつ黒く染まっていった。


 初めて見る天井。ああ、小説を書くのに夢中で寝落ちした後に起きたような感覚。記憶を必死に辿る。

 花火、部屋、朱莉?違う。確か、森下さんに首を絞められて……

「大丈夫ですか?」

 見たことある顔が僕を覗き込んだ。保健室の先生。と言うことは、ここは

「保健室ですよ、首の痛み、どうですか?」

「すごく痛い、です。血管がまだ絞められてるような」

「うん……酷い後遺症はないから、大丈夫。それで、何があったか話してもらっても、いいかな。今すぐじゃなくてもいい。でも、どうしてそうなったか知らないといけないからね」

 周りを見てみると、何人か大人の人がいる。教頭に、司書さんに、校長。知らない人が一人。森下さんはここにいなかった。

「ごめんなさい、まだ喉が痛くて、うまく話せないかもしれないですが……」

 そう言うと、養護教諭さんが水を持ってきてくれた。一口それを飲んで、覚えてる限りの記憶を話した。森下さんに呼ばれたこと、僕に迫ってきたこと、腕を強く掴まれたこと、首を絞められたこと。ゆっくりでいいからね、と養護教諭さんが慰めながらも、側では他の人間が僕の話をメモしている。インタビューみたい、なんて茶化すほどの空気じゃないこともわかっている。一通り話終わると、ゆっくり休むように言われて全員退室する。いきなりの静寂に、むしろ落ち着けない。ノーパソがあれば作業はできるけど、ここにはそんな贅沢なものはないし、筆記用具すらもない。もどかしい。

 この話が何かに使えないか?そう思って、ふと森下さんの言葉が蘇ってくる。

 「三明君。貴方と私は同じなんだよ。文学に人生を捧げて、周りの人もぐちゃぐちゃにして。そんな私たちが生きることなんて、許されちゃいないんですよ」

 違う、同じなんかじゃない。そう否定したいのだけれども。

 誰かの物語に寄生して、消費して、それを自らの物語として作り出す。そうかもしれない。どんな小説にだって物語は必要だ。その物語は、決して一人だけでは作り出せない。別の人間の物語から、新しく。それを寄生と言うのは間違っている。それでも、似たようなものであることは事実だ。

 経験したことしか小説家は書けない、なんてことはないのだけれど。それでも書きたいことに近い経験をしている、と言うのは善い本を書くのに必要な条件であり、永遠の命題だ。

 文学は、物語によって形成される。面白い文学は、喜劇と悲劇が必ずバランスよく埋め込まれている。それでも、最近の世1つ見てみれば、求められているのは悲劇のように見える。自傷のために手首を切る人間。薬の大量摂取で快楽や死を求める人間。そういった人間が増えている世界で、需要が高まるのも頷ける。

 僕ら小説家は悲劇を必要としている。それも、なるべく上質で絶望的な。それを他人、あるいは自分に求めて彷徨う姿は確かに、周りから見れば不幸を撒き散らす、いるべきではない存在なのかもしれない。特に……お父さん、朱莉、水音、陸翔、本郷さん……他人に依存してきた僕は。

「辛いな」

 でも、それ以上に。僕は何か行動するべきだと言うことも頭で理解しつつあるのが感ぜられた。


「できた」

 僕の目の前には、完成した原稿データが鎮座している。「手を伸ばす」と銘打たれた”プロジェクト”。

 まさに世界遺産みたいだ。歴史が積み重ねられ、ところどころで残念な崩落があったり、でも全体で見ればとんでもない美術的価値を持っている。

 まさに墓標みたいだ。人間の物語が最も端的に表された記号。それは石であったり、木の棒だったり、短い文章だったりする。

 まさに僕と朱莉みたいだ。手を伸ばしても、もう届かない。


 僕の目の前には、朱莉を示す一つの記号が鎮座している。「夕下朱莉」と刻まれた石の墓標。

 夏休みも終わりが近づいて、午前の涼しげな風が僕の伸びた髪を攫う。お父さんは、お母さんに似てきた、なんて言ってたけど。確かにそうかもしれない。元々美容室に行くことが苦手だった。予約するのも面倒だし、実際に切ってもらう時も雑誌があるとはいえ気まずい感じがして嫌だった。でもボサボサのままだとお父さんとか本郷さんとかに身だしなみはちゃんとしなさい、と怒られてしまうから最低限手入れはしていた。おかげで清潔感は保たれている、と思う。

 ちょっと重いノーパソを大事に抱えて、僕は朱莉の墓の前でしゃがみ込んでいた。

「朱莉。二作目、できたよ」

 文字に起こすまでもなく、返事はない。彼女は小さな箱に収まるほどに燃やされて小さくなってしまった。それでも死者に呼びかけてしまうのは、やはりまだ心のどこかで朱莉を求めてるからだろうか。

「あの時、僕にしたこと……許すことは絶対にないけれど」

「それでも、やっぱり朱莉が好きだよ。だから……この小説は、朱莉に見せたかったんだ」

 霊園の片隅で、僕は「手を伸ばす」のプロットを彼女に話し始めた。ただの石に、その台座の中に安置された彼女の遺骨に。

「最初はこんなプロットじゃなかったんだよ。でも、朱莉が死んだと受け入れた時に一旦変えて、次に本郷さんが整えてくれた。あっ、本郷さんはね……」

 まるで本当に彼女と話しているかのように、他愛ない話を続ける。側から見たら少し危ない人間のように見えるかもしれない。でも、この答えの返ってこない一方的な会話は、むしろ僕が今までのことを整理するために追想しているようで。

 

 今までに生まれてきたいのちへ

 これから生まれてくるいのちへ

 今生きているいのちへ

 たった1人の女性へ

 困難であった時、私を助けてくれた全てに感謝を捧げます。


 「僕はこの後書を、必ず小説につけるよ。朱莉も、「憐憫に咲く」を読んだから、この文は知ってるよね。もちろん、最後の1人の女性ってのは朱莉のこと。本当に、感謝してる。でも、最近は他の人にも助けられちゃった。軽音部の人でね……」

 水音のこと、実際に話したらどんな反応をするのだろうか。他の女の子にうつつを抜かしたことを怒るか、むしろ断ったことを喜んでくれるかな。それとも、死んだ人間に引きずられていることを笑うかも。

 少し話し込んでしまったようで、スマホで確認すると電車の時間にギリギリ間に合うか怪しい時間になっていた。

「ごめん、今日はもう行かないといけないんだ。友達と東京行くことになってさ」

 お墓に和菓子をいくつか供えて手をあわせる。彼女の魂……魂があるのなら、安寧を願う。

「死後の世界って、あるのかな」

 彼女は答えなかった。

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