終楽章
昔からお風呂が嫌いだった。汚くありたいとか、面倒だとか、綺麗がきらいだなんて理由ではない。
シャワーを浴びて目を閉じる時、湯船に浸かって目を閉じる時。ほんの一瞬の瞬きでさえ、僕は嫌いだ。体が濡れている時、目を閉じると昔を思い出してしまう。彼女……
あの日から10年余りが経った。そこそこの音楽出版社に就職して、上司にこき使われる平坦な人生。
求めることは。やめた。人並みの人生を過ごして、人並みの死に方をして、誰にも覚えられず、誰かにとって特別でもない数字としての死を迎える。それで僕は十分だ。
だって、手を伸ばして何かを求めることは、同時に何かを失ってしまうから。それを僕は、知っている。
「美月?」
花火が綺麗だった夏祭りの夜、石垣に腰掛けていた彼女は隣からいなくなった。僕の左手は、夜空に手を伸ばしたまま。
昔から、綺麗なものを見ると手を伸ばしてしまう癖があった。夜空、花火、水槽、田園。それを気持ち悪がった同級生たちは僕を避けて、いじめる人もいたけれど。それでも、手を伸ばさずにはいられない。
美月は、そんな僕を受け入れてくれた数少ない人間だった。だから今日こうして、一緒に花火を見にきていた。
「どこいったの?」
左手を下ろして、周りをキョロキョロと見渡す。やっぱりいない。
「す、すいません!さっきまでここに座っていた女の子、見ましたか!?ポニーテールで、青色の浴衣着てたんですけど!」
「ああ、あっちの方に行ったかねぇ?わしゃ目が悪くてな……多分あっちだったかな」
石垣に座っていた初老ぐらいのお爺さんは、会場の外れにある夏緑樹林の方を指差す。そこは、海辺のある方向だった。
普段、この森は、提灯の灯りがなければ、祭りというより肝試しとして人が集まるような鬱蒼とした暗い森。
そういえば、昔は海辺から花火を打ち上げていた。でも何やら揉め事があったようで、今じゃ内陸側を向いて花火を鑑賞することになってしまった。風情のない。
お爺さんに一礼してから、そっちの方へ走っていく。草木をかき分けて、海辺の方へ行く。きちんと整備された道にはやっぱり人が多くて走りづらい。大きな爆発音と周りの人が一斉に空を見ていることから、まだ花火が上がっていることがわかる。誰も海の方を見ようともしていなかった。
海辺に近づいていくにつれ、人通りもかなり減ってきた。何度か躓きそうになりながら、彼女の名前を呼びながら走り続けた。
美月、美月、美月。気付けば僕は海辺に出ていた。身体中、一心不乱に走り続けていたから痛みと汚れがひどい。
海は波音と花火の打ち上がる音でいっぱいだった。この場所に、美月はいた。
「美月?」
踊っていた。ワルツと、タップダンスを混ぜたような歪な踊り。波はギリギリ彼女の足元に届かず、まるで全てが演出された舞台のよう。彼女の踊る上空には、今まで見たことのないほど大きな満月が浮かんでいた。青白いそれは、やっぱり光も青白くて、美月を照らし続けている。
美月の周囲には流木や捨て置かれたゴミはなく、中途半端な暗闇の中にある砂だけが彼女を支えている。よく見れば、彼女の足元には履いていたであろう赤いスニーカーと靴下が置かれている……と言うより、放っておかれている。右足の部分はひっくり返っていて、靴下も片方が裏表逆になっている。
綺麗だった。月明かりが陰影を作り出していて、レンブラントの「夜警」のような芸術性を思わせる。彼女の両足が砂浜から離れるたび、僕の心も浮き立つように感じられた。気付けば、僕は手を伸ばしていた。彼女に、向こうにある満月に。
僕が手を伸ばすと、それに呼応したかのように踊りが激しくなっていく。一回転、二回転。だんだんと彼女の足は波に濡れていく。波の抵抗を全く感じさせない軽やかな足取りで、海へ海へ入っていった。
気が付けば、彼女はもう姿を消していた。
最後に日記を書いてから2ヶ月ぐらいが経った。自伝を書くためにちょっとした小説みたいにまとめてたっけ。本郷さんが襲われてから、僕は文章を書くのが怖かった。とはいえ、あの日知り合った「モエカ」には歌詞のアドバイスをしたり、路上ライブの動画が送られてきたりした。もちろん陸翔と水音とも会話をしていた。ただ、しばらく文章を書くことは控えたかった。
こうしてペンを握っている手も、少し震えがある。それでも、これから書くことは、記録しなければならないことだ。
「手を伸ばす」の印税が昨日に振り込まれたらしい。まだ何も手をつけてないけど、果たして僕はそれを何に使うんだろう。
珍しく朝早くから本郷さんの番号から電話がかかってきた。もう大丈夫なのだろうか、まずは謝らないと。
ベッドから起き上がって通話ボタンを押すと、僕の言葉を待たずに本郷さんの声が聞こえる。
「もしもし、三明君、ニュース、見た!?」
「な、何も……そんな焦って、どうしたんですか」
そう言いながら僕は眠い目を擦って、リビングに行ってリモコンを手に取りテレビの電源をつける。
お父さんは自分の部屋で朝ごはんを食べていたから、ここには僕一人だ。
CMがちょうど終わったところで、ニュース番組が始まった。
テロップには、「プロジェクト」の文字と、「89名の自殺」の文字。
リモコンを握る手が、一気に脱力してしまう。ニュースキャスターは、僕のことなぞ気にも留めずに淡々と事実を並べていた。
著者プロジェクトの書籍、「手を伸ばす」によって、多数の自殺が発生しました。
今回の事件が発覚したのは2週間前、警察の調査で明らかになりました。
遺書が残されていた中で、プロジェクトや「手を伸ばす」の名前が記されていたケースが多発。警察は事件性を疑っており、捜査が続けられています。
なお、警察及び出版社、著者からのコメントはありません。
「本郷さん、これ、なんですか」
「私もさっき、会社から連絡があって、警察の事情聴取を受けないといけない、私も三明君も。今すぐ会社に来て欲しい」
そこからのことはよく覚えていない。そもそも、死んだ人間は全員自殺したんだから僕が直接的に殺した証拠があるわけでもなかったし……疑いというよりは情報を欲しがっていたようだ。すぐ聴取は終わって、僕は本郷さんとどうするかを話し合った。まだ確定ではなかったけれど、もうプロジェクトとして筆を取ることはもうないだろう。
SNSを見てみれば、僕への……プロジェクトへの憎悪が酷く渦巻いていた。トレンドの4位に、プロジェクトの単語が載っている。アルゴリズムは、僕への憎悪を推進する方向に決めたらしい。
ファンレターを思い出す。僕の小説に救われた、喜んだ。そんな言葉の羅列が嘘だったかのようだった。
とある日を境に、僕は聖人から罪人として扱われ、石を投げられる存在になった。
ある人間は、僕の小説を言語学の視点から研究しようとしている人もいた。僕はそんなものを書いたつもりはない。
僕は小説で人を殺したかった。でも、本当に死んでほしいなんて、ひとかけらも思っていなかった。
人を殺す力が、僕にあることをやっと、直接理解した。森下さんは、正しかった。
僕は生きていてはいけない。人間は、いつか死ぬ。でも、それは他人がもたらすものであっていいはずがない。
「私はもう、いいんだ。書いて、書いて、書きまくって、生きてね」
馬鹿らしい。僕が最初に、文章で人を殺した例。朱莉はそれでも生きろなんて僕に……遺書で伝えたけれど。書けば書くほど僕は、生きていいと思えることは何一つなくて、むしろいなくなるべ理由ばかりが増えている。
そして、僕はプロジェクトとして活動することは……もうできないだろう。
不幸中の幸いとして、僕がプロジェクトだと知っている人は少ない。森下さんに関しては……多分、それどころではないはずだ。安心していいと思う。もし別名で活動するにしても、今の出版社から出すことはできないだろうけど。
でも、僕はもう小説を書くつもりはない。書けるわけがない。
聴取が終わってから僕は、一人で家に帰り、お父さんの話も聞かずにベッドに横たわった。お父さんが何度かドアをノックしてたけど、結局は僕をそっとしておいてくれた。どうやら、出勤を遅らせてまで僕のことを心配してくれていたらしい。また、お父さんの負担になってしまったな。
スマホのバイブレーションが何か喚き立ててうるさかった。ただこのまま消えたかった。
そのまま16時ぐらいまで眠ってしまった僕に、胃は腹が減ったと騒ぎ立てている。たまたま部屋にあったお菓子を適当に口に入れ、水を飲むために冷蔵庫を漁る。
リビングの机の上には、お父さんからの置き手紙があった。何かあれば、すぐ電話してくれ。帰ってきて空の気持ちが大丈夫なら、話したい。そんな内容。
「……そうだ、メッセージ……」
水を取り出しながら、二人から連絡が来ていたことを思い出す。無視してしまっていたな。でも、僕が関わってもいいんだろうか。
とはいえ、このまま消えてしまうのは……朱莉と同じだ。結局、二人の手の届かないところで僕が死んでしまっては、同じような人間を作ってしまうだけだから。
陸翔と水音、それぞれから何度かの不在着信と僕を心配する文章。言うまでもなくニュースの件について。
『空、この話本当か?責めるわけじゃない でも、本当かだけ確認したい 返信してくれ』
『大丈夫?このニュース、プロジェクトってことは、そういうことだよね 一回、話そう 私達は味方だから、ネットは見ないで 二人とも心配してる』
二人のメッセージに、僕は無表情のまま、ただ大丈夫とだけ返した。
昔から、自由の象徴として鳥が使われていることが理解できなかった。
確かに人間にとってそれは、
人間と違って獣は、自らの意思で選択することはできない。スーパーに鳥を放ったとして、その鳥が食料を選んで購入するとは到底思えない。ただ目の前の食べれるものに食いついて、ちょうどいい場所に巣を作って子を残すだけだ。それは遺伝子だとか、脳に刻まれた本能だとかに従って行動しているだけで、ちっとも自由とはいえない。その自由の象徴たる翼だって、元を辿れば、生き残るための進化の過程で手に入れた器官だ。一匹一匹が選んだわけじゃない。種族としての遺伝子がそう決定づけたからだ。
人間だってそうじゃないか、と思うかもしれない。でも、人間は他者のために自らを犠牲にすることができる。ゲーム理論的な話とまで行かなくても、飢えた虎のために自らの体を差し出したとされる人間の話は今までに伝わっている。そして、それは尊いものであるという
それならなぜ、人間は鳥を自由だと思い込んでいるんだろう?おそらくは、僕ら人間に羽は無いから。自らの力で、飛ぶことができないから。
だとしてもどうだろう、鳥は僕らが持ち合わせてる、ちょっとだけ上位の知能を羨むだろうか?そんなはずはない。だって、鳥はすでに生存に適した思考が可能だし、何よりも羨む、という思考がない。羨むということは、自らの不足を欲するということだ。動物にとっての不足とは、人間が定義づけた三大欲求ぐらいしかない。人間と違って何かに不足を感じることが無いから、生存において不必要な争いを起こすこともない。
隣の芝生は青い、なんて言葉は人間専用に作られている。
だから僕は、本当の意味での自由意志で小説を書き、人を殺した。89人と、朱莉を。
最初は、ほんの冗談というか。人を殺す物語なんて、作れるはずがないと思っていた。でも、それを水音に話した途端、僕はその実現可能性が決してゼロではないということを、思い知らされる出来事に遭ってきた。朱莉の母の訪問。陸翔の過去。森下さんの凶行。僕は他者の暗闇について、触れすぎていた。
ふと、目標を口に出すだけで、実際に達成される可能性は上昇する、という研究があったな。なんて思い出す。
人生とは誰かの編集だ。暗部に触れすぎた人間が送ってきた人生からは、きっと死に近い小説が完成するだろう。結果として、プロジェクトの名を遺して89名の自殺が出たのだから。
物語は伝播する。人の口から、視覚情報から、そして、ペンから。
その物語は、決して人を傷つけることだけに働くわけじゃない。それはむしろ、他者を思いやる心だったり、生きていく上で非常に有用なものだってある。それを、僕は人の死を願って悪用した。
僕が誰かを殺そうとするたび、それを上回る数を救ってみせると水音は言っていた。どうだろう。彼女に救えるのだろうか。いや、きっと救える。僕なんかよりもずっと、音楽の才能……いや、多分それだけじゃない。人を救う才能があるのだから。きっと、陸翔も救ってくれるといいな。僕にはその資格はないから。
陸翔も、切音さんとはどうなんだろう。きっと、僕の数少ない”善い”物語が、二人を仲良くさせていることを願っている。けれど、僕が消えてしまったのなら彼は、僕を憎むだろうか。いや、今も憎んでいるんだろう。でも、きっとその憎しみも薄れていって、水音と陸翔が幸せになることを祈っている。
本郷さん、そして本郷さんを襲った森下さん。僕が、生きていてはいけない理由をはっきりと提示してしまった。本郷さんとはあのままメッセージでしかやり取りをしていない。そういえば、「この度は、デビュー作の発刊おめでとうごいます!」の文字を見る習慣もすっかり抜け切ってしまったな。
大事には至らなかったけれど、本郷さんを傷つけてしまったのは事実だし、僕がいなければ森下さんがあの凶行に走ってしまうこともなかった。彼女とて、僕の文章の被害者だ。
そうだな、本当は最後に、自伝じゃなくてもいい。何か本が書きたい。人を殺すなんて、そんなことは一切考えずに。人の希望だとか夢だとか、そんなものを書きたい。誰かを殺すための物語じゃなくて、誰かを生かすための物語。誰かを傷つけるのはこれで最後だ。僕は今度こそ、誰も傷つけずに物語を書きたい。
「そして、それでも」。もし僕が、人を救うために文章を書いていたのなら。そういう小説にしよう。
「私、卒業式終わったら空に告白しようと思う」
「えっ、振られたんじゃないの?それに……あの件で、あいつ来てないだろ……学校にも」
「わかってる。でも、そうしないといけない気がする」
冬休みも終わりが近づいている。空は三年生になってからほとんど姿を見ていない。時々来ていたようだったけど、実際にこの目で見たのは一度だけ。制服姿だったけれど、周りからは明らかに浮いていた。
友達に、しかも男のあいつに使うとは思わなかったけれど、ただ美しい、そう思った。整えられ、肩まで伸びた髪。肌は青白くなっていて、昔のヨーロッパでは結核が美しさの1つだった、という話を思い出してしまう。弱さゆえの美しさ。顔つきも中性的というか、少し化粧もしていたかもしれない。たまに見せていた物憂げな目だけを残してすっかり別人になってしまったような。
話しかけようと思ったけれど、追いつけなかった。歩みは俺よりも遅かったのに、なぜ追いつけなかったのか今もわからない。
冬休み明け最初の体育の授業、俺は足を怪我した。あの日みた空のことがずっと気がかりで、ついぼーっとした時に足を滑らせてしまって。
すぐ怪我は治ったけれど、痛かった。けれどそれは、あいつの痛みに比べれば間違いなく小さすぎるものだろう。いつもと変わらない日々を過ごしていたのに、世間からはいきなり殺人鬼扱いされたんだから。
もうすっかり授業に出る人は減ってしまった。高校も終わりの時が近い。皆がそれぞれ、別の道を歩いていく。俺は切音さんの好意に甘えて、絵の専門学校へ行くことになった。幸い、ここからでも通える距離だから地元を離れることはしばらくないと思う。
水音はどうなんだろう。そういう進路の話なんて、水音とは全くしていなかった。
水音とは、お昼には会ったりメッセージのやり取りはしてるけど遊びに行くとか、そういうのは全くなかった。空が学校に来ていた高校二年の頃を思えば、世界は時間と共に色彩を失っていっているように見える。だから思い切って、聞いてみることにした。
「水音って、卒業したらどうすんの?」
味気ないバランス栄養食を頬張りながら俺は聞いた。味はメープル味で、これが一番美味しい、と思う。
「シンガーソングライターってやつ。音楽で誰かを救い続けたい」
「進学とかは、考えてないの?」
「ああ、そういうこと?それならもう志望校決めてるし、勉強もちゃんとしてるよ。」
確かに、水音……『AS=A=RARE』としての活動は、最近休みがちだったのはそういうことだろうか。でも、正直ちょっと意外だった。どうやら文系の大学、しかも文学部志望だそうだ。水音は水音で、どこかの部分で夢と現実の折り合いをつけているんだろうな。
「陸翔は?やっぱり絵を続けるの?」
「そうだなー、そのつもり。こ……家族が、俺の夢、応援してくれてるから」
「いいね、美術部の中でも画力は上位じゃん?」
画力は、そうなのかもしれない。確かに周りの人に比べたら俺は絵が上手だ。でも、上には上がいるし、決して俺は美術部最優ではない。そして何より、俺の絵は……空がいなくなってから、空白に見えた。どんな明るい色を使っても、必ずどこかに明暗からの影はできる。その影が絵全体を覆い隠して、しまいには影は自らをも飲み込んで、虚無にしてしまう。
多分、これは俺がからっぽだからだ。絵を描く目的、それがわからずにいる。最初は、ただ漠然と個展を開きたい。そう思って絵を描いていた。不思議と、その目標を考えていると筆は操られるように進んだ。彫刻はすでに出来たものを掘り起こす、そう言われるのと似ているかもしれない。描くべきものが鮮明に見えた。
でも、空の絶望を、直接ではないにしろ見てしまった俺は、酷く打ちのめされた。あいつの才能は、間違いなく素晴らしいものだった。俺なんかよりもずっと世界で通用するような。それには確かに嫉妬したし、憎んだ。でも、それと同時にあいつの才能に惚れてしまった。美しい文章とは、人の心を動かす物語とは、こういうものだったのか、そう思わされた。
「……なあ、その、空のことまだ諦めてないの?」
「当たり前、でしょ。学校にだって結局来てないし、メッセージだってたまにしか、しかも一文しか返って来ない。今の空には、誰かが必要なの。それが私……いや、ごめん。私たち、でしょ?」
「……そうかもな」
ああ、憎い。水音に愛されているあいつが憎い。あいつに嫉妬している自分が憎い。光を、また誰かに与えようとしている水音が憎い。
結局、俺の本質は変わらなかった。誰かを憎むことばかり考えてしまう。切音さんとの対話で、確かに関係は良くなった。でも、それとこれとは話が別だ。いきなり戦争が終わって、戦ってきた兵士はすぐに日常に戻れるだろうか?そういうこと。俺にはもっと、何かを許すための時間が必要だった。
「空の家ってどこにあるか知ってる?方向はなんとなくわかるんだけど」
「……そういえば、一度だけ行ったことある気がする」
「ほんと!?どこにあるかとかは、覚えてる?」
「すまん、覚えてない。マンションだったのは覚えてるけど、どこのマンションで何号室だったかとかは……」
覚えていないことは本当だ。でも、覚えていたとして多分俺は教えない。空に、近づかないでほしい。いつか、あいつが言っていたことば。
人生とは誰かの編集だ。その「誰か」の集合体が、今の僕を形作る。
それにはなぜか、説得力があった。小説家としてのことばだからだろうか、それとも、友達としての付き合いからなのか。
人生が誰かの編集であるのなら、空に深入りしてしまう水音に、悪影響が及ぶことは想像に容易い。だから、少なくともその時は距離を置くべきだと思った。それには多分、水音への恋愛感情も含まれている。
「空はさ、本当に89人も殺したのかな。ネットニュースでパッと言われても、現実の話とは思えなかったよね」
「でも、その89人の遺書にはプロジェクトって書かれてたんなら……実際に殺したとか関係なく、その責任感は、間違いなくあると思う」
「それはそうだけど、全部背負い込む必要もない、と思う……」
「俺だって、そう思う、思うけど……なんでこうなったかは、あいつにしかわからない」
去年の夏休みから、いつもポニーテールだった水音が髪を下ろした理由も、俺にはわからない。多分、空関係なんだろうな。
「あ、そろそろ時間だ。じゃ、私もう行くね。また後で会お」
おう、と返事をして、俺は次の授業の準備をする。水音は違うクラス。空は同じクラスだったけど、結局学校に来てないのだから意味がない。
早く、自由登校にならないかな。
そうやって、日常が過ぎていった。時々雪が降ると、2人で、子供みたいにはしゃいだりした。でも、何か足りなかった。
街路樹の葉が完全に落ち切って、その下を2人で歩いた。何か足りなかった。
卒業式が近づいて、楽しく話す同級生達のことばのどこかに、寂しさが混じっているのを感じた。でもやっぱり、そんな寂しささえ超えた不足感があった。
「最近、陸翔くん元気ないけど、大丈夫?」
「平気だよ、切音さん」
暖房の効いた小さい一軒家の屋根の下。そこで俺は切音さんと二人暮らし。
今は切音さんが夕食を作ってくれているから、リビングでぼーっとテレビを見ていた。
「あんなわんぱく小僧みたいな見た目だったのに、ちょっと不健康になってる気がする」
「そう、ですか?」
今だに俺は、敬語が抜けきれない。どうしてもタメと敬語が混ざって、話し方がおかしくなってしまう。中途半端な言葉に、切音さんは何を感じているんだろうか。それは結局のところわからない。人の内面を完璧に知ることはできないから。
「うーん、私が言えたことではないんだけれど……最近、外に出てないでしょ。ご飯も食べる量減ったし……」
「大丈夫ですよ!ほら、もう高校も終わりだから寂しいな、って」
「そっか。私も高校の卒業式は泣いちゃったなー」
切音さんは在宅で、IT関係の仕事をしているらしい。出会ってしばらくして話を聞いてみたけど、9割が頭からすっぽ抜けた。その時の俺に、長ったらしい横文字は早過ぎたようだ。多分、今も3割覚えられるか怪しいけど。だから家にいることが多くて、たまに出勤する程度。家事やらなんやらは手伝うようにしていたけど、やっぱり高校に時間を費やしてしまうから切音さんにお願いすることが多い。
「そろそろ陸翔くんも卒業か、立派に育ったね」
「切音さんが面倒見てくれたおかげですよ、ほんとに感謝してます」
「敬語、まだ抜けてないよね。ちょっと悲しいっちゃ悲しいなー、なんて」
「うーん、タメで話したいんです……だけど、どうしても癖になっちゃって」
「いいのいいの、昔からで私も慣れちゃったし。それに、まさかいきなり、なんで俺の面倒見てくれるんだ、って聞かれた時はびっくりしちゃったな」
「去年の夏、だよね」
頑張ってタメで話してみる。恥ずかしさはあったけれど、切音さんは特に突っ込まずに話を続けた。ああ、これでいいのかな。
「そうそう。まさかそのこと聞かれるとは思ってなくて」
「思ったより、普通の理由でびっくりしたけど」
「そう?私にとっちゃ、すごく大切な理由だよ」
「ただ、寂しそうだったから……はは、俺、そんなふうに見えてたの?」
「うん、すごく」
いきなり真面目な声音になったものだから、ついテレビから目を離して切音さんの方を見てしまった。
赤い丸メガネの奥の瞳。淡褐色のそれは料理に向けられている。ボブカットの黒い髪には、コンロからの炎が反射して少し赤みが増していた。身長は俺より低いけど、なぜか昔から切音さんの姿は俺より大きく見えていた。
「ごめんね、私、ご両親の代わり……なれてるかな」
「い、いきなりどうしたの?」
「今まで私、陸翔くんとうまくやっていけてる気がしなくて。でも……まだ子供の陸翔くんが頼れるのは、私ぐらいしかいなくて。無理させてたんじゃないか、って」
まさかそこまで、悩んでいたなんて思ってもいなかった。去年の夏……空の言葉で一度、切音さんと話し合った時には聞けなかった、秘められていた本当の悩み。普段は決して弱音を吐いたりはしなかったから、どう答えればいいか戸惑ってしまう。
「わかってるよ、本当は、両親と一緒に過ごしたかったんでしょ?もちろん、責めるわけじゃない。私だって、同じ立場ならそう考えるよ。でも、だからこそ……どうすれば陸翔くんが幸せになれるか、考えてたんだ」
「……」
考えれば考えるほどわからなくなっちゃって。そう笑った切音さんは、皿に料理を盛り付けている。
「俺は、切音さんが引き取ってくれてよかったって、思ってます」
どんな言葉をかけようか沈黙しているうちに、結局この言葉が一番いい、俺っぽいと思った。
切音さんは一瞬こっちを見て、ただありがとう、と一言微笑んだ。
盛り付け終わった料理を、テーブルに持っていく。
俺の苦手な魚料理だ。多分、鯛。
「これ、俺苦手なの知ってるよね」
「知ってるとも、何年見てきたと思ってるの」
「はは、俺、これがいい」
日記を書く。私はそういうの書かなかったけれど、もうすぐ終わる高校生活を記録に残しておきたい。
やっぱり、時間は過ぎていく。空がいなくても、残酷なことに。
私は一体、なにをしてるんだろうか。
前に参考書を買いに本屋へ行った時、たまたま見つけてしまったこの本。
「手を伸ばす」
口に出すとなんともありきたりなタイトルだなぁ、と思う。空は何を思ってこのタイトルにしたのか、今では聞くことはかなり難しい。買ったはいいものの、まだ一ページも読んでない。苦しんでいる空のことを考えると、私まで心が引っかかれるような感覚に陥ってしまう。
センター試験、いや、2021年度からは共通テストだった。それはもう終わって、高校も自由登校期間になった。だからひたすら家にこもって曲を作ろうと思ったけど、何も手につかなかった。普段は思いつくメロディ、リズム、ハーモニー。
ギターを弾いてみたけど、音が出るだけ。それ以上でもそれ以下でもなくて。こんな状態で、人が救えるもんか。しっかりしろ、私。
現状、私が空と連絡する手段はメッセージアプリだけ。そのメッセージも空はまともに確認してないみたいで、帰ってくるのは3日に1回あるかないかぐらい。その返事もひどく淡白。
なんでだよ!ムカつく。正直に言えば。
だって、私は約束した。宣言した。空が100人殺すなら、私は音楽で1000人救ってやる、って。そう言った。なのに現実は、空は89人殺してしまって、それに酷く傷ついている。それに私は……誰1人救えていない。救った実感がない。ただ音楽を投稿して、その感想に満足しているだけ。そんなの、本当に誰かを救うことに繋がるの?できてるの?
結果として、私は空と違って何も成し遂げていない。人の死を肯定した空が、実際に被害者を出してしまった。私は人の生を肯定した時、実際に誰かを救っていたのかな。それはわからない。だって、生きている人が生きているのは何の問題もない。でも、生きている人が死んだなら、そこに大きく人は揺れ動く。いつか空が言っていたこと。生きているだけじゃ、平坦な人生だ。そこに死というイベントがあって、初めて物語として注目される。その創作論?人生観?を肯定したいわけじゃない。でも、生きているだけじゃ平坦なのは事実だ。救われた人は、そのことをいつか忘れて死んでいく。一方で、空の影響で亡くなってしまった人々は最後まで、空の物語によって死んでいく。
つまり、空は……私の何倍もの力を持っている。ってことになる。センスとか、才能とか、そういうの。
私の目の前にある本がその証拠。この本には力がある。結局一年とたたずに注目から外れたけれど、プロジェクトとしての出版はこれが最後だった。ローカル誌にも、名前が出ることはなかった。今頃空は何をしてるんだろう。別の名前で活動しているのかな。死んでいる……ってことはないはず。たまにだけど返信は来ているし。
「手を伸ばす」のプロットだとかは、少しだけ空から聞いていた。手を伸ばしても、届かないものもある。手を伸ばし続けていたら、すぐ近くにあるものは掴めない。そういう話。
私はネットを通じて、苦しんでいる人たちを、不特定多数の助けを求めている人たちを救いたかった。でも、私はそばにいた、たった一人の……好きな人の助けになることができていない。それなら、私に誰かを救うなんて、そんなことをする資格はない。一人を救えないのに、大勢を救えるもんか。
空は多分、まだ朱莉さんに囚われている。あの日、海で朱莉さんと出会った時。朱莉さんが、自らの命を断つと話したとき。私が朱莉さんを、説得できていたのなら。
そうか。思い出してみれば、私はすでに一人、助けられずに死なせてしまった人がいたんだ。それも……空が、好きだった人。私が、空を傷つけてしまった。深く深く、傷つけてしまったんだ。
今日は、東茜高校の卒業式当日。
卒業式前、一度教室に集まって先生からあれこれ説明やら、式に出るとき身につける造花だとかを渡された。クラスのみんなは和気あいあいとしているけど、俺はやっぱりそんな気持ちにはなれない。胸の中の空白。水音は違うクラスだったから話せていないけれど、多分俺と同じだろう。
女子達が、お互いを抱き合って泣いている。ああ、俺も空がここにいたら、同じようなことをするのかな。あいつは軽く受け流しそうだな。卒業式が始まる前に、少しだけ時間があったから水音のクラスに行ってみた。水音といえば、同級生と楽しく会話している。そうだよな。俺や空と違って、水音には軽音部の仲間とか、友達が大勢いた。正直、少しムカついた。空のことは、どう思ってるんだろうと。その時俺は、水音がもう空のことを忘れてしまったように見えてしまっていた。
会話を邪魔するわけにもいかないから、自分の教室に戻ろうとした時、水音に呼び止められた。
「ごめん、陸翔。ちょっといい?」
「い、いいけど……」
そう答えるや否や、ついてきて、と足早に廊下を歩き出した。それについていきながら、俺は水音に話しかけた。
「どこに行くつもりだよ、これ……」
「保健室。今日、朝早く出たんだけど、空がそこに入ってくの見た」
いつもの明るく高めな声と違って、低く重苦しい声。
空が、学校にいる。その事実だけで、卒業式のことなんてどうでも良くなった。一年と数ヶ月が経って、一度姿を見ただけの空に、直接話すことができるかもしれない。水音の声だけじゃなくて、足音や遠くから聞こえる学生の声まで低く聞こえるような気がした。
「い、いや、待てよ」
水音の腕を掴んで引き留めた。振り返って俺を見る水音の顔は、酷く翳りが見える。
「わざわざ保健室に行ってたなら……俺たちには、会いたくないってことだろ。それがどういう理由だとしても、俺たちが会う資格なんて……」
自分で言っていて、凄く悔しい。空は俺たちよりも、孤独を選んだ。卒業式の日には学校に来るのも、あいつは小説のタネにしたいだけなんじゃないか。俺たちのことはもう目に入っていないのか。ここまで俺たちを狂わせたあの小説家は……結局俺たちを捨てたのか?俺たちはあいつの物語になる価値すらなかったのか?
「わかってるよ、そんなこと!でも、確かめないと、でしょ。空が何を思って私たちから離れたのか。あの……「手を伸ばす」のこと、ちゃんと聞かないと。私たち、何もわかってないんだよ!?そのままはいお別れ、なんて冗談じゃないでしょ……」
「なんで、そこまで空に執着してるんだよ……あいつだって、俺たちに会いたくない理由があるんだろ。どうして、そっとしておけないんだよ」
わかってる。俺だって、本当は空に居てほしい。今すぐ、保健室に走っていきたい。でも……89人を殺した、その重責は想像できない。いつどこで起爆するかわからない爆弾のよう。俺たちが少しでもあいつを傷つけるようなことを言ってしまったのなら、もう本当に戻ってこなくなる気がした。
「だって、私が空を、こうした理由だから」
そう言って水音は、腕を振り払って走っていってしまった。結局、二人が何を話したかとかは今もわからない。ただ、その言葉を聞いて唖然としてしまったことだけが鮮明に思い出される。水音が、空をああした?
一人残された俺は、教室に戻って、ただ開式の時間を待つしかできなかった。
式の間、二人の姿を探すことはしなかった。ただ淡白に、高校生活の終わりを待っているだけ。水音の名前は呼ばれたけれど、空の名前が呼ばれることはなかった。式が終わり、しばらく学校は卒業生と後輩達で賑やかになっている。
「せ、先輩、大好きです、付き合ってください!」
そんな声もちらほら聞こえてきて、うんざりしてきていた。第二ボタンを交換し合う文化は今だにあるようで、今日は制服が最も傷つけられた日であると言える。俺はといえば、当てもなく校内を歩き回っていた。水音と空の姿はどこにもない。最上階から中庭を見渡すと、水音の姿があった。何事もなかったかのように友達と話していた。でも、そこに空の姿はなかった。そういえば、水音と空が出会ったのはあの屋上だったっけ。そう思って、屋上に繋がる階段を登る。
屋上に続く扉には、壊されたドアノブと金槌のようなものが落ちていた。
扉を開き、空を見た。
よく、満点の青空を海のように例える小説がある。雲だとか飛行機だとかを鯨とか、海洋生物に例えるような文章。
俺はそれがどうにも嫌いだった。空を海に例えるなら、海を空に例えたっていいはずなのに、全くそんな文章がない。ただ俺が寡聞なだけかもしれないけど、にしてもバランスがおかしいと思う。空が海のメタファーなら、海はなにを暗示しているか。一番わかりやすいのは、生命の母とかだろうか。もちろん教科書通りに考えればメタファーというより事実ではあるのだけれど。全ての生命は海から始まった。
それなら、海に例えられる空が同時に、全ての生命の母として例えられることがあってもいいと思う。もちろん、無茶苦茶な考えだってことは理解してるけど、俺はどうにもそこが引っかかって仕方なかった。
そういうわけで俺は今、校舎の屋上。満点の青いソラの下で、空を見ている。
風に揺られている長髪が、この場の異様さを醸し出す。
顔は見えなかったけれど、それが誰かは分かっていた。
「空」
空は振り返り、俺の姿を確認するとフェンスに手をかけた。まだ、フェンスの向こう側には行っていない。
一度だけ空の姿を見た時から、身長が高くなった気がする。
「陸翔……どうしてここが?」
「偶然……こっちにきて話さないか?水音も呼んでくるから」
「行くわけ、ないでしょ」
空はこちらの方を向きながら、フェンスに寄りかかって体を預けている。
「なんで屋上なんかにいるんだよ」
「飛び降りるため。水音の時と同じ」
あまりに軽々しく言うものだから、一瞬冗談なんじゃないか。そう思った。でも、空がそんな冗談を言う奴じゃないことは知っている。
「なんで……」
「最後ぐらい、二人に会おうと思ってたんだ。でも……やっぱり、僕と関わった人間は全員が傷つく。さっき、水音と話した時に、よりそれを思い知った。これ以上受け入れたくない事実だったけれど」
「お前が手に持ってるのが、それなんだろ」
手を伸ばす、と書かれた本。空が書き上げ、空を壊したその本は89人の自殺者を出した、とされる。でも、その事件からはもう一年が過ぎていて、世界はすっかりその本を忘れたか、一部のマニアがまだ片手間に注目しているぐらいだった。
「そうだよ。僕の罪そのもの」
大事なものを守るかのように、空はその本を胸に抱いた。死んだ母の遺灰を、落とさないように大事に持つかのように。
「だから、僕はこれと一緒に逝くことにした」
「行くって、どこにだよ」
一瞬、俺の顔を見て、思いっきり空が吹き出した。
「違う違う、同音異義か。これ……」
「何笑ってんだよ」
全く笑えない。つまり、これから死ぬということを、宣言したのと同義だったから。
笑い終わると抱えていた腕をだらんと落とし、フェンスの向こう側に目線をやる。
「ねえ!生きるって、なんだと思う!」
脱力したと思い込んでいたあいつは、クルクルと回り始めた。遠心力でに引っ張られ、空は同じところに留まれていなかった。
俺に問いかけたその言葉……いや、わからない。あいつは多分世界そのものに聞いていたのかもしれない。世界の全てに問いかけるために、踊っているようにも見えた。その言葉の意味が、よく理解できなかった。
「そんなの、知らねえよ!」
「僕も知らないよ!」
ずっと笑顔だ。片足でジャンプしたり、リズムのわからないステップを踏んだり、メチャクチャに動いている。
「映画とか、本とか、アニメとか。そういう作品って、悲しい時は悲しい音楽で、決まって雨か曇りになるんだ、でも見てみろよ!今日はこんなに快晴で、こんなにも世界は美しいんだ!空が綺麗だ」
「だから、知らねえよ!んなことは!」
「なぁ!朱莉をいじめてたクズ野郎、どうなったと思う!?」
朱莉。話は聞いていた。空が中学の頃から、恋愛感情を抱いていた同年代で、ポニーテールの女性。ここでようやく気づいた。水音は、朱莉という人を空が思い出させないために、髪を下ろしたんだろうな。それでも結局、空はその執着を捨てきれていない。
「……」
「
「つまりだ!いじめっ子たちにも未来があるんだ!ふざけんな!朱莉の未来は!?僕の未来は!?」
「そんなの、まだ……空にはまだあるだろ!?まだ18歳なのに、なんでこんな、こと!」
「違う!僕は89人殺しだ!18歳でも、高校生でも、小説家でも、三明空でもなくなったんだよ!」
空は踊りながらも、手に持った「手を伸ばす」を決して話さなかった。
「僕は朱莉をいじめたクソ共と同じだったんだよ!ただ自らの欲求で、人を殺した!そこに直接も間接も関係なかった!文章で、創作で人を殺したって美談になるわけがないんだよ!」
「そんな……殺したわけじゃない!だって、89人は自殺し……」
「朱莉の事知ってて言ったのか!?朱莉だってそうだよ!首を吊って、お母さんに見つかるまで、僕がお母さんから手紙を渡されるまで、一人で死んでいたんだ!」
知らなかった。あいつが抱えている罪が、どれだけあいつに入り込んで、傷つけていたのか。
「朱莉は、僕の全てだった!それを小説に置き換えて、自分を騙してたんだよ!この本が、「手を伸ばす」を書いて人を殺した時、初めて気づいた!僕は朱莉のことなんて何も見ていなかった!」
「死んだ人間にいつまでも引っ張られてるんじゃねえよ!俺も、水音だって、誰もお前が死ぬのを望んじゃいない!」
「聞き飽きたんだよ!小説家にありきたりな言動をするんじゃない!」
ずっと、あいつは文学を誰かの人生の編集だと言っていた。そんなあいつは、今、小説で死んだ人間たちを、自分が殺したと思い込んでいる。
小説で死んだ人を、空は自分が殺したのと同視していた。一つだけ、疑問が頭に浮かんだ。
「なあ、お前って……」
空は動きを止め、俺の方に向き直した。あいつの顔は、待ち望んでいた何かを迎えるような……見込んでいた生徒の成長を、見ているかのような、穏やかな顔だった。
「誰なんだ?」
そう、お前は誰だ?あいつがずっと言っていたこと、近くで聞いていたことをなんでもっと早く思い出せなかったんだ?あいつから生まれた小説なら、あいつ自身だってその小説を構成する物語となり得るはずだ。図書館から一冊の本を取り出すように、あいつもそう小説を書いていた。「手を伸ばす」と自分を同一視するような言葉の羅列に、どうしても違和感があった。兵士は銃が自分と同じと言うことはない。
空は一瞬たじろいだけど、すぐ微笑んだ。
「なんだ、やっぱり霧島は霧島だな」
「当たり前だろ、なぁ。高校生活、ずっと一緒に話してたじゃんか」
「話してた相手が誰か分からずに?」
「ああ、俺は、お前を理解しようとしていなかった。三明空という人間なんだと思ってた。でも、お前がずっと言っていた通り、違ったんだ。お前、誰なんだ?自分自身を誰だと考えて、あの小説の責任を被ってるんだ」
もう一度繰り返す。お前は、誰だ。ずっと、仲が良かった友達にこんなことをいうなんて、苦しかったけれど。
「それが、僕が求めてた質問だよ」
「……そうかよ、こんなこと、聞きたくない。お前のこと、知ってるつもりだったから」
「僕だって、僕が誰か分からない。自分探しの旅をしてるわけじゃないから。でも、いろんな人と出会って、いろんな本を書いて、いろんな人を殺したから、僕なりの考えがあるんだ」
「僕は「文学」文章の集まりで、それらを編集したものだよ、もちろん、それは全人類共通で言えることだけど」
「……」
いきなりの発言に、なんて言えば分からなかった。あいつは丁寧にお辞儀をして、微笑んで俺を見ている。
「陸翔も、文学だよ。でも、ただの本とは違う。だって、人の人生がたかだか数十万文字で全て書けてたまるか。人が外に吐き出した文章の、大元。それを僕は「文学」と定義した。ことば、物語、魂、意識、運命。そういう言葉に置き換えてもいい」
「い、いきなり魂とか言われたって分からねえよ……なんで、それがお前が、文学だからって死なないといけないんだよ!」
意味がわからなかった。ただ、親友が目の前で自殺する寸前であるという事実は変わらなくて。視界が徐々に涙によって歪んでいくのがなんとなく分かった。
「さっき言っただろ。89人……いや、朱莉だ。朱莉を含めて、僕は90人を殺した。小説で。もちろんその小説を生み出したのも、僕だから。僕が殺した。物語が……物語としての僕が殺した。」
「そんな無茶苦茶、通るかよ!」
「通るか通らないかなんて関係ない!そう考えないと、僕は罪から逃げることになる!」
もう、ほとんど小学生の喧嘩と同じだ。俺は泣いて、顔を赤くして、声を荒げ、主張をぶつけるだけ。
「自殺こそ、罪から逃げるようなもんじゃないのかよ!?」
一瞬、沈黙が走った。あいつは俯いて、肩に入っていた力を抜いた。
「違う、違うんだよ」
「何が」
空の声が、震え始めた。怒りからではないものがわかる。目の前の死に怯えている?
「こ、怖いんだよ……自殺するなんて、とんでもない。だって、死というのは決して後戻りできない一つの点だ。そこに行くことは、確かに他の人から見たら逃げることなのかもしれない。でも、小説で人を殺した、なんて誰が裁けるんだよ。僕自身か、それこそ文学……神様……流れ……運命しかない。」
「でも、後戻りできない場所に逃げ込むなんておかしいだろ、いつかは、追いつかれる。死は避けられない。どこまで逃げ続けるつもりなんだよ」
「死は逃げだなんて、そんなの……朱莉はどうなんだよ。朱莉は、逃げるために死んだんじゃない……僕に、物語を書き続けろって言ってくれたんだよ……そんな、こと言うなよ……」
「空……」
「朱莉に託された願いを、捨てる行為だ。これは逃げじゃない。僕なりの、罪に対するけじめの付け方だ」
「じゃあ、今すぐこっちにこいよ、朱莉が、水音が悲しむだろ……」
「無理だ。朱莉は大切だ、死んだ今でも、やっぱり愛してる。水音も、好意がないわけじゃない。でも……」
「死んだ89人、全員に大切な人がいて、僕と同じように残された人がいるはずなんだ」
「俺も……水音も、その一人になるんだぞ」
「うん、だから、本当に申し訳ないと思ってる。でも、これで全てを終わらせるから。これ以上、誰も苦しめなくて済む」
「……俺たちは、お前が大切なんだよ。お前だって、朱莉を大切にしてたんだろ。お前みたいに、俺らが人を殺すかもしれない、だろ」
理屈をこねて、あいつを止める。この距離じゃ、多分あいつを止めることはできない。だから、あいつが文学なら、俺もその文学で止めないといけない。
「それは、大丈夫だと思う。僕みたいなのがたくさんいれば、この世は死人でもっと溢れかえることになる。だから、大丈夫だよ。ことばが人を殺す世界なんて、僕が最後になるはずだ」
「お前が死んだら、その責任、取れないだろ」
「大丈夫。あっちで、年老いたおじいちゃんおばあちゃんになったみんなに謝るよ」
「そんなの、やっぱり逃げじゃねえか……」
俺の呟きは、あいつに聞こえていたか分からない。
ただ、あいつはフェンスの向こうに行ってしまう。
右手にはあの「手を伸ばす」が抱えて。栞にしては横幅の大きい紙切れが挟まれている。「独白」という文字だけが見えた。
「空!」
ほとんど、悲鳴と同じような叫びしかあいつには届かなかった。俺が伸ばした手は虚を掴む。
地平線を見ながら、両手を真横にあげる。ああ、あの日と同じだな、と思ってしまった。
こちらに向き直って、あいつの方から風が吹いてきた。泣いていた。逆光が刺して、あいつの顔に影をつくった。
「僕を殺すのは僕じゃなかった。これは、自殺なんかじゃないよ」
決して大きくない声なのに、鮮明に聞こえた。あいつの後ろから聞こえる、卒業生たちの声にかき消されることなく。
そのまま、数秒とせずあいつの姿は見えなくなった。フェンスの向こうを、覗くことはできなかった。
ポケットのスマホが振動している。あいつが落ちた方を見ながら、手に取った。
「もしもし、りく、陸翔!」
彼女の声がした。清水。あいつとは違って、死ぬことを選ばなかった清水。
「中庭にいるんだけど、空が!空が……」
電話越しでも、酷く動揺して涙しているのは明らかだった。空が飛び降りた方から、幾つもの悲鳴が合わさって聞こえてくる。
水音の悲痛な叫び。その声に俺は無力だった。
足から力が抜け落ちて、ただ青い空を眺めていた。
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