第六話:鐘声の審判

執事は、あの赤子が気に入らなかった。
理解できないわけではない。ただの嫌悪けんおでもなかった。


彼はこの収容場で長くつかえている。育児の失敗例など、幾度となく目にしてきた。泣き叫び、噛みつき、殺した幼い吸血鬼たち。いた血奴サーバントの手には無数の傷跡きずあときざまれ、ときにてのひらにくや指ごと噛み千切ちぎりられたこともあった。きばすら生えていない幼体ようたいが、だ。

彼は、この施設が聖堂として廃され、実験の場となる以前から、ここにいた。
三人の長老ちょうろうつかえ、数え切れぬ失敗作を処理してきた。誰の目にも触れぬ記録を、幾度いくども書き記した。
一度として、手をあやまったことはない。


彼は吸血鬼ではない。「記録者きろくしゃ」だ。
血さだめにしばられぬ
高貴こうきにはなれずとも、自由があり、記録の目と手を持つ。


この収容場で、最も古く生き残った人間。最も静かな機械――だった。
あの「それ」が現れるまでは。


赤子のかわかぶった、も知れぬ化け物は、泣いた。
その夜、執事は眠れなかった。


細く、途切とぎれもせず続く泣き声は、耳障みみざわりな雑音のように廊下ろうかい、北側きたがわ個室こしつから漏れていた。
扉を開けると、アスイェが揺籠の前に立っていた。
その指先は、化け物の口元くちもとえられている。


小さな口が、かすかにその指をくわえた。
同時に、泣き声は、途絶とぜつえた。

その後、アスイェはここに留まった。
もとより、純血の吸血鬼がこの収容場に長く留まることなど、ありえなかった。
収容場はけがれた場所で、育児はけがれた仕事だ。
育児は彼にとって、実験であり、ばつでもあった。


それでも、アスイェはここに残した。
まるで、何かを待つかのように。

この高貴こうきな吸血鬼が、ここに残った理由を、彼は何も語らなかった。

誰も、問うことはできなかった。


「それ」を残されたのだ。
アスイェの指を咥えた、あの「それ」は、生きる資格を与えられた。


執事は「それ」に触れたくなかった。
「それ」は異様いように静かで、生き物かどうかも曖昧あいまいだった。

泣かず、動かず、食う本能すら封じられた、小さな化け物。

近づくたびに、執事は違和感いわかんを覚えた。
誰かに――いや、「それ」に、見られているような気配がした。
だが、「それ」は目を開けていないのだ。

ある夜、執事は、とうとう我慢ができなくなった。

「それ」は揺籠ゆりかごの中、皮膚ひふは透けるように白く、呼吸はあるのかさえ曖昧あいまいで、今にも息絶えても不思議ではなかった。

執事は、揺籠の前に立った。

どうせそのうちに死ぬなら――早めに死なせてやるのも、慈悲じひだろう。
この収容場のためにも、余計よけい手間てまはぶかねば。

彼は、そう思った。

だから、手を伸ばした。

その時だった。
聖堂の、古びた天井から床へと、冷たい風が強く吹き抜けた。
風の音は、まるで罪人ざいにん絶叫ぜっきょうのように、長く、重く響いた。

執事は、すぐに悟った。
これは、ただの風ではない。
これは――古く、そしてきわめて危険きけんな「何か」が、自分を狙っている。

赤子は、微動びどうだにしなかった。
だが「それ」は、確かに感じている――執事は、そう信じた。


***


記録は、後から執事が書き足したものだった。
その数日、アスイェはここに姿を見せず、執事は「それ」の資料に目を通した。

体温、食べたもの、成長の速度、異常行動いじょうこうどう――もろもろの観察記録かんさつきろく。
最後の一頁いちぺージに、見知みしらぬ筆跡ひっせきで書き残された言葉があった。

この者は、狂っている。
古き神の影が残るこの場所で、化け物を育てるなど――死ぬのは自分だ。

執事には覚えのない筆跡だったが、その内容は、彼自身が心の底で思ったことと何ら違いはなかった。
だから、そのぺージも、破かず、そのまま残した。


その夜、執事が「それ」を処理しようと本気で思ったことを、誰も知らない。
たとえ知ったとしても、アスイェは気に留めないだろう――執事はそう思った。


冷静で、冷徹れいてつで、偏執的へんしつてきで、気まぐれな吸血鬼。
幼い一体に、執着などするはずがない、と。


――その夜までは。

執事が扉を開け、部屋に入ろうとした時だった。
赤子は、アスイェの腕の中にいた。目を開け、じっと自分を見つめていた。
その動きは、執事には妙だった。
「それ」は、か細い腕にできる限りの力を込め、アスイェの肩にしがみついていた。


その目――うすい青――には、確かな敵意てきいにじんでいた。
執事は、その瞬間、ひそかに笑いを噛み殺した。
怖がっているのだ、と。
所詮しょせん幼体ようたい、大人の前で震えるのは当然だ、と。


だが――アスイェは違った。


「それ」のささやかな敵意に、応えるように、腕を緩めず、確かにその身を支えた。
まるで慰めるように、優しく、だが決して拒まぬ形で。


執事は、理由もなく、一歩、後ずさった。

「なぜ、連れ出そうとした」



「……あなた様は、気にされないと、思い……」

執事は必死に弁解したつもりだったが、それが通じる場ではないと、理解していた。
これは最初から、審問しんもんであり、ゆるしを余地よちのない場だった。

「俺は――他のいのち知らずが、自分のものに触れるのを、何より、好まない」

その声が落ちた瞬間、理解しがたい熱が、足元から這い上がるのを感じた。

あかりが、アスイェの声に呼応こおうするように消えた。
喉を焼くのは、恐怖か、血か、区別くべつはつかなかった。
口から吐き出せたのは、自らの血だけだった。

執事は、ひざをついた。

アスイェは、石像せきぞうのように静かにくし、その腕の中――小さな化け物は、穏やかに目を閉じていた。

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