第五話:視線

赤子は、目を開けたまま動かなかった。
まるで、何かを確かめているように――ひとつの答えを、静かに待っているようだった。


アスイェは、いつものようにだまって赤子の前に立ち、しばらくその目を見つめた。そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、子を抱き上げた。


その身は、最初まるで反応はんのうしめさなかった。まるで、自分が揺籃ゆりかごから離れたことさえ、まだ気づいていないかのように。


子の目は、ずっとアスイェの顔にとらわれたまま動かず、やがて、その小さな手を伸ばし、アスイェを抱きしめた。その手は、まだ小さすぎて、アスイェの首にさえ届かなかった。
「抱きしめる」というよりも――ただ、必死に、無我夢中むがむちゅうでアスイェの襟をつかみ、その胸にしがみついただけだった。


赤子は、泣きもしなかったし、音すら立てなかった。
ただ、アスイェの肩に必死でしがみついていた。自分が落とされないように、アスイェを失わないように。
アスイェはその小さな腕を抱き返すことなく、赤子に襟を掴まれたまま、黙って立っていた。
二人は、ぴたりと動きを止めていた。

扉が開いたのは、その時だった――
執事が記録用きろくようのボードを手に入ってきたが、アスイェの姿を見て、ふと足を止めた。足だけでなく、すべての動きが止まった。


けれど、赤子は動いた。
アスイェもついに腕を動かし、片手でその身をしっかりと支えた。赤子はアスイェの腕の中で、ゆっくりと首を動かし、その視線を執事へと向けた。
その視線の先には、執事と、その後ろから微かにれるあかりがあった。


吸血鬼は灯りをきらう。だが、赤子が見ていたのは、灯りではなかった。
音と、人だった。


この子は、まだ「その人」が誰かを理解していない。
それでも、その小さな体は、アスイェの方へと、さらに近づいた。
さきほどよりもっと深く、まるでマントの中にでも隠れ込むように、耳をアスイェの胸にぎゅっと押し当てた。


それは、本能だった。
恐れに対する、赤子の本能的な選択せんたく

この子は、まだ逃げない。
ならば、最も近く、最も安全な場所へ――それは、アスイェの腕の中だった。

「このものは、お前を見た」アスイェは、静かに告げた。
「目を開けて、最初に見たのが、お前だった」



執事は、何も言わなかった。
扉の近くに立ち止まり、まるで何かあればすぐに退却できるように、肩をすくめ、視線をそらした。
視線を外せば、これからアスイェが言うことも、自分には関係ない。そうすれば、この吸血鬼から逃れられる――執事は、きっとそう信じていたのかもしれない。


アスイェはしばらく沈黙していた。
子を揺籠に戻したが、その指先は赤子に掴まれたままだった。


「その日、お前は、この者をさらわれたかった」

低く、かわいた声だった。
執事はごくりとつばを飲み込んだ。

「もし、それが『お前の仕事』ならば――お前は、失格しっかくだ。俺はこの者に触れていいとは、言っていないはずだ」


アスイェはそう言いながら、そっと赤子の指に触れた。
その顔は、かげになってよく見えなかった。


子は、まだアスイェの指先を掴んでいた。
その力は、アスイェにとっては微かなものだったが、子にとっては渾身こんしんの力だった。


「なぜ、連れ出そうとした?」


「……あなた様が、気にされないと思い……」


執事はそう答えかけて、何かを思い出したように口をつぐんだ。
その瞬間、部屋の空気すら凍りついた。


「俺は、他の命知らずが、自分のものに触れるのを――何より、このまない」

アスイェの声には、何の感情も乗っていなかった。まるで、ただ天気の話でもするかのように。


執事は、はっとして頭をれた。
アスイェは、彼に弁解の機会など与えていない。だからだ。


アスイェは、執事の背後にある灯りを、一つ、また一つと消していった。
まるで、子に眠りの歌でも聞かせるように。


子は泣かなかった。ただ、アスイェの指先を掴んだまま、静かにまぶたを閉じただけだった。


執事への小さなばつは、言葉もなく、風さえ止まったまま降りてきた。
赤子も、その様子ようすを、見ることはなかった。

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