第四話:暗闇が苦手

あの夜、灯は早めに落とされた。
暖炉にまきはもうなく、風の音も小さい。執事の姿もない。
アスイェと子だけがいる空間は、異様いようなほど静かだった。

壁に掛けられた古い織物おりものは、かすかに揺れている。わずかな隙間から忍び込んだ夜風が、ほとんど聞こえないほど小さな音を、石造いしづくりの床の上に落としていた。

アスイェは灯を点けなかった。
古い長椅子に腰を下ろし、手元には開かれていない本が一冊。
部屋の中は深い漆黒しっこくに包まれ、窓の隙間から差し込む月光だけが、布の上に落ちた銀糸ぎんしのように断続的に揺れていた。

その光は、時折ときおり雲に遮られ、またふたたび現れた。まるで、ためらうように、そこに留まることを許されているかのようだった。

子はまだ目を覚ましていないが、動いていた。この者はまだ若く、成長も遅い。手足の動きは、まだうまく制御せいぎょできていない。
その微細な動きは、アスイェの目には、かすかなもがきのように映った。

子は、ただいつものように身を丸め、どこかに隠れようとしていた。

この子は、暗闇を恐れている。
目を開けたことのない赤子にとって、それは未知ではない。むしろ、この身は暗闇から来て、うっかりすれば暗闇に呑まれる。それは――よく知っている感覚だった。

子の小さな手が、無意識に揺籠ゆりかごふちを探っている。指先が木の縁に触れるたび、かすかな音が鳴る。

アスイェは立ち上がった。灯りは持たず、いつものように、足音も立てない。それでも、赤子は気づいた。
空気が、わずかに変わった。
アスイェは揺籠の傍に立ち止まり、子を呼んだ。

「この者」でも「子」でもない――ひとつの名前だった。

ため息のような、人を呼ぶ音。
まだ名前を持たない子に向けられた、それでも意味を持つ呼びかけ。
それを聞いて、赤子の震えは止まった。

そして――赤子は目を開けた。

ゆっくり、ゆっくりと。夢の中から浮かび上がるように、まぶたが持ち上がる。その目は光を宿していない。だが、何もかもを見ていた。

その目は、感情を持たず、ただまっすぐにアスイェを見つめていた。アスイェもまた、その目を見つめ返し、珍しいものを見つけたかのように、しばらくのあいだ、視線を逸らさなかった。

――アスイェは、自分の目を見つけた。

純血種じゅんけつしゅは、めったに鏡を見ない。
だが、アスイェは、この子の目の色を知っていた。

霧のような、鋭い刃物はもののような灰青はいせい。
純血の中でも、最も冷たい色だった。

子は、目を開けたまま彼を見つめていた。


子の指が、かすかに揺籠の布を握り締める。その細い指先に、まだ力はなかったが、それでも確かに、自分の存在を確かめるように動いていた。

部屋は完全に静まり返っていた。風も音も、もうなかった。

子は、もう、暗闇を怖れていなかった。

――暗闇の中に、自分の名前を呼ぶ者がいたから。



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