その二:無邪気な人は生きている

第七話:初めての眠り、初めての笑い声

冬の朝の光が、高い窓から聖堂に差し込み、石の座は変わらず冷たい輝きを返していた。
アスイェは神座に腰を下ろし、マントの裾を床に垂らしたまま、長靴を無造作むぞうさに組み、ひじ掛けに片手をあずけている。
その目は閉ざされ、まるで、終わりの見えない長い休眠に、ただ黙って耐えているかのようだった。


赤子はアスイェにしがみついていた。
まるで、自分の小さな巣からい出したくない、小動物しょうどうぶつのように。


赤子の髪は少しずつ伸びてきて、その輪郭りんかくから、ようやく性別が見えてきた。
このか細い命は、女の子だった。


女の子の体は、吸血鬼とは違う。
暖かく、脈打みゃくうつ生気を宿やどしていて、静かによどむものではなかった。


彼女は、アスイェのボタンを掴もうとするように、かすかに指先を動かした。
けれど、その指にはまだ十分な力がない。
だから、その仕草しぐさはただ、触れたいとねがう影のように見えた。


そして、彼女は自分の頬をアスイェの胸に押し当て、かすかな声をらした。


「……Siaシア


アスイェは目を開けなかった。

「……Siaシア


赤子は同じ言葉を繰り返し、必死ひっしにアスイェを呼んだ。

「……Siaシア


二度目は、まるで駄々だだをこねるような響きだった。
まだその意味を理解しているはずもない。
だが、そう呼べば、アスイェは自分を置いていかない――おさない本能だけが、彼女をそうさせていた。

「……Si――a」


三度目の呼びかけが途切れかけた瞬間、アスイェはようやく目を開けた。

そのひとみなぐさめの色はない。
ただ、静まらない小さな身体をじっと見つめていた。


「その呼び方はするな」

アスイェの声は低く、静かだったが、そのはしに冷たさがにじんでいた。


彼女は小さく首をすくめた。
だが、掴んだアスイェの襟元えりもとから、指は離れなかった。


アスイェは微動だにしなかった。 ただ、腕の中の赤子を見下ろす。

「俺は、たかが十七分しか目を閉じていない」


冷たく、かわいた声だった。

「俺は吸血鬼だ。胸にしがみついても、心臓しんぞうの音なんて、最初から無い」

赤子は意味も分からず、鼻をらし、もう一度、つたない声で呼んだ。

「……Siaシア

アスイェはようやく、その小さな手を掴んだ。


こばむでもなく、優しくするでもなく、ただ、指をほどき、その手を自分の上から降す。

まるで重い毛布もうふをそばに置いたように。


「きみは人間ではない。くっついていなくても生きてられる」

そう言いながらも、突き放す仕草にも見えたが、指先はわずかに、その子の手を包むように動いた。


すぐに離したが、力は込めなかった。

――本気で拒むなら、こんなふうにはしない。 アスイェは目を閉じたまま、ふたたび動かなかった。 その子の手は、そのまま、彼の胸元に残された。


「もう一度そう呼んだら、地下室にてる」

赤子は、もう一度アスイェを呼びたかった。
だが、その前にアスイェがそう言った。
怒りのない、かわいた声だった。ただ、事実じじつを告げるように。


赤子はゆっくりとアスイェから視線しせんを外し、彼のももの上に顔を伏せた。
マントの布を小さな手で掴み、そのまま動かなくなった。


アスイェのおどしがいたのか、ただ疲れてたのかはわからない。
けれど、その呼吸はすぐに浅く、静かになり、
その目だけが開いたまま、じっとアスイェを見つめていた。


アスイェは石の座にふかく腰を下ろし、目を閉じた。
遠くで、かねの音がり始める。

小さくため息をつき、アスイェは少女の背にそっと手をえた。



***


鐘楼しょうろうの上に、もう足場はなかった。
石柱はけ、欄干らんかん途切とぎれ、すたれた鐘楼の口から風が吹き込み、二人の衣の裾を静かに揺らしていく。


アスイェは赤子を抱き、崩れかけた石柱の端(はし)に立っていた。
頼りないその足場は、一歩すたはずせば、二人まとめてやみに呑まれる。


アスイェのマントは風に煽られ、わずかにひるがえった。
その布は、まるで小さな命をかばうように、月の光さえさえぎっていた。


赤子は、アスイェの腕の中で静かに身を寄せている。
まるで、最初から彼の身体の一部であったかのように。


その小さな手が、ふいに動いた。
羽ばたくコウモリを目で追いながら、ゆっくりと手を伸ばす。


「欲しい」という感情すら、まだ知らない。
言葉も、まだ覚えない。
それでも、伸ばした。

コウモリは、あっけなくやみに消えていく。


アスイェは、腕の中の子を見下ろした。


「落ちたら、助けてやれないからな」

声音は淡々としていた。事実を告げるだけのように。
だが、彼の腕はその小さな身体を確かに、逃がさぬように抱えていた。


赤子は、ただ目の前のコウモリに気を取られていた。
そのコウモリが闇にけると、少女は消えた空へ向けて、かすかな声をらした。それは――笑い声だったのかもしれない。
だが、その声はあまりに小さく、はずが雪の上に落ちたとしても、まだその方が確かに聞こえるだろう。


風が、赤子の髪をかすかに持ち上げた。
少女はもう一度、笑った。
今度は、さっきよりはっきりと。短く、はずむ音だった。


アスイェはその音を聞いたが、何も言わず、ただ手を少女の腰に添え続けた。
まるで、壊れやすい美術品びじゅつひんを抱えるように。


女の子は顔を上げた。アスイェを見つめ、その口元には、まだ微かなみが残っていた。
その感情はあまりにおさなく、まだ隠すすべを持たない。


アスイェは、その喜びに応えなかった。ただ、少女を腕の中で、少しだけ持ち上げた。
もっと遠くを見せるために。
それだけだった。


風が吹いた。
彼女はまだ、声を上げて笑っていた。
まるで、自分の笑い声が――気に入っているかのように。


鐘楼しょうろうの奥から、音がした。
ちたくさりと、びた鐘がぶつかり合い、
一度。
また一度。
それは、古い時代と、新しい命とが衝突しょうとつする音だった。


子は、まだ笑っている。
誰かの真似まねでもなければ、何かの答えでもない。
ただ、風の中で微笑ほほえんだことを――この身が、覚えていただけ。

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