風鈴社(ふうりんやしろ)

 タンクトップの袖口から剥き出になった肩が、じりじりと焼ける音がした。正確には、したような気がした。雲一つない青空、と言えば聞こえはいいけれど、七月にもなると、それはただの嫌がらせじゃないか。少女は、はっはと浅い息を吐き、右手の甲で無造作に額の汗を拭った。一体誰が嫌がらせをしているのか、などということは、少女には分かるはずもなく、そもそも考えるだけばかばかしい話で、つまり、益体やくたいもない話だ。ただ言えることは、今日か誰かのせいにせずにはいられないほど暑い日で、少女がとんでもなく不機嫌だということだ。手の甲で額を拭うだけでは足りずに、両掌で顔の内側から外側に向かってぐいぐいと、力まかせに、粗雑に拭いまくるほどには。

 向かいから、制服を着た少年少女がわいわいと歩いて来るのが見えた。少女はふいっと顔を伏せ、こそりと道の端に寄る。なんでこんな昼日中に。ああそうか、そういえば定期テストの時期だったような気がする。少女はぐっと力を入れ、ショートパンツの裾から生える両腿をくっつけた。どうして気配を消すために、これほどまで体中に力を入れなければならないのか。少女の奥歯が、ぎりりと音を立てた。

 制服の集団をやり過ごすまでのほんの数刻で、少女の不快指数はすっかりと、天井知らずに跳ね上がってしまっていた。噛みしめられた下唇は鈍く痛み、とじられたままの両の腿はじったりと汗ばんでいる。のろのろと顔を上げ、再び歩み始めた少女の姿は、なめくじの化身のようだ。それも、塩で体表の水分を奪われ、溶け縮みゆくなめくじだ。ただ飲み物とお菓子を買いに出ただけなのに、歩いて数分のコンビニエンスストアに行くだけなのに、いつものルーティンなのに。少女は大きく息を吐いた。


 ちりぃん


 音が、少女の身体ごと、上昇し続ける気温と湿度を刺し貫いた。そのあまりの鋭さに、音の出所を探すよりも先に、その行方を追って、少女の視線は背後に向けられた。

 生ぬるくざわめいていた喧騒が、その主たちごと消え、代わりに静寂が空間を満たしていた。たった今まで照り付ける太陽に焼かれていたはずの目の前のアスファルトが水に沈み、水光文様を描きながら、ゆらゆらと揺れている。文様は少女の身じろぎでちゃぷんと形を変え、新たな文様になり損ねた液体が数滴、少女の脹脛ふくらはぎに飛んだ。


 ちりぃん


 音が、もう一度。少女は正面に視線を戻す。目の前の街道も、そこを横断する白黒の歩道も、水底でゆらゆらと揺れていた。音の出所が歩道の先の神社からだとすぐに分かったのは、鳥居の向こう側に覗く参道に吊り下げられ揺れる風鈴たちが見えたからだ。


 ちりぃん


 さらに、音がもう一度。今少女を取り囲む、少女自身の認知を超えた光景のなかで、揺れる風鈴の姿だけが、彼女の記憶に確かに存在するものだった。故に必然的に、彼女は音のする方へと向かっていた。水は、ざぶ、ざぶと音を立て、彼女に抵抗をする。足が重い。本当に、これはいったい何なのだ。少女はくっと喉を鳴らす。何もかもが重い。ばかにしやがって。ただ飲み物とお菓子を買いに出ただけなのに。ただ、学校に行けなくなっただけなのに。ただなんとなく、ついていけなくなった勉強や、入学したばかりの高校での生活に慣れないまま、友人を作り損ね、部活にも入り損ねたことなんかの小さな積み重ねがちょっぴり重くなっただけなのに。


 ちりぃん


 むかつく、むかつくと呟きながら、さっぱさっぱ、じゃぶんじゃぶんと、少女は街道を渡り、鳥居へと続く石段へと辿りついた。揺れる水は石段の三段目で小さく砕け、波打ち際のようなそこには、風鈴の短冊が映りこみ、金魚のように揺れていた。

 やがて石段を登り終えれば、ちりんちりんと、音が降り始めた。見上げれば、透明、赤、青、緑、さまざまな色の風鈴と、短冊が揺れている。少女はただ、ほうと息をついた。ただ、綺麗だと、息をついた。その小さな小さな所作に、頬にかかる少女の髪も、短冊と一緒にふわりと、軽やかに揺れる。

 ふと少女は、それぞれの風鈴の短冊に人の名前らしきものが記されていることに気が付いた。ほかにすることもできることもないので、少女はそのまま、それらの名をひとつひとつ追いはじめた。


「あ」


 透明なガラスに水色と白で、ちょうど背後で揺れる水光模様のような曲線が描かれた風鈴の、赤い短冊に記された名前。それは一年前に亡くなった、少女の祖母のものであった。そうか、これらは。


「死んだ人の」


 少女がそれを言い終わらぬうちに、どうと風が吹いた。みなまでは言わせぬと言わんばかりに、周囲の緑を揺らし、水面を揺らし、吹き荒れた。少女は学生たちをやりすごした時のように首を下げ、両腿とぎゅっと閉じて、その衝撃に耐える。


 ちりんちりんちりんちりんちりん


 風鈴がめちゃくちゃに揺れ、ぶつかり合って、参道に不協和音が響く。短冊はあちこちにめくれ、どれが祖母の風鈴だったのかも、もう分からなくなってしまった。風はやむことなく、ど、ど、ど、ど、と音を太くしてゆく。少女の脳裏に、小学生の時に読んだ「風の又三郎」の一説がよぎった。どっどど どどうど、どどうど どどう。なんだかいろんなものを吹き飛ばせと言っていたような気がするが、少女にはそれ以上のことは思い出せなかった。

 ざばあ、という音に少女は我に返る。少女の脹脛くらいの水位であったはずの水が、いつの間にか大波となって今まさに眼前に迫り、そしてそのまま、少女を飲み込み、引き倒した。少女は、自らの吐く泡の向こうで、ちりぃんと、一度だけ風鈴が鳴るのを聞いた。


「おばあちゃん」


 ごぼりと大きな泡を吐いた瞬間、もがいていた手足が水ではなくくうを掴んだ。あるはずの抵抗はそこになく、大きく空振りした手足に驚き、少女はかっと目を開く。そこに水はなく、少女は参道に、大の字に横たわっており、日光に焼かれた肌がひりひりと悲鳴を上げていた。眼前の空は変わらずたくさんの風鈴で覆われていたが、そのどれも、ちらとも揺れることなく、だらりと短冊をぶら下げている。少女は横たわったまま、そのひとつひとつに目を凝らしたが、いずれの短冊も無地であった。

 あれは、なんだったのだろうか。夏の暑さに失われた意識が見せた夢だったのだろうか。少女はぼんやりと考える。あれは、あの世界は、きっと死後の世界で、神に愛され求められた魂があの社で、神と共に静かに息づいていたのではないだろうか。そういえば死んだ祖母は、優しく穏やかで、信心深い人だった。


「ばかみたい」


 深呼吸をひとつ。少女はふっと笑う。さすがに妄想が逞しすぎる気がする。が、その逡巡も、少女には益体もないものに思えた。まあ、どっちでもいいか。どっちでもいいのなら、自分に都合のいいように思っておこう。驚きもしたけれど、あの世界は不思議と恐ろしくはなかった。むしろ、軽やかで美しい世界だった。それに、望めば自分はいつだって「そこ」に行けるような気がした。それならば、望む限りいつでも「そこ」に行けるのならば、今自らの身体を重たくしている色々はいつかは、少なくとも「そこ」に行く時には絶対に軽くなっているはずだ。それならば。


「まあいいか」


 少女は弾みをつけ、ぐんっと上半身を起こした。肌だけでなく、身体の節々も痛かった。いったいどれくらいの間、この石畳に転がっていたのだろう。だが、それもまた、少女にとっては益体のない話だ。日はまだ高い。まだまだ時間はある。もう少しだけ風鈴を眺めてから、ゆっくりと買い物をして帰ろう。少女は立ち上がると、両手を高々と上げて伸びをする。


 ちりん


 少女には感じられぬほどの微風で、風鈴がひとつだけ、小さく鳴った。

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