がらくたばこ

瀬季ゆを

披く。

 新しいノートを買った。白無地の表紙に二百枚の白紙がじられた、ただただ白く、分厚いノートを。「袋は結構です」と文具屋の店員から受け取ったそれは、ずっしりと重く、私は、名実ともに私のものとなった膨大な白の重さに、今更ながらにおののいた。左右の耳元で、二人目三人目の私が、「二百ページはさすがに多かっただろうか」、「いいや、これでも足りないんじゃないか」とつぶやいている。

 会計を済ませたというのに、しかめ面をしたままカウンターから動かない私を、店員が訝しげに見つめている。

「恐れ入りますが、お待ちのお客様がいらっしゃるので」

 そりゃあそうだ。慌てて白の集合体を鞄に突っ込み、そそくさと店を出る。ああ本当に私は自分勝手だ。

 私たちは、まだぶつくさぶつくさと同じことをぼやいている。私はこめかみに指を二本あて、その不協和なサラウンドを、文字通りぎゅっと揉み、そして潰した。とにかく、私は白いノートを買ったのだ。

 先ほどまで溌溂としていた夏の空が、機嫌を損ねたのか、ぐずぐずと音を立て、今にも泣きだしそうだ。女心と秋の空、などと言うが、夏空は幼子のようだ。顎にしわがよるほどに唇を引き結び、涙が零れるのを我慢する娘の顔を思い出す。早く家に帰り、傘とレインコートを持って学校へ迎えに行ってやらねば。

 

 昇降口に現れた娘は、私が立っていることに気づくと、ゴム毬のように跳ねてこちらに飛んできた。

「どうしてぇ?」

 にまにまと尋ねる彼女に、私は手にした黄色い傘とレインコートを見せる。幸い、まだ雨は降っていなかったが、空は先ほどよりもっと重たくなっていた。まさに泣き出す直前だ。

「雨が降る前に、急いで帰りましょうね、パパ」

 受け取った傘を手首にかけ、くいっと小首を傾げながら、小さな淑女は、やや芝居がかった口調で言う。レインコートはもう子供っぽいからいらない、と返された。彼女を幼子と形容するのは、もう失礼なのかもしれない。自分が小学二年生の時は、もっと幼かった気がする。

「今日ね、絵を描いたの」

「そうか」

「帰ったら見せてあげる」

「楽しみだな」

 徒歩五~六分の通学路を、さらにさらに急いで帰る彼女は、そのしなやかさとスピードで大人になってゆく。私は、ついていくのでやっとだ。すっかりと大人になり、恐れることを知ってしまった私は、娘がいないと、この短い通学路でさえ、下を向き、足に「動け」と命じながらでないと前に進むことができない。目の前を軽やかに進んでゆく彼女がいてよかった。空は変わらずぐずぐずと音を立てている。


 玄関ドアを開けるや否や、娘はランドセルを床に置き、中から一枚の紙を出した。青とオレンジと白がめちゃくちゃに塗りたくられていた。これが何を描いたものかは、きっと私と妻くらいにしか、わからないだろう。

「ああこれは、昨日の夕方の空だね」

「せいかーい!」

「それじゃあまた、ここの壁に飾っておこうか」

 玄関を開けてすぐの壁には、娘が描いてきた空の絵がもう何枚も、白い壁を埋め尽くすほどに、びっしりと飾られている。彼女は早くも隙間の白を見つけ出し、新しい空をその上にぺたりと張りつけた。

「パパ、これなあに?」

 ソファに放った鞄からはみ出したノートを、目ざとく見つけたようだ。

「まっしろ」

「これに、色々書こうと思ってね」

「絵?」

「作文、かな」

「そっかあ」

 興味を失ったのか、娘はそのままソファにごろりと横になった。


 私は、文字を綴るのが好きだった。手当たり次第に自分の見た景色を文字にして綴るのが、好きだった。そして、私の綴る文字を好きだと言ってくれる妻と一緒にその景色を見るのが、好きだった。しかし、その妻は一年前のある日、突然姿を消した。財布と携帯電話と、数着の着替えだけを持って。その理由は、彼女にしか分からない。置き手紙には「みんな愛してます。ごめんなさい」とだけ記されていた。理由も分からないものに、解決方法などない。私は娘と右往左往しながら、とにかく歩を進めるしかなかった。目先の着地点だけを求めて右往左往するものに見える景色など、自分の手元と足元くらいだ。だから私は、文字を綴るのをやめた。否、そんな聞こえのいいものではない。単に書けなくなったのだ。そう、私の「文字を綴るのが好き」だという気持ちは、所詮その程度のものだったのだ。いっぱしの芸術家気取りで物を書いてきた。けれど、所詮その程度の存在だったのだ。

 そうしてますます、私は書けなくなっていった。

 ある日、あれは買い物の帰りだったか、私と手を繋いで歩いていた娘が、ぐいっと私の手を引き、こう言った。

「パパ、見て。お空、きれい」

 それは、なんの変哲もない夕焼け空だった。特筆すべきほどのものでもない、本当に凡庸な夕焼け空だった。しかし娘は、それが夕陽によるものだと勘違いするほどに頬を紅潮させて、何度も何度も私の手を引き、きれい、きれいと繰り返していた。


 また、書いてみようか。そう思った。


 それから数か月後の今日、ようやく私はノートを買った。何度も何度も耳元で囁く自身の立てる不協和音に、変わらず右往左往しながら、ついにノートを買ったのだ。

 途中でくじけそうになるかもしれない。支離滅裂で、はちゃめちゃなものしか書けないかもしれない。そうでなかったとしても、きっと凡庸でつまらないものしか生まれないだろう。妻がいなくなった日に気付いたのだ。そもそも私は凡庸な人間であるということに。凡庸な人間からは凡庸なものしか生まれない。ああ、だが、だからこそ、凡庸の奇跡を私は知っているのだ。凡庸だと思うものを「美しい」と「好きだ」と言う感じてくれる存在に出会うことの奇跡よ。私は今、ただそれを謳いたい。

 新しいノートを買った。白無地の表紙に二百枚の白紙がじられた、ただただ白く、分厚いノートを。自分でペンを握り、この膨大な空白を、自分の知る奇跡で埋めるために。


「ねえパパ」

 ソファに転がったままの娘が声をかける。その目は窓の外を眺めていた。空はいよいよじゃぶじゃぶと泣き出し、大粒の水滴が窓を叩いている。

「今日のお空もきれいよ」

「ああ、本当に」

 娘はそのまま、くわあ、とまるで猫のような欠伸をした。うたた寝してしまう前に、早いところ夕飯にしなければ。

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