Face
鏡に拳を叩きつけ、そのまま割ってしまう――そんな場面を見たことがあるだろうか。たとえばテレビドラマ、たとえば映画のワンシーン。おそらく多くの人が、「ある」と答えるような気がする。少なくとも、私は何度も見たことがある。主人公、または物語の主要人物が、怒りや悲しみにまかせて鏡を殴りつけ、一面に発生した蜘蛛の巣に血を滲ませる、といった、大半は物語の山場に登場するようなアレだ。
幼いころから、私にはあれが不思議でしかたなかった。何故、鏡を割るのだろう。そもそも何故、洗面所まで来て怒りや悲しみを爆発させるのだろう。百歩譲って、洗面所でどうしようもないほどの感情の迸りに呑まれたとして、何故、殴ったら確実に怪我をするような鏡を殴るのか。ずっとずっと、私には分からなかった。
今、私は洗面所で、洗面台を抱えるようにしゃがみ込んでいる。
幼いころから、芝居が好きだった。始まりは確か、いわゆる「ごっこ遊び」だったと思う。「ごっこ遊び」に夢中になる私を見た両親は、何度も子供向けのファミリーステージに連れて行ってくれた。おかげで私の「ごっこ遊び」は、日々バリエーションを増やしていった。ままごと、お医者さんごっこ、アイドルごっこに探偵ごっこ、ヒーローごっこ、忍者ごっこ、運転手ごっこ。私の想像の翼は、羽ばたきを止めなかった。自分の求めるものを、恐らく他の子供たちよりも早く自覚した私は、それを誇りとし、とても素直に、そしてとても貪欲に育っていった。
成長した私は、舞台に映画、テレビドラマ、さらにはアニメに至るまで、様々な作品を見るようになった。なるべくして、そうなった。と同時に、受け手から作り手になることへの関心も高まっていった。あの作品もこの作品も、自分ならもっともっと面白く出来そうな気がしたのだ。そうして私はそれを実現すべく、何が面白く、何が周りにウケるかを、常に考えた。趣味は人間観察と豪語し、部活は当然演劇部を選んだ。もちろん担当は脚本だ。中学、高校、大学と、私の書いた作品は、いつだって拍手喝采で迎えられた。そうだ、これも、なるべくしてそうなったのだ。私はそう信じて疑わなかった。
高校卒業と同時に、演劇部時代の盟友たちと劇団を立ち上げた。毎晩、阿佐ヶ谷や高円寺、中野あたりで年齢を偽って飲み歩き、酒を浴びながら、批判めいた創作論や芝居論を語った。自分たちこそが最高の存在であると、唾を飛ばしながら、誰とも知れない誰かに、何とも知れない何かに向かって吠えていた。
「何かが変わった」と思ったのは、二十五を超え、三十が見えてきた頃だった。私の話ではない。周りが変わっていったのだ。いつからか、友人たちは、私の創作論に乗ってこなくなった。変わらず唾を飛ばし語り、酒を浴びる私を、ちびりちびりとグラスの中身を口に含みながら、たしなめる様な相槌を打つようになった。公演を打つための会議は、遅々として進まず、私の脚本だけが溜まっていった。
「いい加減気づけよな」
「いつからか」などと思っていたが、彼らには「とっくに」そうであったらしい。私の書くものは、ネットのそこらじゅうに転がっている夢物語の寄せ集めなのだそうだ。現実を見ろ、大人になれ、などと言われても、私には到底理解できなかった。私にとっては、私が現実で正解だ。集客が落ちているだと?それは貴様らの能力不足なのではないか。己の欲するものに忠実に生きることこそ、芸術の本質であろう。年齢や周囲の環境に日和っただけのことを私の所為にする貴様らこそ、大人になるべきだ。そう口の端を泡立てながらそう罵る私をなだめる者は、もういなかった。
長年共に過ごしてきた盟友たちとの別離にさすがに少し堪えた。したたかに酔った私は、帰宅するなりスマートフォンを操作し、普段なら決してしない自身の劇団と自身の名前を検索してみた。自身の正当性を、自身に証明するために。
「こいつの作品はいつだって浅い」
「それっぽい人物やそれっぽい事象をそれっぽく書いただけだ」
「そのくせ口だけは一人前」
「まるで自分が先頭を走るアーティストにでもなったような顔をしているのが痛くてしかたない」
たどり着いた匿名掲示板には見ず知らずの人々が、私を貶めていた。もしかしたらそのなかには、見知った誰かがいるかもしれない。いてもおかしくはない。インターネットとは、そういう場所だ。
いいや、違う。
私には分かっていた。見知らぬ誰かなど、ここにはきっといない。閲覧人数ゼロ。コメントの数も、スレッドが立ってからの数年でたったの四件。話題に上げるほどもないような私についてわざわざ言及する存在など、そんなもの決まっている。それぞれのコメントが、長年聞いてきた懐かしい声で再生される。
いいや、いいや。違う。違う。
身内からですら、たった四つのセリフで事足りてしまうのだ。要は、私の存在など、話題にすら上がらないのだ。私のこれまでの人生は、これまでの誇りは、
途端に胃液が遡ってきた。私はトイレに駆け込み、盛大に吐いた。何度も何度も、肩を揺らし、汚物を吐いた。私の中には、もうこんなものしか詰まっていないらしい。
汚物さえも失い、からっぽになった私は、洗面所へと向かった。これは単に「トイレに行ったら手を洗う」という習性故だ。
そして私は、私とかち合った。鏡に映る私は、私を真っ直ぐ見据えてくる私は、小汚く狡い獣のようだった。頬には便器から跳ねた吐瀉物が転々とこびりつき、背筋は丸く、目だけが爛々と、落ち着きなく光っている。私は一度として、私をそのように見たことはなかった。むしろ年齢よりも若く見えて、なかなか悪くないよなあとすら思っていた。
こんなものは私ではない。私は、私は。
恐ろしさと恥ずかしさで、私は咄嗟に拳を振り上げ、鏡に映る私を殴りつけた。ばりんと鏡が割れ、嗚咽を漏らす私の拳に血が滲む、そんな姿を想像しながら。そうかそうか、主人公が鏡を殴る
が、実際は、ごん、という鈍い音がして鏡にべたりと手脂が付いただけだった。おかげで鏡の中の私は、さらに小汚くなった。私は、私が長年信じてきた私ではなかったのだという「現実」がずっしりと、ゆっくりと、空っぽになった胃に沈んでゆく。その重さに、たまらず私は膝をついた。せめてもの抵抗として、洗面台を抱えながら。
そう、なるべくしてなったのだ。何に「なるべき」だったのかを、私が見誤っただけなのだ。ここで
雀の鳴き声が聞こえる。どうやら私はそのまま眠ってしまったようだ。背中がひどく痛い。頭も痛い。どこもかしこも痛んでいる。ああ、このまま死ねたらいいのに。そう呟いたものの、その台詞の陳腐さに思わず吹き出した。陳腐な上に、恐らく私がこのまま死んだら、それはそれはみっともない姿だろうし、さしたるニュースにもならないだろう。せいぜいこの部屋が事故物件サイトに登録されるくらいだ。本当に、なんともつまらない話だ。
どう転んでもつまらないので、私は仕方なく、それでもそれなりの覚悟を決めて立ち上がった。改めて私と目が合う。昨夜よりもさらにみっともない姿ではあったが、朝日のせいか、一応覚悟を決めたせいか、幾分マシに見えた。おそらくただの、気のせいであろうが。それでも、これが本来の私がなるべき姿であるのだろうと、腑には落ちた。
鏡に残ったままの脂をタオルで拭く。そのタオルを、洗濯機に放り込む。何も始まらない、何も終わらない、何も盛り上がらない、つまらない絵だ。こうして私はつまらないものと目を合わせながら、仕方なく、それなりの、ちっぽけな覚悟と共に生きてゆくのだろう。未だ脳裏では、幼い私が間違った「なるべき姿」を眺めている。映写機の音がカラカラと響く小部屋で。だがそれは結局、白骨死体の見る走馬灯だ。言ったところで、結局私は、死ぬことすらできかったが。
そう、死ぬことすらできぬのだから、腹を括るしかないのだろう。とりあえず、括るための腹を満たすため、いつもより丁寧に、朝食でも作ってみようか。ふと笑みが浮かんだが、頬に未だこびりついたままの吐瀉物の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます