Scene19:策略


「……きもいんだよ、じじい」


――ガラン、ガランッ。


乾いた音を立てて、契約の盃が翠の足元に転がった。


次の瞬間、役小角エンノオヅヌの懐に鋭い影が飛び込んだ。


「おっ……お前は……!?」


その腕を口内へ深く差し込み――


「ぐ、ぐわぁぁぁぁッ!!」


悲鳴が響き渡る。

役小角の下顎が、無理やり引き裂かれた。


口元から噴き出すのは血ではない、どす黒く澱んだ体液だった。


「爺さんさ……若い子には気をつけなよ?」


**それは、漣――否、“九尾”**だった。

変化した九尾の姿が、怒気を孕んだまま役小角に覆いかぶさる。


「なんなんだ、貴様……!」


九尾の巨体が役小角の四肢を押さえつける。


「……これも、翠ですよ。あなたが求めていた“安倍晴明”です」


鳳城が冷たく言い放つ。


「鳳城……貴様、裏切ったのかっ!」


九尾の体から、翠の姿が重なるように現れる。


「……いいよ」


その声と同時に、九尾が咆哮した。

そして――その鋭い牙で、役小角の胸を噛みちぎった。


コロ……コロコロ……


崩れた身体から、小さな“駒”がいくつも零れ落ちる。


「や、やめろ!……鳳城っ、止めてくれぇ!!」


だが鳳城は、ただ一瞥を与えるだけだった。


「役小角様。私も千夜も、最初から“あなたの味方”になった覚えはありませんよ」


ぐちゃ、ぐちゃ……


肉が引き裂かれ、骨が砕ける音が響く。


そのとき――


《カレイド:金色の世界》


スマホが不気味に鳴り、空間がぐわん、と歪んだ。


そして、画面から――

白く巨大な蛇が、身をくねらせながら這い出てきた。


(……翠)


その声は、紛れもなく和真だった。


「翠くん。――約束の、和真の魂だよ」


巳神の姿をとった和真が、静かに身体を持ち上げて翠に近づいた。


「和真……ごめん。遅くなった」


翠はそっと、和真の頬に手を添える。


「翠。この爺さん、どうする?」


翠は、息も絶え絶えの役小角の顔を覗き込む。


「……お前は、幾重にも連なる“死の連鎖”を起こし、

世界の“理の輪”を乱した」

「誰もが、誰かの“支配”を受けてはならない。陰陽で保たれるこの世界には、必ず償いが必要だ」


赤黒く染まった水晶のチェス盤。

その足元には、役小角の体内からこぼれた“駒”が転がっていた。


「どれだけの命を、喰らった」


「我は……我は、役小角ぞ!……それがどうしたと言うのだッ!」


「――哀れだな。泡沫の夢でも、見ていたのか」


翠の足元から空気が揺らぎ、波紋が広がる。

紫の光が水晶盤を飲み込み、空間全体を捩じ曲げていく。


やがてすべては、光を内包する球体へと収束していった。


「和真」


翠の呼びかけに応じて、和真は巨大な身体をぐっと持ち上げる。


球体の中で暴れる役小角を、白蛇が静かに見下ろした。


その口は、怒りでも憎しみでもない。ただ、天命のように静かに開かれていた。


鋭い瞳が、迷いなく役小角を捕らえる。


一筋の光が、蛇の喉奥から伸びた。

その中に、叫ぶ影が、泡のように呑まれていく。


「ぐわあぁぁぁぁぁ……!」


悲痛な断末魔が、球体の中でこだました。

声はやがて、泡のように弾けて消え、すべてが静寂に包まれる。


和真は、頭を持ち上げながらゆっくりと呑み込んでいく。


「役小角よ……お前は、永劫にそのなかで過ごすこととなる。」


その声は、どこまでも静かで、残酷なほどに慈悲がなかった。


喉奥へと、神の裁きが嚥下されていく。

そして一瞬――球体が、ひとつの静かな輝きを放ち、ふっと消えた。


翠は、光が消えた空間に、ゆっくりと身を寄せた。

和真の身体に、そっと触れる。


「翠、翠。大丈夫か?」

紺が駆け寄ってくる。


「あぁ……」

短く返事をして、和真を見上げた。


彼の身体の鱗が、音もなく持ち上がり、剥がれかけていた。


「おい、翠。和真って……ほんとに、巳神だったのか?」


――そのとき。


パチパチパチ……


拍手の音が場を破った。


「いやぁ、お見事!翠くん。

まさか、和真に役小角を“喰わせる”なんて!……ははは、ほんと凄いよ!」


「……グルルルル」


九尾の牙が剥き出しになり、警戒の唸り声を上げた。

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