Scene20:山間

この背中に、ずっと支えられていたんだと感じていた。


蛇行する山路を、バイクのヘッドライトが淡く照らしていく。

湿気を孕んだ夜風が、タイヤの音を遠ざけた。


三日月が鋭く空に浮かび、谷底からは水がぶつかり合う音が聞こえる。


ガードレールの向こうは、覗き込めばすぐにでも落ちていけそうな黒い闇だった。


ぐぅん、と加速するバイク。


僕はしがみついた。


―――暖かい。……和真。


ヘルメット越しに、表情は見えない。でも、感じていた。

和真の中にいる“誰か”を。


「着いたよ」


バイクが静かに止まり、僕はヘルメットを外した。

冷たい空気が、喉元をすっと抜けていった。


展望台は山肌からせり出すように設置されていて、まるでそこだけが舞台のようだった。


和真に手を引かれて、そのステージの上へと導かれる。


ギシギシ……と木製の床板が軋む。


けれど、さっきまで感じていたぬくもりは、もう伝わってこなかった。

僕が歩みを止めると、彼の表情がわずかに淋しそうにゆらいだ。


「大丈夫よ。なにもしないから……もう少し、前にまで行こう」


今度は僕の後ろへとまわり、そっと背中を押してくる。


手摺のぎりぎりまで進んだ時、不意に彼の手が僕の目を塞いだ


「おいって……」


「ここね、夜になると誰も来ないのよ。

だから、よくここから……飛び降りてしまう人がいるの」


ふふ、と微笑んだような口調だったが、


その声色は、どこかすすり泣くように震えていた。

ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。


―――わざわざ、自殺の名所を案内したのか。


不意に、空気が変わった。


「そろそろ、ね……」


視界を塞いでいた両手が、ゆっくりと離れた。


「うわっ……!」


目の前には、幻想的な光景が広がっていた。

山々の間を縫うように、月明かりに照らされて無数の光が舞い上がっている。


――蛍


小さな光が、空へ、空へと吸い上げられていく。


「……綺麗でしょ?」


和真――いや、彼の顔は、ほのかな光を受けて少し赤く染まっていた。

それでも、その目はどこか遠くを見ているようだった。


「すごい……。こんなに蛍が。どうして?」


「この山ね、水路がたくさんあるのよ。ちょうど今が、あの子たちが羽化して旅立つ時期なの。……この場所、私のとっておき」


―――なんて、幻想的な光景だろう。


「おかしいわよね。こんなに綺麗な場所なのに、ここで命を終わらせる人がいるなんて」


あぁ。僕は、ただ見入っていた。


「私ね、いつか誰かと来たいって、ずっと思ってたの」

「なんであなたを選んだのかは、分からないけど……」

「でも、良かった。あなたで」


その表情は、はっきりとは見えなかった。


ただ、今は静かにここにいることを実感していた。


「さあ、帰ろっか」


急に現実に引き戻されたような気がした。


本当は、聞きたかった。和真の身体のこと、そして、、、。

でも……今は、聞けなかった。


バイクは静かに山を下りはじめた。


反対車線の外は深い渓谷。水の流れが反響して、心をざわつかせる。

……本当は、もっと何かを伝えたかったのだろうか。


その時――スマホが震えた。


《 Kaleido:銀の世界 》


次の瞬間、カーブミラーが目に入った。


鋭角のコーナーに立つそれは、月明かりを反射しているはずだった。

……だが、何かが違った。


ミラーの中心には、まるで蜘蛛の巣のようにひび割れが走り、景色がぐにゃりと歪んでいた。

そこに映った自分たちの姿は、逆さまで、万華鏡のように分裂していた。


「……っ、なに……?」


「危ない!!」


正面から、ハイビームが飛び込んできた。


前方の車線を、大型車が逸脱して迫ってくる。


「うわっ……!」

避けきれなかった。


バイクの車体が激しく傾き、そのまま滑るようにしてカーブの外側――谷へ、跳ね飛ばされていく。


時間が、引き裂かれるように遅く感じた。


心臓の音だけが、ひどく大きく聞こえていた。


―――まさか、こんなところで……。

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