Scene18:盃

どれほどの時間が経ったのか、分からなかった。


上っているのか、それとも、下っているのか。

永遠に続くような長いトンネルの先に、まるで天国のような眩い光が広がっていた。


そこには、信じがたいほど美しい世界が広がっていた。


無数の花々が咲き乱れ、風に乗って甘い香りが漂う。

湖面のような大きな池には、金や紫の睡蓮が静かに揺れていた。

空は霞むような光に包まれ、すべてが現実離れした“静寂の桃源郷”だった。


そして、その最奥。

睡蓮の池を取り囲むように配置された浮き石の先に、金色に輝く玉座が据えられていた。

まるでそこだけが、時の流れから切り離されているかのように。


金の玉座に鎮座していたのは、

人の姿を模した“なにか”だった。


髪は白磁のように滑らかに垂れ、

眼差しは血のように濁った紅。

肌は薄く透けるようでいて、

時折、うごめく筋がまるで生きているように見える。


細い唇の端が引き裂かれたように裂け、

その内側からは時折、蛇のような舌が覗く。


――それは、かつて人でありながら、

今は“神”にも“鬼”にもなりきれぬ、

捻じれた執念の器だった。


―――まさか、なぜ僕がここに。

鳳城……君は、何を考えているんだ……?


役小角エンノオヅヌの前には、大きな水晶盤。

それはまるで、空中に浮かぶチェス盤のように輝いていた。


「くくく……これで、すべてが揃った。盤は完成し、勝者は我よ。さあ、もっと近くへ来い」


鳳城が僕の背を押した。拒むことはできなかった。


「……可愛い顔をしておるな」

役小角は下唇を舐めながら、獲物を値踏みするように視線を這わせた。


「お前が……安倍晴明か。我は、役小角エンノオヅヌ。その名、知っておるか?」


僕は彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「なぜ……こんなことを」


「ふふ……それを知ってどうする?」

声は低く、湿った笑みが滲む。


「我はかつて、人の身であった。だが――朝廷に逆らった“謀反”の罪で、島流しにされたのだ」

「この無念、屈辱……我は決して忘れぬ。だからこそ、晴明よ。お前を我が従属とし、かつての恨みを晴らし、この世を我が支配の下に置く」


「そんなことをしても、もう……朝廷なんて残ってない」

僕の声が震える。


「ふはは……それは知っておる。それでもいいのだ」

「我は人の世の“形”など興味はない。ただ、我が意志で“秩序”を塗り替える。それだけよ」


嘲るような笑みを浮かべながら、彼は手を振った。


「……鳳城」


命令を受けた鳳城は、無言のまま壇の奥へと向かう。

すると――水晶盤の上に、麻袋を被せられ、手を後ろで縛られた生徒たちがずらりと並べられた。


見覚えのある制服。

皆、術にかけられたかのように動かず、まるで“生きた駒”のように整列している。


「お前の力がどれほどのものか……我はこの目で確かめてみたいのだ、晴明よ」


役小角は手元の皿から、瑞々しい葡萄を一粒取った。


それを指先で弾いた瞬間――

ヒュンッ、と空気を裂く音と共に、葡萄は鋭利な矢となって一直線に飛び、ひとりの生徒の胸を貫いた。


身体がビクリと跳ね、鈍い音を立てて倒れ込む。


「まるで遊戯だな。さあ、次はどの駒にしようか……」


次々と矢が放たれ、生徒たちが崩れ落ちていく。


「……安倍晴明は、死者の魂を呼び戻す力を持つらしいな?《反魂》というそうだ」

「ならば見せてみよ。清明。使わねば、こやつらはただの屍だぞ。くくく……」


(このままでは……でも、今ここで力を明かせば……!)


鳳城が合図を受け、ひとりの麻袋を外した。


僕は息を呑んだ。

そこにいたのは、血まみれで顔面蒼白の結人だった。


ほとんど意識はなく、すでに命の灯火が消えかけている。


「どうする、清明……?」

役小角の声が、耳元で囁くように響いた。


僕は躊躇いながらも、己の髪を数本抜き取った。

掌の上に乗せると、髪の毛は空中に浮かび、絡み合いながら光の輪を形成していく。


ーーーー言の葉よ。揺らめいて

ーーーー冥府へ轟。忘れ去られし者の名前を

ーーーー導け


輪の中心が光を帯び、やがて紫色の炎のような珠へと変化する。

それに息を吹きかけると、珠はゆっくりと結人の身体へ吸い込まれていった。


血色が戻り、彼の胸がかすかに上下し始めた。


「ほう……ははは!やはり、真実だったか」

「では……契約といこうではないか。鳳城、盃を」


鳳城は静かに、金色の睡蓮の装飾が施された大盃を差し出す。


そして、無言のまま掌を切り裂き、その血を盃へと垂らしていった。


「これは我との《血の契約》だ。盃を口にすれば、貴様は我の“右腕”となる」


鳳城に押され、僕は盃の前に立たされた。


役小角は、どこまでも醜悪な笑みを浮かべながら、僕の腕を掴み引き寄せた。


「清明は、実に……美しい肌をしておる」

「その身に、我が呪を刻んでやろう」


鼻先が触れそうな距離で囁きながら、

彼は、金色の盃を僕の唇にぐっと押し当てた――。

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