Scene17:契約
「翠くん。僕はね。別に君たちを傷つけたい訳じゃない。ただ、協力してほしいんだ」
和真から流れる血液が足元に血だまりを作り出していた。
その表情には、痛みすら映っていない。
鳳城は和真が握りしめていたナイフを奪い取った。
「翠くん。僕と取引しないか? 君は和真が大事だろ? 僕も同じくらい大事に思っていることがある。そのためには君が必要なんだ。君の身体、意志を僕のものとしてほしい」
(こいつ、まさか……翠の力に気づいているのか?)
「おい、なんのことを言っているんだ。和真と翠を交換するってことか! ふざけるな!」
俺の怒りが頂点に達していた――九尾が連動している。
頬の鳥居から九尾が顔を出し始めていた。
グルルルル……
牙を剥き出して今にも飛び掛かろうとしていた。
「おっと、この取引の主権を握っているのは僕だ。翠くん……どうする?」
翠は俺と九尾の前に立ち、手を翳して待てと合図を送った。
「僕を手に入れて、鳳城さんはどうしたいんですか?」
沈黙を破るように、翠が問う。
「僕もまだ駒だよ。そうだね……取り戻したいのかもしれないな」
「はぁ? お前、意味わかんないわ。翠、相手するな!」
俺と九尾の敵意を向けられていながら、鳳城はなにも感じていないようだった。
そう、この取引は始めから翠が決断するというゆるぎない自信があった。
――和真を奪えば、翠はこちら側につく。
鳳城はずっと見計らっていたのだ。
「なんて奴だ! ずっと俺らを見張っていたか! この変なアプリもお前の仕業か!」
「ははは。そうだよ。上手くできてるだろ? あのアプリは、君たちを自然と盤の上に導くための装置なんだ」
蔑んだ眼でこちらを見る鳳城。
「分かった。その代わり約束は守ってもらう」
翠は静かに頷いた。
鳳城は身震いするように笑い、飲みかけのジュースを翠の足元に投げ捨てた。
甘い液体がじわりと広がっていく。
足元で零れたジュースは、さっきの和真の血だまりと混ざるように滲んでいった。
「翠くん。契約だ」
鳳城は自らの手首にナイフを宛がい、ためらいもなく斬りつけた。
流れ出す血を、まるで祝杯のように翠の前へ差し出す。
翠はわずかに躊躇したあと、ゆっくりと膝をつく。
震える手を伸ばし、差し出されたその手首へと顔を近づけた。
――これは、和真のためだ。
傷口に、舌を這わせる。
鉄のような味が口内に広がり、喉奥に熱が灯った。
まるで、獣へと堕ちていくような錯覚――
それでも、翠は顔を上げなかった。
(……これが、俺の選んだ方法)
ゴボッ、ゴボゴボ……ッ
唐突に、静かな水面が不自然なうねりを見せた。
プールの底から、黒い影が膨れ上がる。
バシャァッ――!
次の瞬間、無数の黒い羽根が水飛沫とともに空中へと舞い上がった。
幾重にも折り重なるようにして飛び出した鴉の群れが、
翠と鳳城、そして倒れていた和真を包み込む。
「……翠っ!!」
蓮の叫びもむなしく、三人はそのまま闇の羽音に呑まれ――
姿を消した。
ざぶん……と、最後の波が弾けて、音が止む。
静かな水面が戻ってきたプールには、
蓮と九尾だけが、ぽつりと取り残されていた。
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