Scene15:夜の輝
ちゃぽん、と静かに水面が揺れた。
壁一面がガラス張りになった高層ホテルの浴室。
街の灯が、まるで星座のように遠くまで連なっている。
バスタブに身を沈めた千夜は、両腕を縁に預けながら、手元のグラスを傾けた。
その液体は、透き通るようで、どこか淀んでいるようでもある――
深紅の果汁。ザクロの実から絞られた、“血”のような色をした飲み物だった。
「……これね。ザクロの“果実”だって。冥界の果物、って言われてるんだよ」
口元をゆるく歪め、笑う。
「口にすれば、戻れなくなるって。ふふ……ぴったりでしょ? 私に」
湯けむりの中、千夜の上半身に浮かぶそれは、単なる痣ではなかった。
細く、滑らかな指先でなぞるように刻まれた――まるで“印”のような痕跡。
それは、肩から鎖骨を横切り、胸元へと伸びていた。
「……あいつ、手加減しないんだから」
千夜は笑ったが、その指先は、その痕をなぞるたびにわずかに震えていた。
それは――人の指先が、丁寧になぞったような痕跡。
すでに消えかけてはいるものの、どこか“意志”の残滓を感じさせる、不気味な曲線だった。
千夜はそれを隠そうともせず、視線を街の夜景へと投げる。
「ねぇ、ガイア仮説って、知ってる?
地球全体が、ひとつの生き物だったら……私たちは、いったい何の役目なんだろうね?」
月光が湯面に反射し、彼女の瞳に微かな光を宿す。
「――“世の中は、空しきものと、知る時し、いよよ染みぬる、心なりけり”」
ぽつりと、和歌がこぼれた。
その声は、ただの感傷ではない。
まるで、自らの存在を世の虚無と同化させるような諦念。
その少し後ろ。窓辺の椅子に腰かけていた鳳城は、静かにグラスを手に取る。
中にあるのはただの水――のはずだった。
けれど、それを見つめる鳳城の瞳は、わずかに濁っていた。
「……不思議だな。ただの水なのに。
お前の匂いが……残ってる」
喉を鳴らし、静かに飲み干す。
まるで、何かの契約を飲み込むように。
「千夜。和真は、どこに?」
鳳城の言葉に、千夜は湯の中で小さく身体を動かした。
ゆらり、と水面下――
そこには、静かに沈んだ和真の身体が横たわっていた。
目を閉じ、呼吸もない。だが、まるで眠っているように穏やかだった。
「ね、見て。きれいでしょ。……“水の子”なの。
私と一緒。だから、こうしていれば大丈夫。……まだ、眠ってるだけ」
「どうするつもりだ」
「使わせてもらうわ。せっかくの素質だもの。
“鍵”はまだ目覚めてないけど、そろそろ――かな」
千夜は、湯から上がり、鏡の前に立つ。
濡れた髪が背に張り付き、その身体の内側に、わずかな“ひび”が見えたような気がした。
そして――鏡に、和真の顔が、ふいに浮かんでいた。
「……見てるのね」
呟く声は、どこか嬉しそうで、どこか寂しそうだった。
「結局、俺たちは……似た者同士なのかもな」
鳳城がぽつりと吐き出すと、千夜がかすかに笑った。
「仕方ないでしょ? だって、元はひとつだったんだもの」
鳳城はその言葉に微かに顔をしかめる。
そして、視線をスマートフォンへ落とした。
《Kaleido:現在地データ同期完了》
《ID:1290/鍵候補体》
《状態:潜在覚醒中》
《連結率:36%》
彼の指が、液晶をゆるく撫でた。
「……鞍馬がどう出るか、見ものだな」
ガラスの外、都市の灯はまるで生きているかのようにまたたいていた。
だが――それらは全て、千夜の“水”の中に沈む幻想でしかなかった。
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