Scene11:青い果実

――いつの間にか、眠っていた。


隣の翠が気になって、何度も起こさないように顔を覗き込んでいたっけ。


――俺って、本当に心配性だな。でも、ここ最近の周囲で起こる異変――

それは、確実に翠に繋がっている。俺には確信があった。


ぽつん ――――ぽつん ――――


雫が俺の身体に当たっては、静かに流れ落ちていく。


……水か。


地面が揺らぎ、俺の足元から弧を描くように波紋が広がる。


「巳神の巫よ……」

深く重い声が、水の底から響いてきた。


足元には、白い鱗が一瞬きらめく。


――巳神……。


「翠の強大な力は覚醒しつつある。和真よ、そろそろ我がもとに戻れ。共に在れ」

巨大な双眸が、闇の中から俺をじっと見つめていた。


――翠の力……。そうか、漣も、九尾も、安倍晴明も――。


俺は、そんな強い力なんて持っていない。分かっていた。ずっと、心のどこかで。


翠を守っているつもりだった。でも、もう、俺が守らなくても――


俺の気持ちは……エゴだったのか。執着だったのか。独占だったのか。


ぐっと拳を握る。


その足元から、ぬるりと何かが絡みついてくる。

滑るそれは、身を這い上がり、耳元で囁いた。


黒アゲハ蝶が、そっと囁く。


「君が選ばれた巫だって? 本当に望んだの?

 ずっと翠を守るのが君の“役目”だったけど……もう、必要とされてないとしたら?」

俺は振り払うように身体をよじる。


黒アゲハはゆっくりと羽ばたき、ビッ……という音とともに空間に張り付いた。


――いや、違う。蜘蛛の糸だ。


見渡すと、そこかしこに細い糸が絡まり、張り巡らされている。


アゲハは糸に絡め取られ、もがきながら羽ばたいていた。


「ねぇ、可哀そうだとは思わない? これは、和真よ。

生まれる前から翠という糸に縛られ、身動きが取れないあなた自身。」


「そんなんじゃない!」


声が自然と大きくなる。


「そうかな……だって、和真の心はいつも求めてるよ。“俺を見て”って」


見透かされたような感覚が、胸を貫く。


――そうだ。俺は、翠から“必要とされたい”。“隣にいる理由”が欲しい。


「でも、もう翠の隣にいるのは、もっと強くて、美しい存在……君の出番は、もう終わったんじゃない?」


全身が強張った。否定できなかった。

それは、自分を守る唯一の手段でもあった。


「ねぇ、本当は怖いんでしょう?

“守る”という言葉でしか、自分の価値を証明できないことが……」


声の主を見上げた先には、黒アゲハ蝶の群れがうねるように羽ばたき――

やがて、それはひとつの姿へと変貌した。


――――千夜だった。


「私なら、和真を満たしてあげられるわ。

その翠に向けられた歪んだ承認欲求も、独占欲も……」


甘い優しい口調だが、空気が重たくなっていく。


「だって、あなたは“巳神の巫”――水を司る者」


千夜の影が俺に覆いかぶさるように広がっていく。


「さあ、おいで。もう、苦しまなくていいの。私と一緒に――」


その声と共に、足元に何かが転がってきた。


赤く、艶やかな果実――林檎。

光を帯びて輝くそれは、どこか甘く、沈丁花と混じるような香りを放っていた。


千夜はその林檎を手に取り、ゆっくりと俺の唇に近づける。


「あなたはただ、食べればいいのよ。翠のためじゃなく、自分のために――」

沈丁花の香りが、優しく、そして残酷に意識の奥へと忍び込んでくる。


その瞬間、空間にピシリッと亀裂が走った――。


*

カーテンの隙間から、優しい朝の日差しが差し込んでいた。

どこか遠くで、小鳥が鳴いている。

いつもと変わらないはずの朝だった。


――けれど、身体が、動かなかった。


頭の奥に残っているのは、あの夢。

千夜の声。林檎の香り。和真の、呆然とした顔。


(……僕は、和真を……縛っていた?)


「翠。起きたのか?」


隣から、和真の声がした。

いつもと変わらない、柔らかな声。


「……」


「翠……泣いてるの?」


――え? 泣いてる?


指を頬にあてると、髪も枕もしっとりと濡れていた。


和真がそっと手を伸ばしてきた――けれど、


バシッ。


思わずその手を振り払ってしまった。

自分でも、なぜそんなことをしたのか分からない。


和真は、驚いた顔をしていた。


(顔なんて……まともに見られない)


胸の奥が、じわじわと痛む。

気まずさに耐えきれず、翠はベッドから飛び起き、部屋を出た。


ドアの向こうで、静かに息を整える。

(どうして……どうして、こんな空気になってしまったんだろう)


部屋の中では、和真が枕を強く握りしめていた。


「……くそっ」


昨日の夢の残滓が、今も胸の奥をざわつかせる。

そして、それが現実にまで侵食していることに、薄々気づいていた。


(――もう俺は、いらないんじゃないか)


そんな疑念が喉まで上がりかけたとき、

ポン、と机の上でスマホが震えた。


《 Kaleido:今日のアイテム:天秤 》


和真は無言でその文面を見つめた。

胸の奥に、さきほどの夢の言葉がこだまする。


――“君はもう、翠には必要とされてないのよ”


その一言だけが、まるで毒のように身体の内側に残っていた。


「……なあ、翠」


扉の向こうにいる彼に向かって、声をかけかけて――やめた。


「……ん?」


遠くから返ってくる、変わらない返事。


「……なんでもない」


それ以上、言葉は続かなかった。


そして、扉の内側。

翠は小さく――呟いていた。


「和真……。」


……その名を呼ぶようにして、翠は呟いた。


だが、それは祈りでも、恋しさでもなかった。

まるで“盤上の駒に印をつける”ような、安倍晴明の意志だった。


その瞬間――彼の皮膚の上に、うっすらと“影”が落ちた。


まるで墨で描かれたような痣。

羽ばたく直前のカラスの翼のように、黒く、鋭い。


首筋から胸元へと滲むその“印”は、

盤上の駒に刻まれた**“選ばれし者”**の証だった。


朝の光だけが、ふたりの間をゆっくりと満たしていった。

けれど、それは“安らぎ”ではなかった。


ほんのわずかに――綻びは、始まっていた。

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