Scene9:痕跡
月のない夜空。けれどそこは、夜でも空でもなかった。
上下のない空間に、光の盤が浮かんでいる。
金と銀が歪に交差するその盤は、魂の断片を組み替えるように、静かに脈動していた。
盤の中心には、ひどく静かな気配だけが滲んでいた。
空気は動かず、音もなく、ただそこに“在る”ことだけが示されている。
その中心に佇む一人の影――千夜。
空気は密度を増し、見えぬ重さが空間全体を包み込んでいた。
それは“器”に残された痕跡――ただそれだけだった。
「……また、揺れているな」
鞍馬天狗の声が響く。羽織をまとい、面をつけた男は、銀の列の側に立っていた。
その声の奥には、苛立ちと警戒が混じっていた。
「銀の器が脆いだけのことだ」
白き法衣に身を包み、長杖を片手に、盤の金の列に立つ彼の声音は、冷ややかで理を貫く強さがあった。
「感情に任せて選んだ駒が壊れかけているのは、そちらではないか? 鞍馬よ」
「壊れてこそ、命は開く。
お前の“理”は、均衡を保つが、血が通わん。魂は理では動かんぞ」
「……その“血”とやらの暴走が、どれほど盤を濁らせているかを、そろそろ理解する頃合いだ」
両者は盤を挟み、決して近づこうとはしない距離を保ったまま、互いの視線だけが交錯する。
足元の駒たちは、かすかに震え、時折ひとりでに転がった。
金の列の角、ひとつの小さな人型の駒が、その指に吸い寄せられるように浮かび上がる。
彼は、まるで人形を転がすように、白く細い指先で駒をくるくると弄んだ。
すると、盤の底から、かすかに泡立つようなざわめきが立ち上った。
言葉にならない断片の数々が、沈殿した水面から浮かび上がるように耳を打つ。
恐怖、拒絶、哀願――それらはすでに言語の形を成さず、ただ「苦痛の記録」として盤を濁らせていた。
それは、“駒”となった者たちの魂が、なおも静かに呻き続けている証だった。
「この程度の揺らぎで、情など語るな。所詮、人の魂は脆い。だが――使い道はある」
役小角が、わずかに唇を持ち上げた。
「……かつて見捨てたものに、今、盤の鍵を託すとは。滑稽だな、鞍馬よ」
彼はゆっくりと千夜の背後に歩み寄る。
白い指先が、まずその背筋に沿って滑り落ちた。
そして、躊躇なく――指先が千夜の身体へと、ゆっくりと、めり込んでいった。
皮膚を破ることなく、しかし確実にその内部に侵入していく指。
まるで粘土細工に触れるような柔らかさで、喉元から胸元へ、さらに奥へ。
役小角は、わざと鞍馬の視線の延長線上で、千夜の身体を弄ぶように指を這わせた。
あたかも、“あれ”がかつて捨てられた命であることを、思い出させるように。
千夜の身体がわずかに震える。
だが、声は漏れない。顔も上げない。ただその瞳だけが、ひとつ瞬いた。
――いたい、、、。
叫びではない。抵抗ではない。
けれど、“拒む心”がまだ残っていることを、空気が知っていた。
しかし、それを知っていてなお、役小角の指は止まらなかった。
「この器の内側には、“空”がある。詰め物がない分、触れるほどに痛む。
知っておるか、鞍馬? 痛みとは、“形”の証明でもあるのだ。
お前が与えなかった、存在の実感だ」
役小角の声は、まるで古い記憶を読むようだった。
感情も激情もなく、ただ結果だけを刻む行為――
――それが彼にとっての「弄び」だった。
役小角の指先が、肋骨の間をなぞるたびに、千夜の身体がわずかに震える。
皮膚の奥で、なにかが小さく泡立つような音すら、聴こえた気がした。
「……壊れはせぬが、柔らかいな。
まるで、芯まで未熟な果実のようだ」
くすりと笑いながら、彼は鞍馬の方へ視線を流す。
「この器に触れるのは、お前ではなく、この儂だ。
それがどれほど滑稽で、耐え難いことか……少しくらい、感じておるのではないか?」
鞍馬は相変わらず沈黙していた。
千夜の身体から指を引き抜くと、そこには何の痕も残っていなかった。
ただ、空気の密度だけが少し変わっていた。
その指が、らせんを描くように肋骨の隙間を這った。
骨をなぞり、中心へと向かっていく感触は、まるで仄暗い井戸の奥に手を差し入れるような、湿り気と空虚の入り混じるものだった。
見た目には、傷ひとつない。
けれど、千夜の膝がかすかに揺らいだ。
声は出ない。視線も上げない。ただ、無言のまま呼吸が細く乱れている。
対して――鞍馬は動かない。
その面の奥の表情も、言葉も、まったく読めない。
ただの彫像のように、立ち尽くしている。
役小角は、指先をゆっくりと引き抜いた。
抜けた指は、見えない“濡れた膜”に包まれていたような感覚を残している。
彼はその指先を、自身の唇に運び、ぬめる感触を確かめるように舌でなぞった。
「反応が鈍いな……これでも、お前の血の一滴は流れているはずだが」
鞍馬は、やはり沈黙を保った。
否定もしなければ、怒りもしない。
まるで“あれ”が自分の子であることすら、関心の埒外にあるように。
「……まぁ、お前は元より、“感情を持たぬ系譜”だったな」
役小角はくつくつと笑う。
「理も情もない。ただの“力”。
だが――それだけでは、この盤は動かせぬ。
駒には“心”がなければ、命を運べない。
お前は、そうして多くの駒を壊し続けた……違うか?」
空気がぴたりと静まる。
空気は密度を増し、見えぬ重さが空間全体を包み込んでいた。
それは“器”に残された痕跡――ただそれだけだった。
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