Scene8:剣道
乾いた打突音が剣道場に響いた。床板がわずかに震え、すぐ静けさを取り戻す。
夕方の斜陽が窓から差し込み、木造の道場を金色に染めていた。
鳳城高人は稽古着の胸元を正し、無言で面を取る。
額にはうっすらと汗が滲んでいたが、表情に乱れはなかった。
けれどその指先には、微かに力がこもりすぎていた。
落ち着き払って見える仕草の中に、自分でも気づかない焦りがひそんでいた。
「総体に向けて、今日は鳳城先輩が後輩の指導するんだって」
「はあ?……あの袴姿、何度見ても惚れるわぁ……」
道場の出入口には、少しでも鳳城を見ようと女子たちが集まり、色めいた声を上げていた。
だが、その賑やかさとは裏腹に、道場の中は張りつめた空気が漂っていた。
「でも……今日、なんか雰囲気違わなくない?」
「鳳城先輩……ちょっと、怖い感じ……」
濃紺の袴に身を包んだ鳳城には、いつもの柔らかい気配がなかった。
その背中には、どこか近づきがたい冷気が張りついていた。
「多田、おいで」
「は、はい!」
掛け声とともに、模擬試合が始まった。
互いに剣先を見合わせながら、ゆっくりと間合いを詰めていく。
――……ふぅ。俺は、なんでこんなに苛立ってるんだ。
理由は分からない。
ただ、剣を交えるこの時間に、自分自身を押し込めていた。
だが、面越しに見える景色が、ときおり揺らぐように霞んだ。
それは疲労のせいではない。
心の奥底で燻っていた何かが、まるで視神経をも濁らせるようだった。
――……集中できない。
抑えきれない……何かが、内側から這い出してくる。
心臓が、ドクン、ドクンと音を立てる。
――切れ。切れ。切れ――!
頭の中に、誰かの声のようなものがかすかに響く。
自分の意思とは別の“何か”が、身体の奥でうごめいているようだった。
汗がじわりと背筋を伝い、視界の端で影が揺れた気がした。
天窓の外――光が、一瞬だけ黒く遮られる。
風のせいか、それとも……。
お互いに隙を見せまいと、じりじりとにじり寄る攻防。
その緊迫に耐えきれず、多田が竹刀を振りかぶった。
瞬間、鳳城の視界が真っ赤に染まった。
――引き裂いてやる!!!
湧き上がった衝動に身を任せ、鳳城は鋭く竹刀を振り込む。
頭のどこかで、「それは違う!」と叫ぶ声があった。
だが、その声はあまりに遠く、竹刀を握る手にはもう届かない。
乾いた打撃音とともに、竹刀が弧を描いた。
まるで、胴体を真っ二つに断ち切るかのように――
「うっ……!」
多田が床に蹲った。
「一本!」
審判の声が響く。だが、誰の耳にも届いていないようだった。
多田は立ち上がれない。
怯えきった表情で、言葉すら出せず、ただ鳳城を見上げている。
――――恐怖。
その表情を見た瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が広がった。
だが同時に、得体の知れない満足感が、自分の中に巣食っているのを否応なく感じた。
剣先は、いままさに多田の喉元をとらえていた。
もう一打。今度こそ、止めを――
道場は、異様な静けさに包まれていた。
「……おい! 鳳城!」
同期の声が、張りつめた空気を破るように飛んだ。
その声に、鳳城ははっと息を呑み、竹刀を引いた。
何事もなかったかのように一礼し、場外へと歩き出す。
軽く手合わせしただけのはずなのに、胸の鼓動が収まらない。
身体の中心から燃え上がるような熱が、皮膚の奥でくすぶっている。
面を外し、深呼吸をひとつ。
新鮮な空気と共に、どこか甘い香りが鼻をかすめた。
ふと、道場の入口に目を向ける。
さきほどまで騒がしかった女子たちの表情が、恐怖に染まっているように見えた。
――でも、これは怒りじゃない。焦りでもない。
もっと……渇いた、飢えたようなもの――
そのとき、床の上でスマホが震えた。
《 Kaleido:銀の陣、軋む。主よ、均衡を 》
意識が急に現実に引き戻される。
意味はわからなかった。けれど、その文面がどこか自分の深部を見透かしているようで、息が詰まる。
――均衡? 俺は崩れてるのか? それとも……崩れはじめているのか。
鳳城は思わずスマホを握りしめた。
――俺は……何をしている?
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