Scene15:渦巻く

そのときだった。


漣の右側の空間がねじれ始めた。渦が巻き、そこに引きずられるようにして彼の左半身が消えていく。


頬に浮かぶ鳥居の痣が、赤く、まるで焼き付くように輝いていた。


――なにが起きてるんだ。


そこから、にゅっと銀色の鼻先が突き出した。


漣の頬の鳥居から、銀色の毛に覆われた狐の鼻先がゆっくりと出てくる。


やがて頭、前足、そして九つの尾を携えた狐の姿が完全に現れた。


「ククク……本当に、お前ら兄弟は愚かだな」


「漣になにをした!」


僕は狐を睨みつける。


「翠、お前は今も昔も、我が漣を苦しめてきたと思っているのか? 浅はかだな……」


「やめろ!」


漣が声を張り上げる。だが狐は愉悦に満ちたように口を緩め、笑い声を響かせた。


「死にかけたお前が、なぜ痛みを感じていない? 不思議だとは思わないか?

なぜ、双子のお前たちのうち、生き残ったのはお前だけなのか……?」


「やめろ! 翠、聞くなっ!」


「まだ分からないのか。お前が気づかない間に、漣は何度も“お前の代わり”になっていた ただそれだけで、ずっとだ。」


僕の中で、忘れていたはずの記憶がざわめき始める。

そうだ。漣は……僕の代わりに、自らを犠牲にして、僕の内に眠っていた。


今も、僕を生かすために。


チリーン、チリーン……


鈴の音が響くと、老女の姿が空間に浮かび上がった。


乱れた白髪に、汚れた着物。

古い時代の装束を身にまとい、顔は見えない。

だがその両眼からは、強い怒りと憎しみが滲んでいた。


「お前のせいで……あの子らが……騙したな……」


「カラスたちのおかげで魂は集まった。感謝しているぞ」

狐は舌なめずりをしながら笑った。

「だが、もう用済みだ。漣が手に入った。邪魔なカラスも老いぼれも、まとめて消してやろう」


狐は口を開け、その奥に青い渦のような光をため込み――

唾を吐くように老婆へ吹きかけた。


「あっ!」


無数のカラスたちが急降下し、老婆の前に盾のように立ちはだかった。

だが一瞬で焼かれ、無数の黒い躯がバタバタと足元に落ちていく。


焦げた肉の匂いに、吐き気がこみ上げた。

でも、動けない。


恐怖に縛られて、指先ひとつ動かなかった。


狐の瞳が、僕をとらえる。


「ククク……そうだ。恐怖しろ。絶望しろ」


水色だった空間は、重い灰色に染まり始めた。

その邪気が、針のように肌を刺し、僕の身体を貫いていく。


立っていられず、僕はその場に崩れ落ちた。


項垂れた僕を、狐は静かに見下ろす。


「……ふむ? まさか、お前……翠……」


一瞬だけ、狐の目が揺れた。


「漣は手に入った。復活は始まる。お前に用はない」


――にげろ。


漣の声が、僕の頭に直接響く。


でも、逃げられなかった。


生きている僕のために、漣が犠牲になってきた。


それが、耐えきれなかった。


……もう、これ以上、無理だ。


世界の色が一瞬だけ揺れた。


深い水底のような空間に、微かな振動が走る。


――“誰か”が、外から呼んでいる。


「おい、なにしてるんだ。翠。」


背後に、温もりを帯びた気配。


和真の声が、僕を現実に引き戻した。


「和真、和真……漣が……!」


僕の声に応じるように、和真の視線が漣の顔、そしてその鳥居から覗く狐の姿を捉えた。


「……ちっ、想像以上にヤバいな。翠、後ろに下がれ!」


そう言って、和真は胸の前で両手を組み、祈りの言葉を低く唱え始めた。


その言葉に呼応するように、僕たちの周囲に赤い光の輪が何重にも重なって模様を描き、浮かび上がる。


「ククク……そんな結界で、何ができる?」


狐があざ笑いながら低く唸った。


「そんなに遊んでほしいのか? いいだろう――殴り殺してやる!」


漣の頬の鳥居から、狐の身体がぬるりと伸びあがる。


鋭く尖った銀色の爪が、結界に食い込むように迫ってきた。


次の瞬間、爪の一閃が和真の肩をかすめ――


パシャッ、と血飛沫が宙を舞った。


「和真!」


「……平気だ。ここから出るな!」


歯を食いしばり、和真は倒れるまいと両足に力を込める。


「未熟な巫よ。翠を置いて去れ。さすれば、命だけは助けてやろう」


狐の声が、結界の内に響き渡る。


「……翠、逃げろって……! それが一番いいんだ!」


和真の声が震えている。


「……さすが蛇の巫女だな。漣を我に差し出す、その準備を整えてくれたのだからな。ククク……」


「えっ、和真……? 蛇のおかげって、どういうこと?」


狐がニタリと笑い、顔を歪ませる。


「翠よ……本当に、何も知らないんだな。巫は知っていたぞ。お前のことも、漣のことも――始まりからすべてを」


僕はそっと、和真の背に手を添えた。


「やっ、やめろ翠……っ!」


だが、もう僕の手は迷っていなかった。


すっと肌を通り抜けた手のひらが、和真の胸の奥、鼓動する心臓に触れる。


――ドクン、ドクン。


その瞬間、走馬灯のように映像が溢れ出した。


和真の視た過去。彼だけが知っていた真実。


巳神が、どれほどの代償を背負って僕らを繋ぎ止めていたか。


――そうか。最初から、全部……決まってたんだ。


和真も、漣も、僕を守るために犠牲になろうとしている。


「……わかったよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る