Scene16:懺悔

僕は静かに立ち上がった。


乱れた白髪に、汚れた着物。

古い時代の装束をまとい、その顔は、影に沈んで判別できなかった。

だがその両眼からは、強い怒りと憎しみが滲んでいた。


「お前のせいで……あの子らが……騙したな……」


「カラスたちのおかげで魂は集まった。感謝しているぞ」

狐は舌なめずりをしながら笑った。

「だが、もう用済みだ。漣が手に入った。邪魔なカラスも老いぼれも、まとめて消してやろう」


狐は口を開け、その奥に青い渦のような光をため込み――

唾を吐くように老婆へ吹きかけた。


「あっ!」


無数のカラスたちが急降下し、老婆の前に盾のように立ちはだかった。

だが一瞬で焼かれ、無数の黒い躯がバタバタと足元に落ちていく。


焦げた肉の匂いに、吐き気がこみ上げた。

でも、動けない。


恐怖に縛られて、指先ひとつ動かなかった。


狐の瞳が、僕をとらえる。


「ククク……そうだ。恐怖しろ。絶望しろ」


水色だった空間は、重い灰色に染まり始めた。

その邪気が、針のように肌を刺し、僕の身体を貫いていく。


立っていられず、僕はその場に崩れ落ちた。

項垂れた僕を、狐は静かに見下ろす。


「……ふむ? まさか、お前……翠……」


一瞬だけ、狐の目が揺れた。


「漣は手に入った。復活は始まる。お前に用はない」


――にげろ。


漣の声が、僕の頭に直接響く。


でも、逃げられなかった。


生きている僕のために、漣が犠牲になってきた。

それが、耐えきれなかった。


……もう、これ以上、無理だ。


世界の色が一瞬だけ揺れた。

深い水底のような空間に、微かな振動が走る。


――“誰か”が、外から呼んでいる。


「おい、なにしてるんだ。翠。」


背後に、温もりを帯びた気配。

和真の声が、僕を現実に引き戻した。


「和真、和真……漣が……!」


僕の声に応じるように、和真の視線が漣の顔、そしてその鳥居から覗く狐の姿を捉えた。


「……ちっ、想像以上にヤバいな。翠、後ろに下がれ!」


そう言って、和真は胸の前で両手を組み、祈りの言葉を低く唱え始めた。


その言葉に呼応するように、僕たちの周囲に赤い光の輪が何重にも重なって模様を描き、浮かび上がる。


「ククク……そんな結界で、何ができる?」


狐があざ笑いながら低く唸った。


「そんなに遊んでほしいのか? いいだろう――殴り殺してやる!」


漣の頬の鳥居から、狐の身体がぬるりと伸びあがる。

鋭く尖った銀色の爪が、結界に食い込むように迫ってきた。


次の瞬間、爪の一閃が和真の肩をかすめ――


パシャッ、と血飛沫が宙を舞った。


「和真!」


「……平気だ。ここから出るな!」


歯を食いしばり、和真は倒れるまいと両足に力を込める。


「未熟な巫よ。翠を置いて去れ。さすれば、命だけは助けてやろう」


狐の声が、結界の内に響き渡る。


「……翠、逃げろって……! それが一番いいんだ!」


和真の声が震えている。


「……さすが蛇の巫女だな。漣を我に差し出す、その準備を整えてくれたのだからな。ククク……」


「えっ、和真……? 蛇のおかげって、どういうこと?」


狐がニタリと笑い、顔を歪ませる。


「翠よ……本当に、何も知らないんだな。巫は知っていたぞ。お前のことも、漣のことも――始まりからすべてを」


僕はそっと、和真の背に手を添えた。


「やっ、やめろ翠……っ!」


だが、もう僕の手は迷っていなかった。


すっと肌を通り抜けた手のひらが、まるで“記憶という扉”を押し開くように、和真の胸の奥――鼓動する心臓に、触れた。


――ドクン、ドクン。


その瞬間、走馬灯のように映像が溢れ出した。


和真の視た過去。彼だけが知っていた真実。

巳神が、どれほどの代償を背負って僕らを繋ぎ止めていたか。


――そうか。最初から、全部……決まってたんだ。


和真も、漣も、僕を守るために犠牲になろうとしている。


「……わかったよ」


僕は静かに立ち上がった。


結界の外へ、ゆっくりと足を踏み出す。


「九尾の狐よ――今度は、僕の番だ。僕を持っていけばいい」


和真の絶叫が、こだまする。


「翠、やめろ!!」


「ほぅ……面白い。自らを差し出すとはな……」


狐が目を細めて笑う。


「翠でも、漣でも。どちらでも我の復活には変わりはない……ククク……」


狐の傍らには、もう意識を失った漣が倒れていた。


それでも――彼はずっと、こちらを見ていた。


ゆっくりと、一歩ずつ前へ踏み出す。


刺すような恐怖は、不思議と消えていた。


――自分の内側を見るのが、何よりも怖かった。


――――懺悔、後悔、加虐心――――


黒く淀んだ感情が、胸の奥で渦巻いている。


――――自分が消えれば、すべて終わる。


漣や和真を助けたい気持ちよりも、この場から逃げ出したいという思いのほうが強かった。


「やめろーーー! 翠、戻ってこい!」


背後から、和真の叫びが追いかけてきた。


その声に応えることなく、

狐は口角を吊り上げて笑い、大きく口を開けて迫ってくる。


吐き出される生臭い息が、皮膚の奥まで絡みついた。


――ごめん、和真。


振り返ることもできなかった。


僕はただ、両手を広げてそっと瞼を閉じた。


ゆっくりと、一歩ずつ前へ踏み出す。


刺すような恐怖は、不思議と消えていた。




吐き出される生臭い息が、皮膚の奥深くにまで絡みついた。


――ごめん、和真。


振り返ることすら、できなかった。


僕はただ、両手を広げて――そっと瞼を閉じた。


その瞬間を、僕は受け入れていた。


ぐしゃ、と骨が砕け、肉が引き裂かれる音が響く。


「――ああぁっ……」


左腕が根元から噛みちぎられ、吹き出した血が、狐の顔を真紅に染めた。


激痛に意識が霞んでいく。


――これで、いいんだ。


この痛みさえ乗り越えれば、もう何も感じずに済む。


悲しみも、恐れも。


そう思うと、どこか安心すら覚えた。




「……うまい、うまいぞ。我に喰われていく、お前の魂の叫び……」


狐は興奮のまま舌を垂らし、赤く濡れたそれを何度も唇でなぞる。


ねっとりとした唾液が、ぽたりと地面に落ちた。




「絶対に許さない! 許さないっ!!」


和真の怒声が響いた。


だが、狐はその声を嘲るように、今度は僕の右腕に舌を絡めてくる。


ギリギリと螺旋を描くように締め上げ、


皮膚が裂け、血が垂れ、


僕の肉体は、まるで玩具のように、無惨に引き裂かれていく。




――そのとき。


突然、あたりの空気が震えた。


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