Scene14:時間

燃えるような熱さ。


全身から汗が滴り、痺れは増すばかりだった。


一呼吸ごとに喉が焼け付く。

足元を何度も踏みしめる。けれど、進めない。


チリーン・チリーン。


―――いつまで、こうしているんだ?


時間が、恐怖を加速させていく。

いともたやすく、すべてが壊れていった。


意識がだんだんと遠のいていく。

一秒一秒が、こんなにも長く感じられたのは初めてだった。


全身を恐怖が包み、進むことも、留まることもできなかった。


記憶さえ、どこか塗り替えられていくような感覚――

僕のなかに、なにか異質な“恐怖”が流れ込んでくる。




「――あそこに、由奈が!」


「おい! 由奈! そこから離れるんだ!」


僕と和真は、校舎の前に駆けつけていた。


見上げると、屋上のフェンスの外側に、由奈の姿があった。


無数のカラスが、まるで檻のように彼女を取り囲み、飛び交っている。


違う空間に迷い込んだような、異様な静けさと緊張感に包まれていた。

ただ、オレンジ色の夕日だけが、すべてを照らし出していた。




カァーー……魂ヲ……飛バセ……運ベ……




叫んでも、声が届かない。

カラスたちの鳴き声が、意識の隙間をかき乱す。




「翠、ヤバい。由奈はもう取り込まれてる。このままだと……」


和真の言葉が終わるより先に、僕は駆け出していた。




非常階段を一気に駆け上がる。


足が縺れそうになりながらも、息を切らし、屋上の扉を開いた。




そこには――


血に染まった由奈が、フェンスの外側に立ち尽くしていた。


髪は乱れ、瞳には光がない。




カァーーカァーー……


カラスたちがその周囲を、円を描くように旋回している。


耳鳴りのように響くその声は、まるで誰かの命令を伝えているかのようだった。


夕陽の光が、眩しくて、目がうまく焦点を結ばない。




「ともみ……」


その言葉が漏れた瞬間、僕の中に最後の笑顔がよみがえった。


――カフェの窓辺で、笑い合ったあの時間。




「由奈……!」


一歩、また一歩と彼女に近づいていく。


だが、その瞬間――


彼女がゆっくりと、振り向いた。


唇だけが、かすかに綻んでいる。


しかし、その目は――まったく笑っていなかった。


そう思った刹那――


彼女の足が、一歩、宙へと踏み出した。


「だめだ!!」


僕は反射的に身体を投げ出して、由奈に飛びついた。


フェンスを越え、ふたりの身体が空中を舞う。


落ちる。


風が、肌を裂くように吹き抜けた。


そして――あまりにも近づきすぎた地面。



ものすごい衝撃。

アスファルトが、全身を叩きつけてくる。


バキッ――。

自分の身体のどこかが砕けた音が、はっきりと聞こえた。


世界が、一瞬、無音になった。


遅れて、耳鳴りと悲鳴が反響し、鼻の奥に焦げたような匂いが広がる。


視界が赤に染まっていく。

右腕は、折れていた。ありえない方向に。

口から血が溢れ、息を吸うたびに、胸が焼けた。


腹部のあたりに鈍い熱。

服の下を、赤黒いものが染めていく。


でも、不思議と痛みは遠かった。

むしろ、温かさが心地よくさえあった。


少し先。

由奈が、微動だにせず、横たわっている。


「あっ……か、ず……ま……」


霞む視界に、和真の顔。

――泣くなって。


僕のなかで、そんな声が、ふと浮かんだ。




チリーン……チリーン……


水のなかにいるような、透明な世界が広がる。


ふわりと浮くように、身体が揺れていた。


痛みも、苦しみも、もう感じない。

ただ、ここが――懐かしい。


ああ、僕は知ってる。


この寂しさと優しさの入り混じった場所を。


ここは――僕と、漣の居場所。


……このまま、眠っていても――いいよね。


「すい……すい……」


聞き覚えのある声が、何度も僕を呼ぶ。


――僕は……ああ、寝てたんだ。


その声は、漣だった。そっか……漣……。


霧がかったような意識の中、その名前を反芻した瞬間――僕は飛び起きた。


「そうだ、僕は……落ちたんだ! 由奈は!? 和真は……!?」


さっきまで感じていた、骨が砕けるほどの痛みも、折れたはずの四肢も、今はまったく感じない。

だが、確かにあの瞬間、死を覚悟していた。


……ここは、どこだ?


――僕の中、なのか?


声はまだ、呼びかけていた。けれど、姿は見えない。


「漣! 漣っ!」


僕が叫ぶと、空間の中にゆっくりと、漣の姿が浮かび上がった。


「もう、時間がなくてさ。最後に、翠に会いたかった」


透き通るように淡く、消えてしまいそうな姿。


「最後にって……何言ってるんだよ」


漣は口角を引きつらせて、無理に笑おうとしていた。


どこか、何かを堪えているような表情だった。


「俺は……翠が俺を見てくれたことが、嬉しかった。ただ、それでよかったんだ」


「……何言ってんだよ!」


「時間がないんだ……」


「時間ってなんだよ!」


僕はその言葉に噛みつくように叫んだ。漣は目を伏せたまま、小さく「ごめん」とつぶやいた。

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