Scene12:泡は儚い
あの日から――
私の日常は、まるで泡のように崩れていった。
「由奈、今日もいつものカフェでね」
「新作スイーツ出たんだって。一緒に行こ」
ほんの少し前まで、それはあたりまえの時間だった。
温かくて、柔らかくて、何の不安もない、普通の日々。
でも、今は。
その“あたりまえ”が、異様に思えて仕方がない。
目の前に出されたケーキの甘い匂いだけで、吐き気が込み上げる。
猫の動画を見ただけで、背筋がゾワリとする。
朝の日差しも、心を温めてくれない――ただ、まぶしくて痛い。
ともみ、ののか……
大好きだった、はずのふたりの顔を思い出すたびに。
「うっ……ぐ、ぅぅっ……」
胃の奥から、黒い塊のようなものがこみ上げてくる。
同時に、全身を這いまわるような、ぞわぞわとした嫌悪感。
ちりーん……ちりん……
鳴るはずのない鈴の音が、真っ暗な部屋に響いた。
何日もカーテンを閉めたままの部屋。
時計の針の音すら聞こえないほどの、濃密な静寂。
(……私が壊した。全部、私が……)
顔を覆った手が濡れていた。
後悔の涙か、怨念の毒か、それはもう分からなかった。
「でも、あはは……ののかの顔ったら……」
思わず笑いが漏れる。
喉が引きつる。呼吸が乱れる。
――そのとき。背後で何かが動いた。
「……っ」
振り返っても、何もいない。
でも、確かに空気が揺れていた。
ガタン!
閉じたはずの窓が、激しい音を立てて開いた。
風じゃない。意志のある“何か”がこじ開けたような音だった。
その隙間から――無数のカラスが、部屋へと飛び込んできた。
「きゃあっ……! やだっ、やめてぇ!」
翼が肌を叩き、鋭い爪が頬をかすめる。
風切り音が混じるなか、嘴が腕に突き刺さる。
「や、やだ……痛い……ッ」
カラスたちはまるで、私の中に入り込もうとするように、
傷口から何かを引きずり出そうとしていた。
皮膚が裂け、髪がむしり取られ、鮮血がシーツに染み広がっていく。
全身を引きちぎられるような感覚に、叫びもかすれて消えた。
(どうして……どうして私が……?)
そのとき、ひときわ大きな影が、私の上に降り立った。
バサァ……
カァーーーー……!
目を開けた瞬間、大きなくちばしが右目を貫いた。
「ぎ、あぁあああああっっ!!」
目の奥に鋭い痛み。
世界が赤く染まって、視界がぐらぐらと揺れる。
ぐちゃり、と生温かい音がして――何かが抉り取られた感覚。
そのとき、傍に置いたスマホが震え、鈴の音と混じるように着信音が鳴った。
這うように手を伸ばし、画面をタップする。
聞こえたのは、ともみの声だった。
『……由奈? ほんとに、由奈?』
かすれた声すら出ない。
『信じてた。ずっと……信じてた。でも……届いたんだよ。あたしにも、あの画像が。』
『“ともみはパパ活してる”って。……なんで、そんなこと……』
(違う……違う、私じゃない……!)
あの日から――
私の日常は、まるで泡のように崩れていった。
「由奈、今日もいつものカフェでね」
「新作スイーツ出たんだって。一緒に行こ」
ほんの少し前まで、それはあたりまえの時間だった。
温かくて、柔らかくて、何の不安もない、普通の日々。
でも、今は。
その“あたりまえ”が、異様に思えて仕方がない。
目の前に出されたケーキの甘い匂いだけで、吐き気が込み上げる。
猫の動画を見ただけで、背筋がゾワリとする。
朝の日差しも、心を温めてくれない――ただ、まぶしくて痛い。
ともみ、ののか……
大好きだった、はずのふたりの顔を思い出すたびに。
「うっ……ぐ、ぅぅっ……」
胃の奥から、黒い塊のようなものがこみ上げてくる。
同時に、全身を這いまわるような、ぞわぞわとした嫌悪感。
ちりーん……ちりん……
鳴るはずのない鈴の音が、真っ暗な部屋に響いた。
何日もカーテンを閉めたままの部屋。
時計の針の音すら聞こえないほどの、濃密な静寂。
(……私が壊した。全部、私が……)
顔を覆った手が濡れていた。
後悔の涙か、怨念の毒か、それはもう分からなかった。
「でも、あはは……ののかの顔ったら……」
思わず笑いが漏れる。
喉が引きつる。呼吸が乱れる。
――そのとき。背後で何かが動いた。
「……っ」
振り返っても、何もいない。
でも、確かに空気が揺れていた。
ガタン!
閉じたはずの窓が、激しい音を立てて開いた。
風じゃない。意志のある“何か”がこじ開けたような音だった。
その隙間から――無数のカラスが、部屋へと飛び込んできた。
「きゃあっ……! やだっ、やめてぇ!」
翼が肌を叩き、鋭い爪が頬をかすめる。
風切り音が混じるなか、嘴が腕に突き刺さる。
「や、やだ……痛い……ッ」
カラスたちはまるで、私の中に入り込もうとするように、
傷口から何かを引きずり出そうとしていた。
皮膚が裂け、髪がむしり取られ、鮮血がシーツに染み広がっていく。
全身を引きちぎられるような感覚に、叫びもかすれて消えた。
(どうして……どうして私が……?)
そのとき、ひときわ大きな影が、私の上に降り立った。
バサァ……
カァーーーー……!
目を開けた瞬間、大きなくちばしが右目を貫いた。
「ぎ、あぁあああああっっ!!」
目の奥に鋭い痛み。
世界が赤く染まって、視界がぐらぐらと揺れる。
ぐちゃり、と生温かい音がして――何かが抉り取られた感覚。
そのとき、傍に置いたスマホが震え、鈴の音と混じるように着信音が鳴った。
這うように手を伸ばし、画面をタップする。
スマホの画面が一瞬だけざらついて見えた。まるで、何か別の顔が混じっていたみたいに。
聞こえたのは、ともみの声だった。
『……由奈? ほんとに、由奈?』
かすれた声すら出ない。
『信じてた。ずっと……信じてた。でも……届いたんだよ。あたしにも、あの画像が。』
『“ともみはパパ活してる”って。……なんで、そんなこと……』
(違う……違う、私じゃない……!)
――コクリ。
耳元で、何かを呑み込む音がした。
ゆっくりと振り向くと、そこには。
狐だった。
銀の毛並みが湿気を孕み、ねっとりと光を反射していた。
目だけは、底知れない獣そのもので――そこに宿るのは、ただ“欲”だった。
「この目じゃ……あんまり役に立たなかったな。でも、まあまあだったよ?」
ぺろりと舌を垂らし、肉をしゃぶるように笑う。
(……食べたの? 私の、目を……)
『由奈! 返事してよ!』
スマホの向こうで、ともみの声が泣きながら叫んでいた。
けれど、もう返す言葉は出なかった。
私の中に、“何か”が入り込んでいた。
そしてそれは――私の声を使って、笑い始めた。
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