Scene10:胎内

「ママ、行かないで……お願い……」


泣きじゃくる、ふたりの子どもの姿が見えた。


その傍らには、白い服をまとった女性が、まるで眠っているかのように静かに横たわっていた。


しばらくして、一人の男性が現れた。

ひどくやせ細り、肌はくすんで艶がなかった。

けれど、その表情は穏やかだった。


「……そっか、わかった。じゃあ、僕が行くよ」


その男は、泣いている子どもに膝をついて語りかける。


「あのね……漣。これからは、ママを守るんだよ」


今まで泣いていた子どもの一人が、男の手を握って立ち上がる。


「いやだぁぁぁぁ……行かないでぇぇ……!」


もう一人の子どもが、泣き叫びながら声を張り上げる。

だが、手をつないだ二人は振り返ることもなく、ゆっくりと遠ざかっていった。


――キイイイィィン……!


耳鳴りとともに、頭の奥が鋭く痛んだ。

意識が、ふっと遠のいていく――


次に目にしたのは、巨大な白い蛇だった。

男の人と手をつないだ子どもが、その蛇の前に立っている。


その瞬間、蛇は真っ赤な口を大きく開け、二人を丸呑みにした。


恐怖で、僕はその場に凍りついた。


ゴクリ……と蛇の喉が動いたかと思うと、次の瞬間、

血まみれの、半分に引き裂かれた子どもを吐き出した。


――吐き気が込み上げる。

目を背けたかったのに、どうしても視線を外すことができなかった。


残された子どもが、駆け寄ってその身体を抱きしめる。


「……ッ……!」


大声で何かを叫んでいる。だが、声はノイズのように歪み、意味をなさなかった。


―――僕が、翠のなかに入るから

―――お願い…………


その声とともに、子どもの姿がゆっくりと丸い球体に吸い込まれていった。


そして、球体は徐々に溶けていき、跡には小さな身体が横たわっていた。


……僕だ。あれは、僕だ。

なら、さっき消えたのは――漣。


――僕と漣は、双子だったんだ。


気づけば、頬を涙が伝っていた。


そのとき、不意に足元が熱を帯びた。

見ると、僕の下から業火が立ち上っていた。


気づけば、辺りはすでに炎に囲まれていた。


――アツい……!


激しい痛みが、全身を突き抜ける。


そして、その業火の中から、あの銀色の大きな狐が現れた。

舌をだらりと垂らし、口元を歪めて笑っている。


銀色の毛並みは雨を弾くこともなく、ぬめるように光を反射していた。

その尾は、笑うたびにゆらりと揺れ、まるで誰かの記憶をくすぐるように宙を撫でていた。


舌を垂らして笑うその顔は、どこか人に似ていた。

けれど眼だけは、底知れぬ獣そのものだった。

欲と哀しみが同居し、すべてを見下ろすような光を宿していた。


「あぁ、哀れな子よ……まさか自分に“何が宿ってるか”も知らずに、生きてきたのかぁ?」


その声は、どこまでも嘲りを含んでいた。


「漣は俺のものだ――」


耳の奥に響いたその声は、明らかに嘲笑に満ちていた。


僕は絶望のなかで、その姿をただ見上げることしかできなかった。


すると、そのとき――


「お前は、飼い犬だっただろ」


澄んだ、けれど強い響きを持った声が、どこかから届いた。


狐の瞳がぎょろりと回転する。

次の瞬間、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、そのまま霧のように姿を消した。



「やっと……気がついたか?」


額にひんやりとした手のひらが触れ、目を開けると、和真が心配そうに顔を覗き込んでいた。


僕は、和真のベッドに寝かされていた。

心臓がバクバクと早鐘を打ち、全身が汗でぐっしょり濡れていた。


「今のは……夢? ここは……」


―――夢……だったのか?

いや、これは――過去の記憶……?


頭の中が混乱していた。


「大丈夫か、翠。ここは俺の部屋だよ。途中で気を失ったんだ」


和真の声には、いつになく焦りがにじんでいた。


割れるように痛む頭を抱えながら、僕はゆっくりと上体を起こす。


「無理すんなって」


和真がそっと肩に手を添え、支えるように寄り添ってくる。


―――僕は、忘れていたんだ。

漣のことを――――。


「なんて……ひどい……なんてこと……」


口から漏れた言葉は、僕自身の責めのように胸に突き刺さった。

和真は、その動揺を察したのか、僕の目をまっすぐ見つめたまま言った。


「……バカだな。そんなの、言わなくたってわかってるだろ」


その一言に、胸の奥に詰まっていた何かがほどけていくのを感じた。

溢れ出した涙を止めることも、拭うこともできなかった。


しばらくして、和真が温かいミルクを持ってきてくれた。


両手で包むようにして受け取り、ゆっくりと口に含む。

そのやさしい温度が喉を通り、じんわりと身体の芯に染みわたっていく。


少しだけ、落ち着いた。


「和真……話さなきゃいけないことがあるんだ」


僕は、先ほど見た光景――夢とも記憶ともつかないそれについて、ゆっくりと語り始めた。


和真は言葉を挟まず、何度も頷きながら黙って耳を傾けてくれた。

その表情に、驚きはなかった。


「そうだったのか……」


和真は、僕の背中を何度も優しく擦ってくれていた。


「漣は……僕の代わりになったんだ。

僕の中にずっと眠っていて……でも、今は……狐に捕まってしまってる。

助けなきゃ……助けないと……!」


再び、涙があふれ出す。

それは後悔と、取り戻した記憶の重さが押し寄せたせいだった。


「……分かった」


和真の返答は短かったが、そこには確かな意志と決意が込められていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る