Scene9:君は、誰?
暗闇の奥――そこから、何かがこちらへ向かってくる気がした。
何……? よく見えない。
けれど確かに、気配がある。
闇の中で、何かがゆっくりと動いている。
目を凝らしてみる。
それは、確実にこちらに近づいてくる。
怖い。――いや、怖くない?
心の中で恐怖と安堵が交差し、思考がうまくまとまらない。
――お願いだ、誰でもいい。なんでもいいから、助けて。
その「何か」は、ゆっくりと僕のそばへ歩み寄るように近づいてきた。
闇の縁が少しずつ剥がれ、ようやく、その輪郭が見えてくる。
――蝶?
そう、それは蝶だった。
この場の雰囲気とはまるで釣り合わないほど優雅に、ひらりひらりと舞いながら近づいてくる。
黒いアゲハ蝶。
今まで見たこともないほど大きい。
両手を広げたほどの羽を持ち、その羽ばたきには一片の迷いもない。
まるで、初めから僕を目指していたかのように、真っ直ぐに――。
その羽は、夜空を溶かしたような深い黒に、かすかに銀の粒が散っていた。
混乱と恐怖に満ちたはずの僕の心は、その蝶を前にして不思議と静まっていく。
――怖くない。むしろ――綺麗だとさえ思った。
気づけば僕は、その蝶に向かって、ゆっくりと手を差し伸べていた。
――助けて欲しい。
なら、――しようか。
誰のものとも知れない声が、頭の奥に直接響いた。
言葉ではない、感情そのものが流れ込んでくるような感覚。
優しく、どこか人間とは思えない響きだった。
「なんでもいい……! 早く、和真を助けて!」
気づけば僕は、叫んでいた。
胸の奥からせり上がる焦燥と祈りが、そのまま言葉になった。
その瞬間――。
パァンッ!
空気が爆ぜるような破裂音とともに、銀白の閃光が空間を裂いた。
肌が焼けるような熱が頬をかすめ、視界すべてが光に飲まれていく――。
*
シュー……シュー……。
粗く熱い呼吸音が、闇の中から響いてくる。
ぎょろりと光る赤い眼が、こちらを睨んでいた。
それは怒りに満ちた眼差しで、今にも飛びかかってきそうだった。
全身に逆立った銀色の体毛は、どこか神々しい光を帯びている。
喉の奥からは、ぐるる……ぐるると低く唸る声が漏れていた。
ギラリと鋭く光る牙がむき出しになり、口元からは糸を引く唾液がぼた、ぼたと垂れている。
シュー、シューと鳴る呼吸音が、だんだんと近づいてくる。
床に鋭い爪を立て、重たい身体をしならせながら、獣はゆっくりと僕の方へ歩み寄った。
――動けない。
身体が強張り、冷たい恐怖が背筋を駆け上がる。
このまま、噛み殺される。そう思った、その瞬間――
「……いいよ。」
ギギギギギギ……。
あの獣が、和真の身体の上にのしかかっていた“何か”を押さえつけていた。
銀色の毛を逆立て、鋭い爪でその身体を抑え込み、赤い口を大きく開いて噛みちぎり始める。
――ギギギギギギ……!
何かが引き裂かれるたび、断末魔のような悲鳴が空間にこだまする。
噛みちぎられた部位からは、血とも体液ともつかない黒赤いものが勢いよく噴き出し、辺りに飛び散った。
グチャ、グチャ……
肉を引き裂く音が生々しく響き、鼻を突く腐敗臭がその場を満たしていく。
壁や窓、床一面が赤黒く染め上げられていった。
ギギギギギギ……!
僕はその場に座り込んだまま、指一本動かすこともできなかった。
目の前で繰り広げられる惨劇から目を逸らすこともできず、
腹の底からせり上がる嘔気を必死に堪えながら、ただ、震えていた。
――そのときだった。
最後の一撃のような、耳を裂く悲鳴とともに、獣は咥えていた“何か”の一部を、
ふんっと鼻を鳴らして、僕の方へと投げつけてきた。
ぐちゃっ。
胸元にべちゃりと貼りついたそれは、生ぬるく、重い。
ずるりと胸から滑り落ち、足元に落ちた。
僕は、目を向けてしまった。
それは――女の顔だった。
開ききった瞼の奥、充血した赤い眼が、僕をまっすぐに見ていた。
あぁ――
僕の意識は、そこで途切れた。
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