Scene9:君は、誰?


暗闇の奥――そこから、何かがこちらへ向かってくる気がした。


何……? よく見えない。

けれど確かに、気配がある。

闇の中で、何かがゆっくりと動いている。


目を凝らしてみる。

それは、確実にこちらに近づいてくる。


怖い。――いや、怖くない?

心の中で恐怖と安堵が交差し、思考がうまくまとまらない。


――お願いだ、誰でもいい。なんでもいいから、助けて。


その「何か」は、ゆっくりと僕のそばへ歩み寄るように近づいてきた。

闇の縁が少しずつ剥がれ、ようやく、その輪郭が見えてくる。


――蝶?


そう、それは蝶だった。


この場の雰囲気とはまるで釣り合わないほど優雅に、ひらりひらりと舞いながら近づいてくる。


黒いアゲハ蝶。

今まで見たこともないほど大きい。

両手を広げたほどの羽を持ち、その羽ばたきには一片の迷いもない。


まるで、初めから僕を目指していたかのように、真っ直ぐに――。


その羽は、夜空を溶かしたような深い黒に、かすかに銀の粒が散っていた。


混乱と恐怖に満ちたはずの僕の心は、その蝶を前にして不思議と静まっていく。


――怖くない。むしろ――綺麗だとさえ思った。


気づけば僕は、その蝶に向かって、ゆっくりと手を差し伸べていた。


――助けて欲しい。


なら、――しようか。


誰のものとも知れない声が、頭の奥に直接響いた。

言葉ではない、感情そのものが流れ込んでくるような感覚。

優しく、どこか人間とは思えない響きだった。


「なんでもいい……! 早く、和真を助けて!」


気づけば僕は、叫んでいた。

胸の奥からせり上がる焦燥と祈りが、そのまま言葉になった。


その瞬間――。


パァンッ!


空気が爆ぜるような破裂音とともに、銀白の閃光が空間を裂いた。

肌が焼けるような熱が頬をかすめ、視界すべてが光に飲まれていく――。



シュー……シュー……。


粗く熱い呼吸音が、闇の中から響いてくる。

ぎょろりと光る赤い眼が、こちらを睨んでいた。

それは怒りに満ちた眼差しで、今にも飛びかかってきそうだった。


全身に逆立った銀色の体毛は、どこか神々しい光を帯びている。

喉の奥からは、ぐるる……ぐるると低く唸る声が漏れていた。

ギラリと鋭く光る牙がむき出しになり、口元からは糸を引く唾液がぼた、ぼたと垂れている。


シュー、シューと鳴る呼吸音が、だんだんと近づいてくる。

床に鋭い爪を立て、重たい身体をしならせながら、獣はゆっくりと僕の方へ歩み寄った。


――動けない。


身体が強張り、冷たい恐怖が背筋を駆け上がる。

このまま、噛み殺される。そう思った、その瞬間――


「……いいよ。」


ギギギギギギ……。


あの獣が、和真の身体の上にのしかかっていた“何か”を押さえつけていた。

銀色の毛を逆立て、鋭い爪でその身体を抑え込み、赤い口を大きく開いて噛みちぎり始める。


――ギギギギギギ……!


何かが引き裂かれるたび、断末魔のような悲鳴が空間にこだまする。

噛みちぎられた部位からは、血とも体液ともつかない黒赤いものが勢いよく噴き出し、辺りに飛び散った。


グチャ、グチャ……


肉を引き裂く音が生々しく響き、鼻を突く腐敗臭がその場を満たしていく。

壁や窓、床一面が赤黒く染め上げられていった。


ギギギギギギ……!


僕はその場に座り込んだまま、指一本動かすこともできなかった。

目の前で繰り広げられる惨劇から目を逸らすこともできず、

腹の底からせり上がる嘔気を必死に堪えながら、ただ、震えていた。


――そのときだった。


最後の一撃のような、耳を裂く悲鳴とともに、獣は咥えていた“何か”の一部を、

ふんっと鼻を鳴らして、僕の方へと投げつけてきた。


ぐちゃっ。


胸元にべちゃりと貼りついたそれは、生ぬるく、重い。

ずるりと胸から滑り落ち、足元に落ちた。


僕は、目を向けてしまった。


それは――女の顔だった。


開ききった瞼の奥、充血した赤い眼が、僕をまっすぐに見ていた。


あぁ――


僕の意識は、そこで途切れた。


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