Scene8:放課後の異変(2)
その時だった。
ぐわん――。
低い唸りとともに、資料室全体が不自然に揺れた。
「危ない!」
巳藤和真がとっさに僕を庇い、二人して床に身を伏せる。
天井から吊るされた照明がぐらりと揺れ、金具がギシギシと悲鳴のような音を立てていた。
パキ……パキッ……。
固定具が外れ、照明がゆっくりと傾いたかと思うと――
ガシャァァン!
鋭い破裂音とともにガラス片が四方に弾け、照明が床で砕け散った。
アルミ棚がなぎ倒され、山積みの資料が雪崩のように音を立てて崩れ落ちる。
建物全体が、ピキピキと軋むような音を立てていた。
僕と和真は息を潜め、身を縮めるしかなかった。
パタ……パタ……パタ……。
何かが窓を叩いている。
――この音、知っている。
ぞわりと背筋が凍った。
恐る恐る窓を振り返る。
そこには、赤く染まった掌の跡が、無数に張りついていた。
「ひゃっ――」
短い悲鳴が漏れた。直後、低く響く音が室内に重なった。
ぼぉおおおん……ぼぉおおおん……。
遠くから聞こえてくるような、鈍く湿った鐘の音。
古びた寺の鐘をくぐもらせたような、不気味な残響。
「なんだよ、これ……! 翠、逃げるぞ!」
和真が僕の腕を掴み、立ち上がらせると、扉へと走る。
取っ手を回し、押して、引いて――
「開かないっ!? どうして……!」
「分かるかよ! でも、このままじゃヤバい!」
二人で力を込めて扉を押し開ける。
ギィィ……と重たく唸る音。ようやく開いたその先には、見慣れた放課後の学校の廊下が広がっていた。
ほんのりと差し込む夕陽。音のない静けさ。
「……助かった……!」
胸が一気に緩む。
現実が戻ってきたような安堵に包まれる。
――だが、それはほんの一瞬のことだった。
ズンッ!
空気が重く沈み、背後から押し寄せるような圧力。
何かが「こちら側」へ引きずり込もうとしている――!
「うわっ……!」
見えない力に背を押され、僕たちは資料室の中へと吹き戻された。
バタンッ!
扉はひとりでに閉まり、重々しい音を立てて鍵がかかる。
誰も触れていないのに。
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
天井の隙間からふわりと埃が舞い落ちる。
その軌道が、何か見えない存在の気配をなぞっているように思えた。
――キィィィィィン……
突然、耳の奥を刺すような高い耳鳴り。
その音は、皮膚や鼓膜ではなく、脳の奥に直接流れ込んでくる。
細く、鋭く、意識の輪郭を削るように響く。
僕は両手で耳をふさいだ。
けれど、止まらない。
むしろ、鋭さを増して、内側を蝕んでくる。
気づけば、教室の中は夕闇に沈んだかのような暗さに包まれていた。
「翠、大丈夫か?」
和真が僕の肩を抱き寄せ、顔を覗き込む。
「……うん」
震える声で応じた、その時だった。
ずぅ……ずぅ……ずぅ……。
床を擦るような、湿った音。
何か重いものを引きずるような、異様な足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
それと同時に、鼻をつくような腐臭――
生ものが腐ったような、土と血が混ざりあったような匂いが漂ってきた。
僕は、喉の奥がひくりと引きつるのを感じた。
来る――
“それ”が、ここに来る。
*
ずぅ……ずぅ……ずぅ……
その音は、明らかにこちらに向かって近づいてきていた。
ただの風でも、物音でもない。
それは、湿った肉の塊のようなものを引きずる、重く異質な足音だった。
空気が変わった。
肌にべたりと張りつくような重たい湿気。
呼吸のたび、鼻腔を刺す、生臭く腐ったようなにおい。
胃の底を掻きむしるような悪寒が、背中を這い上がってくる。
恐怖が喉元を絞め、言葉にならない呻きが漏れた。
ずぅ……ずぅ……ずぅ……
和真が、僕を突き飛ばしたのは、その直後だった。
「うわっ――!」
床に倒れ込んだ僕の目の前で、和真の身体に、何かが――絡みついていた。
それは、言葉を拒む存在だった。
ドロドロに崩れかけた肉塊。
部分的に骨が露出し、皮膚は溶けかかっている。
黒い液体が滴り、足元から這い上がりながら、和真の身体を飲み込もうとしていた。
形は定まらず、輪郭はぼやけている。
だが、それを目にした瞬間、直感が告げた。
――これは、“いてはいけないもの”だ。
「翠……逃げろ……早く……!」
和真の必死な声。
それでも、僕の足は動かなかった。
視線も、言葉も、心も――その場に縫いつけられたみたいに凍りついていた。
「……やだ、やだっ……和真っ!」
ようやく意識が戻り、僕は倒れた棚の下に目を向けた。
そこに落ちていた――大型教材の黒板用コンパス。
握り締めたその手が震えていた。
「離れろっ!!」
叫びながら、全力で振りかぶる。
コンパスの鋭い刃が、闇の塊へ突き刺さった――その瞬間。
「ぐっ……あっ!」
――和真の声?
信じられない感触が、僕の腕を通して伝わってきた。
ぬるりとした温度。やわらかくて、あまりにも人間の……肉の手応え。
「……嘘……うそだ……」
僕の手元を見て、血の気が引いた。
刺さっていたのは、怪異じゃなかった。
――和真の太ももだった。
「なんで……どうして……っ!」
足元にまとわりつく“それ”は、痛みすら感じていない。
ただ淡々と、和真を呑み込んでいく。
コンパスなど、意味を成していなかった。
「くそっ……こんなの……どうすれば……!」
握っていたコンパスが、震える指の隙間から滑り落ちた。
小さな金属音が、床に乾いた音を立てて消える。
「どうしよう……どうしよう、和真……!」
言葉は涙になり、喉の奥でうめき声へと変わった。
呼吸がうまくできない。頭が真っ白になって、何も考えられない。
和真はもう、胸のあたりまで“それ”に呑み込まれていた。
目は虚ろで、声もかすかだった。
「……翠……早く……」
お願いだ。そんな声で呼ばないで。
和真が、僕を守ろうとしたのに。
僕は――何ひとつできなかった。
なんで……どうして、僕なんだ。
僕が、こんなにも無力なんだ。
「ああ……どうしよう……どうしよう、和真……!」
ぐしゃりと感情が崩れて、喉から言葉にならない声が漏れる。
逃げたい。
怖くて、怖くて――たまらない。
でも。
でも、和真を置いて、僕は――逃げられない。
助けたい。
どうしても、助けたいんだ……!
胸を焦がすような焦燥。
心の奥をえぐるような恐怖。
無力感に押し潰されそうになりながら、それでも。
――誰か。
誰か……お願い……。
僕の声が、涙が、届くなら。
この手で守れないなら――せめて、誰か……!
「……お願いだ……助けて、和真を……!」
僕はただ、胸の奥で叫んだ。
祈った。泣きながら、喉が潰れるほど願った。
どうか。
どうか、届いて――
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