Scene10:翠


「翠、翠、翠……」

和真は何度も僕の名前を呼びながら、強く身体を揺さぶっていた。

「おい、翠。目を開けてくれ」

必死な声が、遠くから響いてくる。


――和真。僕、今、とても心地いいんだ。もう、このままでいい――


和真が僕の身体を抱きかかえ、声を荒げて叫んでいた。


そのとき、ひらひらと黒アゲハ蝶が僕の額にとまった。


「おい、翠。起きろって。またお前、寝るのかよ」

――誰?――


「お前はまだ、起きていなきゃいけないからな」


その声にせかされ、僕はゆっくりと瞼を開いた。

涙で濡れた和真の顔が、視界に飛び込んできた。


なんだ……和真。どうして、そんな顔してるの。


僕は和真の頬にそっと触れた。

頭のなかはまだぼんやりしていて、状況をうまく把握できない。

和真に抱きかかえられたまま、ゆっくりと首を動かして辺りを見渡す。


資料室は、まるで何も起きなかったかのように、元通りになっていた。

窓からは柔らかな夕日が差し込んでいる。


――夢だったのか……

そう思いたかった。心の底から。


だが、アゲハ蝶は僕の額から離れ、ひらりと横切って少し離れた場所へ舞い降りた。

そして、くるりと旋回したその瞬間――蝶は僕と同じ姿に変わった。


もう一人の僕。

その右頬には、赤い鳥居のような模様が刻まれていた。


「えっ……翠?」


和真の声が震えていた。

彼の腕のなかにいるはずの僕が、もう一人――目の前に立っていることに気づいたからだ。


鏡を見ているような感覚。外見は僕と瓜二つ。でも、どこか違う。

髪の色が微かに淡く揺れ、そして――右目は、あの獣と同じ、深い紅に染まっていた。


「翠が、もう一人……?」


僕自身、何が起きているのか理解できず、思わず呟いた。


「いや、俺は翠じゃねぇよ」


もう一人の“僕”がそう言い放ち、面倒くさそうに腕を組んだ。


「それよりさ、お前ら――こんな歳になってまで、あんなふざけた遊びに手ぇ出すなっての。バカかよ。あれのせいで、こんなことになったんだぞ」


語気を強めて言われ、僕は思わずたじろいだ。


「ふ、ふざけた遊びって……あの、こっくりさんのこと……?」


「ああ。即席の交霊術だな。あれでそこらにうろついてた地縛霊が引っ張られた。しかも女の霊だったからな、和真がよっぽど“タイプ”だったんだろ。連れて行こうとしてた。……まったく、迷惑な話だよ」


そう言って、彼は和真を一瞥し、ため息をついた。


「……そっか。他の事故も、その霊の仕業だったのか……」


胸の奥がずしりと重くなる。僕のせいだ。いや、僕たちの、無知さが招いた結果だった。


「でもさ……お前、一体なんなんだよ」


和真が警戒心を隠さず睨みつける。

あの“九尾の獣”を思い出しているのかもしれない。無理もない。


「まぁ、なんて言えばいいか……俺もまだ“正解の説明”は分かんねぇけどさ。敵じゃねぇよ」


「じゃあなんで、翠と同じ顔してるんだよ」


その問いに、“もう一人の僕”――彼はやれやれといった様子で肩をすくめた。


「それは、まぁ……翠の一部っていうか。俺が助けたのは事実だろ? そんな疑いの目向けんなって。それに――あの狐。借り作っちまったんだ。しばらくは、翠のそばにいる。そういう契約になっちまったわけ」


そう言って、彼は自分の右頬――赤い鳥居の紋様が浮かぶそこを、軽く指先でなぞった。


「はぁ? なんだよ、それ……そんなの、認めるわけないだろ!」


和真が怒気を込めて掴みかかろうとした。だが、彼の腕は空を切る。

もう一人の僕――“彼”の身体はすり抜け、虚しく揺れただけだった。


「そんなに怒んなって。俺には触れらんねぇよ。そもそも、今の俺の姿が見えてんのは、翠とお前だけだからさ」


和真は眉をひそめた。「……狐、って……?」


「それそれ。今の俺は――半分は“狐”のもんだ。見ただろ、翠。あの獣。あれ、俺と狐が合体した姿ってやつ」


「……狼かと思ったけど……」


「マジか、翠。お前しっぽ見てなかった? 九本だよ、九尾。狐の中でも、格が違うやつだ。……ま、細けぇことはいいや。しばらくはお前のそばにいる。よろしくな」


彼は、僕と同じ顔で、どこか懐かしいような笑みを浮かべてそう言った。


「……あの、名前は? なんて呼べばいい?」


一瞬、彼の表情がわずかに揺れる。


「名前……れ……」


何かを言いかけて、しかし途中で口を閉ざした。そして、唐突に笑って言った。


「“紺”でいいわ。狐だから、“コン”。それっぽいっしょ?」


「……分かった。紺。ありがとう」


僕がそう言うと、“紺”はふわりと浮かび、僕の肩に乗った。

透けた身体は輪郭を曖昧に揺らし、どこか儚く見えた。


「それより……和真は大丈夫? 僕、助けようとして……刺してしまって……」


「……ああ。なんともなかった。狐――いや、“あの”狐が助けてくれたらしい。霊も消えたし、傷も残ってない」


和真の言葉に、胸の奥からじんわりと安堵が広がる。


「俺に感謝しろよ、翠」


紺はふわりと浮かび上がると、そのまま僕に抱きついた。


それを見た和真は、真っ赤な顔で紺を振り払おうと両手をバタつかせたが、通り抜けてしまい意味がなかった。


「この野郎、紺。いいか、お前には感謝してるが、翠には何もするな!」


「はいはい」


半ば聞いていないと言わんばかりにあしらいながら、紺はいたずらっぽく笑った。


――ぎょろり……。


翠は気づいていなかった。

頬にかかる髪のおかげで、その全貌は見えなかったが――


紺の右頬に火傷のように刻まれた赤い鳥居の中から、何かがこちらをじっと伺っていた。

ぞっとするほど大きな、真っ赤な目を光らせながら。

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