Scene5:結人

結人は転落後、病院に搬送され、一週間ほどの入院となっていた。

本人は骨折を気にしていたようだったが、診断は軽い捻挫。

ただし、階段で額を打って数針縫う裂傷と、頭部打撲による脳浮腫の疑いがあり、経過観察のための入院だった。


放課後、僕と和真は結人の病室を初めて訪れた。


病棟の廊下はやけに静かで、僕たちの靴音が響くたび、どこか別の世界に足を踏み入れているような気がした。


病室のカーテン越しに、点滴のポンプが不規則なリズムでコクン、と鳴っている。

蛍光灯は少し暗く、白いシーツと無機質な壁だけが無音の空間を支配していた。


「怪我の具合はどう? 結人」


そう声をかけると、ベッドに腰かけた結人がこちらを見て、軽く笑った。


「ありがとう。まぁ、今はこんな感じかな」


包帯で巻かれた額。左足は軽いギプスのような固定具で保護されている。

表情に痛みはなさそうだが、目の奥に少しだけ疲れが滲んでいた。


「痛みは治まった? ほんと、あの時はびっくりしたよ」


「いや、俺も落ちた瞬間は“あ、死んだ”って思った。骨に異常なかったから、たぶんすぐ戻れると思うよ」


その明るい笑顔に、僕たちはようやく胸を撫でおろした。


「猿も木から落ちるってやつか? 運動神経いいのにな」


「ほんとだよ。倒れてるお前見た時、どれだけ心配したと思ってんだ」


「はは、ごめんごめん」


おどけた調子の返事に、ほんの少し場が和む。

僕はそのタイミングで、預かっていたスマホのことを思い出した。


「そうだ、結人のスマホ、僕が拾ってたんだ。遅くなってごめん」


鞄から取り出して手渡す。


その瞬間――

室内の蛍光灯が、カチッと音を立てて、ほんの一瞬だけ明滅した。

スマホの画面にも、ノイズのようなうっすらとした“手の跡”が浮かんで、すぐに消えた。


……気のせいかもしれない。

でも、和真がすっと眉を寄せ、結人のスマホをじっと見つめていたのを、僕は見逃さなかった。


「結人……?」


無言のままスマホを見つめていた結人が、ようやく口を開く。


「……あのさ。まぁ、変な話に聞こえるかもしれないけど」


視線を落としたまま、ぽつりぽつりと語り出す。


「部活に向かう途中で、スマホが鳴ったんだ。画面を見たら、真っ黒で……何の通知もなかった。なのに、その黒い画面が……ぬるりって、盛り上がってきたんだ」


僕たちは言葉を失う。


「気味が悪くて後ずさろうとしたら……足首を、何かに掴まれて……。引きずられる感触があったんだ。リアルに……」


ベッドに座る結人の両手が、わずかに震えていた。


「医者にも親にも、頭を打って錯乱したんだって言われた。でも、俺、絶対にあれが“現実”だったって分かるんだ」


その真剣な訴えに、僕たちは黙ったまま顔を見合わせた。


「……何かって、何?」


と僕が問いかけると、結人は少しうつむいたまま首を振った。


「わかんない。でも“いる”んだよ、そういうのが。今も近くにいる気がする……」


室内の空気が、じわりと重くなる。


「わかった。信じてるよ。とりあえず今は、しっかり治して戻ってきてくれ」


和真の声は、やけに静かだった。けれどその拳は、膝の上でかすかに握りしめられていた。


「……うん、ありがと」


ようやく表情をゆるめた結人の顔に、少しだけ力が戻ったように見えた。


「――あら、お友達かしら?」


病室のカーテンの隙間から、看護師が顔をのぞかせた。


「すみません、お邪魔しました。もう帰ります」


僕たちは一礼し、病室をあとにした。


***


病院を出たあと、和真は無言のままだった。

僕も言葉をかけようとしたが、口が開かない。


和真の背中を追いながら、僕は歩を進めた。

けれど、胸の奥に、言葉にできないざらついたものが残っている。


静かな廊下の先で、カーテンが風もないのに、ふっと揺れたような気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る